第28話.巨影の黒
イスグルアスが姿を変えるのに使ったらしい大量の魔力の影響か、玉座の間が白い煙で満たされる。
そして、ウルたち四人は白い煙の向こうに揺らめく巨影を見た。直後、その巨影は重々しく、まるで皇宮全体を揺るがすように動き、白煙を払いながら一歩進み出る。
「っ……」
足音は地響きに等しかった。ウルはその巨影から目をそらさぬまま息を呑み、ウラヌリアスを強く握る。
(大きい……一体、どんな姿を……)
巨体が動いて生まれる風に流される白煙が、鎧の様な甲殻に引っ掛かって細くたなびいていた。
まずはっきりと見えたのは、硬そうな黒鱗に覆われ、鋭い深紅の爪を生やした大きな前足。そして白煙の向こうから完全に現れた高く聳え立つ鋭峰の様な巨躯。
生え揃った黒の甲殻は鈍く光る鎧そのもので、長い首に太い足、それから鋭く尖る尾の先までを覆っていた。
ばさりと広げられた両翼は蝙蝠のものによく似ていたが、それとは比べ物にならないほど大きく、先端は鋭利な刃物の様である。
王冠に代わり、その頭を飾るのは上方へ向けて緩やかに湾曲しながら伸びた一対の黒い角であった。
そして、遥かな高みから四人を冷たく見下ろす血の様な深紅の双眸だけが、先程までと何も変わらなかった。
漆黒の巨竜イスグルアス。邪悪な魔力を宿した冥界の皇帝のもう一つの姿。
『どうだ、これが余の真の姿だ。恐怖で声も出まい』
竜となったイスグルアスが轟く様な声で言って嗤う。それだけで地が震えるようだった。
(硬そうだな……)
イスグルアスの巨体を観察しながら黒剣を握り直したシヴァは、そっと腰の背中側に吊るしたテンペスタに触れる。そろそろこれを使うべきだろうか。
(……いや、生半可な矢じゃ弾かれて終わりだろうな)
考え、すぐに首を横に振る。霊具の前で非常に攻撃が当たりやすい巨体に転変するほどだ、余程防御力に自信があるのだろうと思った。
ドローリアが緊張から唇を噛む。リリー=ローズが短剣を捨て、靴の鋼鉄の踵をカツンと鳴らした。
そしてその隣で立ち竦むハルザリィーンであったが、実の娘である彼女もまた彼のこの姿を知らなかったようで、蒼白な顔で巨竜を見上げている。
(肌を刺す様な威圧感……恐ろしく邪悪で膨大な魔力を感じる……こんな力を隠していたなんて)
思わず震える手をぎゅっと固く握り締めた。イスグルアスに怯える己を心の内で叱咤する。
(怯えては駄目。私は皆を守る。落ち着くのよ……)
彼女は大きく息を吐き、微かに頷いた。
ハルザリィーンがそうして震える手を握り込むのを横目で見たウルは、銀星の双眸でイスグルアスを見て思考を巡らせる。
(油断しちゃ駄目だ。少しでも気を抜けば隙を突かれる。そしたら、きっと一撃で終わり……どうする、何か有効な魔法は)
ウルがそう考えた直後、イスグルアスが再び一歩を踏み出した。
『己が愚行を悔いながら死ぬがよい!』
言葉と共に大きく開かれる赤の口腔。その前に展開した黒橡色の五重の魔法陣。
それがカッと光を放った瞬間、シヴァは床を蹴りイスグルアスに突撃した。ハルザリィーンが展開した盾の後ろでウルは霊杖の頭をイスグルアスに向ける。
「風よ!!」
薄紫の魔力粒子の群が吹き荒れる風に変じた。イスグルアスが放った直線の光撃を少し妨げつつ、宙を駆け抜けるシヴァの翼を助ける風だ。
吐き出された黒い光線はハルザリィーンの盾を勢いよく焼く。押し負ける、と判断したハルザリィーンは横に飛び退った。
盾を焼き尽くした光線は轟音と共に床に直撃。激しく床材を散らしながら、赤々と焼けて溶けた跡を残す。
そこで、風に乗って低空からイスグルアスの頭の位置まで一気に駆け上がったシヴァが剣を振り上げた。
光の尾を引く様な濃紫の目と、底冷えする深紅の目が視線をぶつけ合う。
『何度も同じ手が通用すると思うな』
次の瞬間、振り上げられたイスグルアスの長い尾が長鞭の様にしなり、シヴァを痛烈に打ち据えた。
「っ、ぐぁっ!!」
物凄い勢いで玉座の間の壁に激突するシヴァ。砕けた石材にめり込んで、彼は激痛に呻いた。
肋骨が折れた様で痛みはいっこうに引かず、シヴァは咳き込みながら血を吐く。テンペスタは無事だが、翼はいくつかの骨が折れたようだ。
(まずいな……一撃が重すぎる)
彼の様子をイスグルアスが見て嗤っている。シヴァはそれを睨み、壁から身を引き抜くために力を込めた。
パラパラと崩れた細かい石片が黒髪の上に落ちる。この身が潰えたとしても、イスグルアスを討たねばならないのだ。
その間に、ウルは純粋な精霊の魔力を練った水魔法を編み上げる。涼やかな風と共に渦を巻いて、高々と伸び上がっていく清水。次第に変じていく水は、やがて清らかな乙女の姿をとる。
『ほほう。冥界で、よくもそれだけの魔法を行使するものだ』
そう言うイスグルアスの巨躯にも負けない程の大きさになった青い水の乙女を従えて、ウルはウラヌリアスを振るった。
玲瓏と、玉の触れ合う音が響く。溢れる様な水流の音も涼やかに、水の乙女は拳を握り締めた。
「行けっ!!」
シャンッと霊杖の先をイスグルアスへ向ける。水の乙女が波立つ湖面の様な衣装の裾を引いて一歩進んだ。
『面白い』
イスグルアスはそう言って前足を浮かせて水の乙女を迎える。両者の手がぶつかり合って、黒竜の持つ熱量に清水の肌はすぐに蒸気を上げ始めた。
しかしウルは魔力を注ぎ続ける。イスグルアスも負けじと魔法陣をいくつも展開してウルを妨害しようとした。
禍々しさに似合わず流星の様に降ってくる鮮やかな緑青の炎たちは、身体ではなく魂を直接焼く魔法である。それに紛れて飛んでくる紫紺の蝙蝠は、空間ごと肉を喰らう魔物だ。
「ウルーシュラ!!」
「これくらいなら平気だよ!」
盾を、と叫ぶハルザリィーンに首を振って見せる。このくらいの妨害ならば、ウルの展開する防御魔法陣でも防げるし、ハルザリィーンの魔力は無限ではない。
時折、防御をすり抜けた風刃が肌を裂くがこれくらいどうと言うことはなかった。
水の乙女とイスグルアスは、お互いの両手を真正面から掴み、ぎりぎりと押し合っている。
イスグルアスは圧倒的な熱量でもって水の乙女を蒸発させていくが、ウルは魔力供給の手を緩めずに、欠けた部分をどんどん再生させていく。
水は切り裂けず、穴も開けられない。一息に蒸発させるしか無いが、ドローリアの操る屍による妨害によって攻撃に集中しきることもできず、イスグルアスは苛立っていた。
そして何より、精霊の魔力のみで編み上げた魔法が蒸発することで彼の周囲の空気中に満ち溢れ、呼吸するだけでイスグルアスにダメージを与えていた。
その巨躯に相応しく、城塞の如し頑強さを持つイスグルアスであったが、体内の肺腑を直接侵食する様な攻撃に対しては耐性が低い。
しかもそれは生物としての魔物の天敵である精霊の魔力である。次第に強くなっていく体内の痛みにイスグルアスは怒り、吼えた。
イスグルアスの体内に集中する膨大な魔力の気配。それを察したウルは水の乙女に全力で魔力を注ぎ込む。ハルザリィーンは盾を構え、ドローリアはようやく壁から抜け出したシヴァの前に防御魔法陣を展開した。
『ゴオォォォッ!!』
咆哮。攻撃を包み込もうと覆い被さる水の乙女を一気に蒸発させ、空気中のウルの魔力すら食い尽くし、それだけでは留まらずに広がる爆炎。
ハルザリィーンの盾もドローリアの防御魔法陣もすぐに破壊され、四人は瓦礫と共に吹き飛ばされた。
全身を苛む激痛、離れていこうとする意識を意志の力でなんとか繋ぎ止めながら、床に伏していたウルは顔を上げた。
先ほど立っていたところから、この広い玉座の間の入口の方まで飛ばされてしまったようだ。瓦礫に埋もれた扉がすぐ近くにある。
イスグルアスが爆発させたのは単純な炎の魔法であったが、無尽蔵と言っても過言ではないほどの魔力を有する者が憤怒に燃えて放ったそれは、恐ろしいほどの威力であった。
天井はほとんど崩れ落ちて紅の空が見えている。床も壁もぼろぼろ、壮麗であった玉座の間の面影は少しも残っていない。
そんな破壊の中心に、黒い巨竜が立っている。全身から、ウルの最後の足掻きで放った水魔法の成れの果てである白い蒸気を上げながら、黒の甲殻の隙間に赤々と熱光を点して、イスグルアスは燃える様な深紅の双眸で辺りを睥睨していた。
その左前足の下に、シヴァを捕らえて。
「ッ、シヴァ、う、げほっ、シヴァ!」
『憎き愚弟アラドリスの息子。貴様はここで、その忌々しい血と共に死ね』
「っ、くそ……」
シヴァは頭から血を流し、左の翼は折れているようだったが、右手に剣を左手にテンペスタを握り締めて抵抗していた。しかし刃は届かず、弦を引くこともできないでいる。
そんな絶望的な状況を見て、ウルは立ち上がろうと必死に藻掻いた。
(駄目だ、こんなところで、シヴァを失うわけにはいかない!)
ウラヌリアスに魔力を巡らせ、身体にのし掛かっている瓦礫をはね除けた。震える足を叱咤し、立ち上がってすぐにガクッと膝をつく。
『無様なり』
そう嗤って、イスグルアスは足に力を込めた。
「ぐぁぁっ!!」
シヴァの身体を巨竜の前足が押し潰そうとしている。シヴァは必死に抗いながらも骨を踏み砕かれゆく激痛に叫ぶ。
「駄目だ、やめろぉぉっ!!」
彼を失うかもしれないという恐怖がウルの足を動かした。ウルは叫びながら、残っていた魔力をかき集めて魔法を放つ。
鮮やかに弾ける青の閃光。霊弓テンペスタに宿った、シヴァの母の生まれと同じ雷の一葉の輝き。
それが青い猛禽の姿をとり、愉悦に嗤っているイスグルアスの前足に真っ直ぐ飛び掛かっていった。
魔力不足で霞む視界に閃く青を、ウルはぐらりと倒れながら見ていた。