第26話.怒りと共に
緊迫感が漂う中、四人はついに皇宮ナースゴルド最奥、玉座の間に踏み込んだ。
「来たか……」
「!!」
そして掛けられた重々しい地鳴りの様な声に、シヴァはゆらりと藍色の目をそちらに向け、ハルザリィーンは弾かれた様に顔を上げる。
直後、四人の背後で扉が大きな音を立てて閉まった。ウルはビクッと震えたが、ウラヌリアスを握り締めることで振り返らずに前を向く。ドローリアは目を見開き、そして憎々しげに顔を顰めた。
広々と、いっそのこと寒々しいと言っても過言ではないほどに物がない広間であった。ピリピリとした冷たい空気に満ち、豪奢な照明が降らす明かりすら肌を刺す様に感じられる。
白と黒の四角い石を交互に並べて作られた見事な意匠の床に、血の様な赤い絨毯が真っ直ぐ敷かれている。その先には艶めく黒岩から削り出し、磨き上げた五段の階段があり、最上に翼竜を模した装飾の金色の玉座が鎮座していた。
ここは皇帝の権威を示すためだけに作られた部屋だ。誰の目にも明らかなその事実は、谷の底より昏くて、焼けた鉄で刺す様に苛烈で威圧的だった。
そして金色の玉座に、地の底に眠る邪竜の様な暗黒を深紅の双眸に宿した皇帝イスグルアスが堂々と座していた。
蝋の様に色の無い白い肌をした顔に白い髭を蓄え、前髪を全て上げて髭と同色のその髪に金の王冠を被った男。
年老いて、皺を刻んで尚端正だと思えるその顔立ちは、柔らかさをまったく感じさせない玲瓏とした硬質さにおいて、彼がやはりシヴァと血の繋がりを持つ者であるということをウルに感じさせた。
禍々しい黄金の王冠にぎらりと光る大粒の紅玉は、感情の温度が見受けられない冷たい瞳によく似て、血の様な重さを持つ冷酷な深い紅色をしている。
手指から足の先までを覆う重厚な黒の鎧に深緋のマントを着けて、退屈そうな顔をした冷酷な老君は四人を睥睨していた。
「アラドリスの息子に、霊王の末子。いつぞやの屍術士に、役に立たぬ裏切り者、か」
「久しぶりだな。俺はお前を倒しに戻ってきた」
「ふん。サガノスと裏切り者の失態で例の計画も頓挫か。まあ良い」
イスグルアスは低く地を這う様な声で嗤う。シヴァは平気な顔をして言葉を交わしているが、ウルはイスグルアスの声の重さに身体が震えてしかたがなかった。
(溶岩みたいな声だ……)
熱い苛烈さと底冷えする残酷さ、そして恐ろしいまでの威圧感を込めた声だった。
ハルザリィーンの顔色は悪い。そんな彼女を緊張した面持ちのドローリアが支えている。
ウルは霊杖ウラヌリアスをぎゅっと握り直した。自分と、シヴァに告げられた予言を思い出す。ついに、ここまで来たのだ。
(僕たちは、ここでイスグルアスを倒すんだ)
緊張から、彼の周囲に漂う薄紫の魔力粒子がふらふらと揺らいでいる。時折雪の一片の様にほろりと解けて、空気に消えていく魔力粒子の姿は、ウルを少しだけ不安にさせた。
「何も起こらぬことにいい加減飽いていたのだ。久々に、楽しめそうだな」
「謀反は死ぬほど嫌いなくせによく言う」
「余を打ち負かすことができる者など存在するわけがない。そのような弱き者が、愚かにも余に楯突こうとするのだぞ。弱者や愚者に一体何ができると言うのだ? 滑稽ではないか!!」
そう言うイスグルアスをシヴァはじっと見つめた。艶めいた藍色の双眸に、隠しきれない怒りの感情から溢れたテンペスタの青雷の色が閃く。
「イスグルアス……」
そこでドローリアが睨み合うシヴァとイスグルアスの間にふらりと進み出た。
白く血の気の引いた細い右手がバキッと音でも立てそうな様子で開かれる。美しく整えられた爪が魔力を帯びて怨嗟の様な暗紅色に染まっていた。
「ティルトリア様を、覚えているか」
魔力の揺れでざわりざわりと色を揺らす双眸は一瞬たりともイスグルアスからそらされない。ハルザリィーンが危険だからと引き留めようとして服の裾を掴むが、ドローリアは振り返らなかった。
「覚えているが、それが何だ? そこの役立たずを産んだ女だ。あまりにも能無しであった故、余が手ずから首を刎ねた」
嘲る様なその答えを聞いて、ドローリアの魔力がぶわりと膨れ上がった。吹き荒れる風に乗る黒薔薇の香、ほの暗い黒の魔力粒子が死者を操る糸を引く。
ピシリと床石にひびが走った。彼女を中心に、玉座の間の空気がどんどん冷えていく。ウルは白い息を吐きながら、ドローリアを止めなければと焦った。
「許さない」
そう言って、ドローリアは両手をバッと広げる。不可視の糸に吊られて赤と青の屍乙女が姿を現した。そしてその周りにも、濃密な死の気配を鎧の如く纏った屍たちが立ち並ぶ。
「ドローリアッ、待って、先走ったら危ないよ!!」
ドローリアが振る手の動きに合わせ、一斉にイスグルアスに襲いかかる屍の群。ウルの声は、荒れ狂う魔力の中でイスグルアスしか見えていないドローリアには届かない。
それを見ていたシヴァが舌打ちをしてウルとハルザリィーンを振り返った。ドローリアが起こす風に結った長髪があおられて目にかかるのを乱暴に押さえながら「仕方がない!」と声を少し大きくして言う。
「あいつは止まらないし止められない。なら一緒に戦うしかないだろう!」
「分かった!!」
「ええ!!」
二人が答えたので、シヴァは前に向き直り走り出すと軽やかに床を蹴った。美しく力強い黒翼を広げて、宙ですらりと黒剣を抜き払う。
イスグルアスは玉座から立ち上がることもせず、指先一つで防御魔法陣を展開し、屍たちの激しい攻撃を難無く防いでいる。
血の通わぬ冷たい数多の拳が、今までに幾つもの命を奪ってきた武器たちが、多種多様の魔法が、赤黒い防御魔法陣にぶつかって削り合う様な音を立てていた。
実際に拳を削り取られて腕を潰された屍は、しかしそれでも退かない。激しい怒りと憎悪に心焼かれ、同時に何体もの屍を操っているドローリアに、屍の損傷を気にかける余裕はなかった。
それは、屍を愛する常の彼女ならば有り得ないことだった。
屍に紛れて、シヴァは黒剣を振るう。最初からテンペスタで――魔物に対して確実な致命傷を与えることができる霊具で、戦う方が理に適っているのだが、育ての親の形見であるこの剣で、イスグルアスに一太刀浴びせなければ気が済まなかった。
ローズ=リリーが放った砂嵐の魔法に紛れて、シヴァはイスグルアスに正面から肉薄する。黒剣が風を切り、砂嵐を切って振り下ろされた。
鋭い刃が防御魔法陣にめり込む。その衝撃で砂嵐が完全に晴れ、イスグルアスとシヴァはお互いに至近距離で睨み合った。
「覚えているか? 俺の育ての親の剣、そしてあの日、お前の左手の小指を切り落とした剣だ!!」
小指が欠けたままの左手を、イスグルアスは固く握り締める。憤怒を体現したかの様な物凄い形相だった。
シヴァは怒りのままに黒剣を押し込んでいく。防御魔法陣が、ぶつかり合う流氷の様な音を立てて軋んだ。そしてピシリとひびが入る。
「過去の紛れ当たりに歓喜し、再び余にその刃を届かせることができると思うなど笑止千万っ! 愚考であると知れ!!」
イスグルアスは轟く様な声で怒鳴り、右手を思い切り薙いだ。その動作に込められた魔力が衝撃波となり、自身で展開した防御魔法陣も砕きながらシヴァや屍たちを吹き飛ばした。
「シヴァ!!」
物凄い勢いで飛ばされてきたシヴァを、ウルが咄嗟に展開した風魔法で柔らかく受け止める。
「落ち着いて。冷静にならなきゃ、当たるものも当たらないから。いいね?」
「分かってる」
答えて、再び両翼を広げ、そのまま低空を疾走するシヴァを守るように、ウルは鮮やかな青の雷撃を放つ。テンペスタに刻まれた青の波形の紋様がウルの魔力を感知して鮮やかに煌めいた。
シャンッと雫の玉たちが触れ合う音を涼やかに響かせながら半身であるウラヌリアスを振るう。イスグルアスに再び接近したシヴァが剣を振り上げた瞬間に、並走していた青雷たちをひらりと舞わせ、先に展開されていた防御魔法陣に突き刺した。
イスグルアスが苛立たしげに右手を振るった。赤黒い魔法陣が玉座の間のあちこちに展開し、禍々しい紅色の巨大な槍が飛び出してくる。
殺意に満ちた穂先が鈍い光と共に迫ってきても、ウルはシヴァとイスグルアスから目を離さなかった。倒れた屍たちを再び動かしているドローリアも、槍を一瞥すらせずにいる。
そんな二人を紅薔薇の盾が守った。甘やかで、しかし凛とした花の香り。ハルザリィーンだ。
ウルの青雷によって脆くなった防御魔法陣を、シヴァの黒剣が素早く破壊した。イスグルアスが呻く。シヴァは振り下ろした剣を、次の防御魔法陣が張られる前に振り上げた。
閃く様な黒の切っ先が、イスグルアスの右頬と右目を裂いた。




