1.戦いのあとに
春の気配を溶かした穏やかな風を纏いながら、薄紫の髪を揺らして世界樹ユグドラシルの幹に口を開けた大きなうろの一つにやって来たウルは、今日も変わらないそこの様子に小さく溜め息を漏らした。
煌めく銀星の瞳が切ない色を宿して見つめる先には、霊王の力のこもった植物たちに囲まれた大きな寝台がある。
「……おはよう、シヴァ」
柔らかな寝台で、緑の蔦に黒の長髪を絡ませて眠っているのは、イスグルアスを倒した日からずっとあの鮮やかで美しい瞳を固く閉じているシヴァであった。
その肌は変わらず冷たく青褪めた様であったが、血色はそれなりに良く、肌艶も良い。
しかし、ゆったりとした白の衣を纏って静かに寝息をたてている姿は、黒を纏って空を翔ていた彼に似合わないとウルは思っていた。
青みがかった黒の艶やかな髪は寝台から流れ落ちるほどに長く、寝台を取り囲む植物たちの腕に緩く掛かっている。彼が眠っている間に随分と伸びた。
そして、その背にはもう、あの美しい漆黒の翼はない。
イスグルアスをテンペスタの矢が撃ち落としたあの日、シヴァの翼が光の中に解けていく様に見えたのは幻ではなかった。
シヴァの魔物としての特徴であった美しい黒翼は、その全体にテンペスタの力と彼自身の精霊としての魔力が巡ったことによって酷く傷つき、彼の背から脱落してしまったのである。
それに加えて、身体が一気に精霊性に傾いたことによってシヴァは冥界の空気に耐えられなくなってしまった。
あの後、気絶したウルとシヴァは、瓦礫の下から何とか抜け出したドローリアの魔法によって地上へ逃がされた。
ハルザリィーンも共に、話し合いのために一旦四人で地上へ逃れたのであるが、彼女たちはすぐに冥界へ戻った。
「私は、ベリシアルの混乱を収めなければならない。だから、戻るわ」
ドローリアの治癒魔法によって何とか目を覚ましたウルにそう言って、薄く微笑んだハルザリィーンは彼の手を握った。
「時間はかかるけれど、必ずベリシアルを安定させる。魔王たちには負けない。もう二度と、悲しみと憎しみに満ちた国にはしないと誓うわ」
陶器の様に白い頬には煤が付き、見事だった紅のドレスは破れて酷い有り様だったが、その真紅の双眸には強い決意の光が灯っていた。
「協力してくれるかしら、ドローリア?」
そう言われたドローリアが首を縦に振って「ええ、喜んで」と答える。ハルザリィーンは宮廷に長くいた彼女を宰相に迎え、魔王たちと衝突する前に帝位に就いた。
今は、地方を治める魔王たちと議論の場を設けながら新しい政治体制を整えている途中であるらしい。
地上に残ったウルとシヴァの元へ、イスグルアスの消滅を察知したエルフの女王スノアリィルが遣わした獅子弓軍の者たちがやって来た。
「いた! 二人とも、生きてる?!」
そう言って長い赤毛を揺らして現れたリンに、ウルは安堵して再び意識を失ったのである。彼らはシリエールに保護され、スノアリィルの助力を得てついにユグラカノーネに帰還した。
兄姉たちに涙と共に迎えられ、霊王ティリスチリスには「よくやり遂げた」と褒められてウルは生きて故郷に帰ってこられた幸せを噛み締めた。
しかしシヴァは目を覚まさなかった。霊王が、彼の身体の回復を促すために世界樹のうろを一つ与え、力を分けたがそれでも彼の目は開かなかった。
ウルは静かに眠り続ける彼の世話をしながら、霊王やスノアリィルの力を借りて精霊と魔物について研究を始め、今日までずっとそれを続けている。
うろの中で、シヴァの目が開きやしないかと視線をさ迷わせながらウルは溜め息を吐く。壁際で蔦の籠に閉じ込められたテンペスタが慰める様にきらりと煌めいた。
「……シヴァ。あの日から、今日で……十二年だよ」
そう言って寝台の横に置かれた椅子に腰かける。ここに来るようになってからのウルの定位置。彼はちらりとシヴァの寝顔を見て持ってきた本を開いた。
「父上や、スノアリィル様、それとハルザリィーン……他にも色々な人たちの力を借りてね、昨日の夜、やっと一区切りついたんだ」
柔らかな縹色の本。表紙には金色で『はじまりの物語』と書いてある。その名の通り、エルフや、精霊、魔物、ユグラカノーネとベリシアル、すべての始まりについて記された本だ。
「ジジが古文書を引っ張り出してきてくれてね、一緒に解読したよ。古代エルフ文字はとても難しかった」
こうしてシヴァに話しかけるのもウルの日課となっている。白い衣の胸元に掛けられた首飾りは、意識を失っている間に無意識に握り締めたらしいたった一枚の黒い黒い羽根。彼に自由を与えた、そしてもう戻らない黒翼の名残である。
「君に、読んでほしいな……」
祈る様にそう呟いて、ウルは自分が書いた本に目を落とした。流麗な文字の並ぶページが、すぐに滲んだようにぼやける。
ウルは目一杯に涙を浮かべて、それを溢すまいと唇を噛み締めていた。
シヴァがもう二度と目覚めないのではないかという不安、家族の輪の中で確かに嬉しさを感じながらもどこか満たされないという空虚な心地……
「っ、早く、起きてよ、シヴァ……」
こうなっては本を読むことなど到底無理だ。ウルは目許を乱暴に拭って本を寝台の端に置く。
「ごめん、今日は、もう帰る」
拾い上げる気持ちにもならず、ウルは縹色の本をそこに置き去りにして木のうろを出ていった。
(きっと……君が目を覚ましたら、僕はやっと、この勝利を喜べるのに)
世界のすべてが、予言の通りに新しくなって進もうとしている中で、ウルとシヴァだけが停滞している。火枝宮に向かう間、ウルはずっと目許を拭っていた。
そんな彼の声は、今日この日に、春風の尽力によってようやく届いたらしい。
ぴくりと震えた指先は、やがて傍らに置き去りにされていた本の表紙を優しく撫でた。




