第27話.皇帝イスグルアス
パッと散った鮮血。それはハルザリィーンの盾から舞い散る鮮やかな紅薔薇の花弁によく似ていた。
「ぐっ……」
呻いて右目を黒い手甲に覆われた右手で押さえたイスグルアスは、追撃を、と剣を握り直したシヴァを左目で睨み、左手から溢れさせた魔力で乱暴に振り払った。
全身に鋭く突き刺さろうとする不可視の魔力を黒翼を広げた宙返りでひらりとかわして、シヴァはウルの隣まで後退する。
イスグルアスの血を見て、ドローリアがハッと動きを止めた。そんな彼女の様子にシヴァは溜め息を吐く。
「落ち着いたか」
「……ええ、ごめんなさい。わたし、周りが見えなくなって……」
「いい。それに、その気持ちも分かる」
きゅっ、と衣の端を握り締めた彼女の手にハルザリィーンの手がそっと触れる。
「私たちがいるわ、ドローリア。協力し合えば、きっと大丈夫よ」
「ハルザリィーン様……」
さらりと溢れた金の髪を耳に掛けて、ハルザリィーンは柔らかく微笑んだ。ドローリアはしばらく泣きそうな顔で目を瞬いていたが、やがて大きく息を吐いて頷く。
「ええ、わたしはもう、一人じゃない」
倒れ伏していた屍たちがゆらりと立ち上がる。薔薇の香りを振り撒く魔力の糸が彼らの四肢に力を込めていく。
その向こうでイスグルアスが玉座から重い腰を上げた。右目と右頬に開いた傷は緩やかに塞がり始めていたが、流れ出た血が黒い鎧の胸部を濡らしている。その目には怒りの火が燃えていた。
「行くぞ」
シヴァの言葉に三人が頷いた。ウルの霊杖の石突きが床を強く打つ。シャンッと鳴り響く涼やかな玉の音に乗せて、玉座の間に満ちた魔力が様々な形をとった。
「僕が防御を切り崩すよ」
その言葉を受けて、浮かんでいた紅蓮の炎が翼竜の形となりイスグルアスに襲いかかる。その発射と共にシヴァが細かな瓦礫の転がる床を軽やかに蹴った。
ドローリアが細い腕を振るう。屍たちが一斉に床を蹴り、立ち上がったイスグルアスのもとへ殺到した。
「おのれ……貴様ら、楽に死ねると思うなよ!」
イスグルアスが吼えた。血に濡れた右手で空を薙ぐ。溢れ出す無尽蔵の魔力が宙に満ち、ウルの魔力とぶつかり合って火花を散らしながら大量の魔法陣に姿を変えた。
周囲に展開した魔法陣たちの放つ光がイスグルアスをよりいっそう禍々しく照らしている。
「来るよ!」
赤黒い魔法陣の中央に魔力が集中、次いで全ての魔法陣から干からびた黒い手が突き出される。
爪の長い黒い手はひどく骨張って荒れており、地の底から這い出そうとする死者の手の様であった。
「あの手に触れては駄目よ!」
暗紅色の目でそれを見たドローリアが警告する。その声に三人が頷いた瞬間、獲物を求めて細い指をざわざわと動かしていた黒い手たちが一気に伸びた。
まるで黒い蛇の様に、しなやかに音も無く素早い動きで、不気味な手の群は四人を襲う。
宙を舞うシヴァは風を切ってそれらを避け、時に剣で斬り払っていた。夜空から降る月光の様な掴みどころのない動き。黒い翼は風を捉えて離さない。
ウルは神聖な白い炎を辺りに撒いて、迫りくる黒い手を燃やしていた。精霊の魔力に当てられて、対極的な闇の力は金属が触れ合って軋む様な音を立てて消えている。
「数が多いわ……」
まるで踊るような軽やかさで両腕を振るい、盾を展開して黒い手を防ぐハルザリィーンはそう呟いた。
彼女の魔力には攻撃の術が無い。この黒い手が、触れたものの命を吸い取るものだと知っていても、対抗できる魔法は使えないのである。
それに歯痒さを覚えて、上段に立つイスグルアスを睨んだ。彼はハルザリィーンを見てはいなかったが、黒い手は彼女のもとにも殺到している。
(あの魔法を、根源から封じられたらいいのに)
そこへ、ドローリアが操るリリー=ローズが飛び込んできた。
鋼鉄の靴を履いた軽やかな屍乙女は、肩に触れる青の髪を翻しながらイスグルアスに短剣を投げる。
防御魔法陣に突き刺さる銀の短剣。イスグルアスは「雑魚め」と言って一瞥すらしない。解除された防御魔法陣、床に落ちる短剣。
それを見て、ドローリアが薄く微笑んだ。
「ローズ=リリー!」
ひらひらと跳躍、宙返りを繰り返しながら短剣を投げ続けているリリー=ローズの背後で魔導書が繰られる。赤髪の屍乙女は開いた右手をイスグルアスに向けた。
黒い手が壁を、床を破壊する轟音と絶え間なく散る瓦礫の音の中、宙を走る魔力。途中で鮮やかな銀の光に転じたそれは、床に転がったままの、何本もの短剣に飛び込んだ。
「っ!!」
全ての短剣が溶ける様に姿を変えて、瞬く間に、穂先を上にした長槍に転じた。
その中心に立っていたイスグルアスは、突然足元から伸びてきた槍に腕を、足を貫かれて目を見開く。一瞬のことに反応もできなかったようだ。
魔力で強化されているらしいイスグルアスの身を貫くため、大量に魔力を注ぎ込まれた槍たちはその一撃で力を失い、短剣に戻って粉々に砕ける。
イスグルアスは呻きながらよろめいて後退ろうとした。しかしそこへシヴァが飛び込んで剣を振り下ろす。
「ぐっ……!」
「おらぁっ!!」
左の手甲で受け止めたものの、次の瞬間にシヴァの黒剣が勝った。気合いと共に押し込まれる刃。イスグルアスの左腕が切り落とされる。
「っ……!!」
シヴァはイスグルアスから五歩の距離に着地した。術者であったイスグルアスが集中を欠いたことにより、黒い手たちは姿を消す。
上座から転げ落ちて、床に血を撒く黒い手甲に覆われた腕。指が一本足りないそれには、四つの指輪がぎらりと光っていた。
シヴァは藍色の目を細め、赤く濡れた剣を振って血を払う。
肘から先が無くなった左腕を押さえ、呻いていたイスグルアスは、ぎらぎらと光る深紅の目でシヴァを睨み付けた。その双眸が宿す光の凶悪さにウルは少し震える。
「許さぬ、許さぬぞ、貴様ら……しばし戯れ合ってやろうと思っていたが、もう終いだ!!」
イスグルアスはそう叫んだ。直後、床に転がっていた彼の左腕の指が動き、四つの指輪の紅玉が禍々しい紅い光を放った。そして玉座の間の荒れた天井に紅い魔法陣が姿を現す。
それを見てハルザリィーンが青い顔をして「そんな!」と叫んだ。
「ハルザリィーン、君は、あれが何か知っているの?」
「あ、あれは、五つの指輪に予め込めておいた魔力で作り出す、死を撒き散らす恐ろしい呪いよ……私の盾では止められないわっ、どうしよう」
怯えた顔で天井の魔法陣を見上げるハルザリィーン。ウルも魔物特有の魔法には詳しくなかったが必死に頭を巡らせ、緩やかに回転する魔法陣を睨んだ。
一つ、また一つと魔法陣の中に小さな魔法陣が描かれ、魔文字で構成された線で繋がれていく。
「でも、指輪は四個しか……」
「どこにあっても、余が使わんとすれば応えるのが道具と言うものよ!!」
足りない五本目の指は、以前シヴァが切り落とした小指。ウルは、ついに四つ目の魔法陣を書き込まれた巨大な魔法陣を見上げながら必死に記憶を掘り返す。
そこで突然、嗤っていたイスグルアスが怪訝な顔をした。
「む……何故だ、何故応えぬ?!」
そしてウルは思い出した。冥界に踏み込んですぐ、シヴァの育った赤蝶の森で拾い上げた紅玉の指輪。ここに置いておきたくないと彼が言い、自分は――――
「無い、無いではないか!! 何故だ、何故だ!!」
四つ目を描いたところでピタリと構築が止まった魔法陣を見上げ、右手で頭を抱えたイスグルアスが叫んだ。
そして、その指輪について思い出したウルも叫んだ。
「僕が壊したんだった!!」
イスグルアスが目を見開いて、そして顔を歪めてウルを睨み付ける。
「何だと貴様! おのれ、忌々しい霊王の末子が……!!」
目を真ん丸にして、口を開けていたウルはイスグルアスにぶつけられた威圧と魔力の波動にビクッと肩を揺らし、ウラヌリアスを握り直した。
鎧を鳴らしながら、イスグルアスが一歩ずつ上座を下りてくる。シヴァが剣を構え直し、ドローリアがハルザリィーンを守るように屍たちを引き寄せた。
「貴様らには……余の最高の力をもって死を与えよう……」
次の瞬間、イスグルアスの黒い鎧に滅紫の光の筋が幾つも走り、暴竜の甲殻の如くバキッと起き上がった。
「な……」
その光景にシヴァが言葉を失う。
溢れ出る魔力によって吹き荒れる暴風を巻き起こしながら、イスグルアスの姿が緩やかに、しかし間違いなく、何か、巨大なものへと変じていった。




