第7話.土の都ラコリーヌ
こほっ、と小さな咳の後、ウルの呼吸が弱くなっていく。シヴァは慌てて彼に駆け寄った。
元々白い肌は更に色を失い、対比するように石畳に鮮烈な赤が広がっていく。
ウルを仕留めたことで満足したのか、ミルテルの周囲に展開していた水の弾丸は姿を消している。ただ、彼女の顔はどこか自嘲の色を帯びているように思えた。
「お、おい……」
ウルは答えない。ただ、悲しげな目の端から涙が一筋伝い落ちていった。そこに言葉を見出だそうとシヴァは石畳に落ちて消えていく涙の軌跡を追った。
「どうせ、すぐに目覚めるわ」
目を伏せたミルテルが冷たく吐き捨てる。その言葉の意味を図りかね、枝違いの弟を躊躇い無く殺した彼女にシヴァは気味の悪さを感じた。
肩を流れ落ちる銀の長髪、長いまつ毛に縁取られた泉の底を覗いた様な瞳。彼女の完璧な美しさがより一層その不気味さに拍車をかけている。
「その子は、呪われているもの」
そして嘲笑、ミルテルはその後ウルから目をそらした。
シヴァはウルの口許に頬を寄せる。頬に触れる呼気の気配は無い。
ウルは死んだ。
(……もう、どうしようもない。俺一人、すぐに移動すれば何とかなる。幸い、俺を追うことにはあまり力を注いでいないようだし……だけど、何だ?)
この不気味な静寂は、と考えた直後変化は訪れた。
流れ出た血の海に、風もないのにさざ波が立った。そして広がった時と同じようにゆっくりと、時を戻したように赤色の海が引いていく。
ウルの胸に開いた小さな穴からぷく、ぷく、と泡立つ音がした。見ると服の穴の向こうで皮膚がじわりじわりと再生していた。左肩に空いた穴も同じ様に塞がっていく。
「なっ……」
「分かったでしょう。その子は死なない」
その言葉の後、ミルテルの手が動く。水の帯が発生しウルを捕らえんと迫った。シヴァは咄嗟の判断でウルの身体を抱え上げ翼を広げた。
地を蹴って水の帯を避ける。腕の中のウルは未だ冷たく息をしていないが「死なない」という言葉が真実なら、ウルは生きているのだ。なら、見捨てられない。いや、見捨てればいいはずなのにシヴァにはできなかった。
あまりにも、彼が憐れだったから。
それに、シヴァの与えた選択肢で、彼は「ついてくる」と決めたのだから。
「後悔するわよ!」
ミルテルが叫ぶ。そんなこと、と口の中で噛み潰してシヴァは振り返ることなく飛び去った。
――――………
ウルは自身にゆっくりと呼吸が戻ってくる気配に、ああ、と悲しみを覚えた。
まただ。
「…………」
「っ! ウル!!」
ぼんやりした視界は瞬きを繰り返すごとにはっきりしてきた。そこにシヴァが飛び込んでくる。少し疲れを滲ませた美貌、白い肌に藍色の瞳が映える。
「シヴァ……」
「ああ。大丈夫か」
「……なん、で」
ウルはそう訊いた。シヴァが怪訝な顔をする。構わずウルはまた繰り返した。「なんで」と。
「何がだ」
「……だって……見ただろう……僕は」
気味悪くないのか、という言葉は吐息に溶けた。シヴァはウルの目を見たまま口をつぐむ。
そして、藍色の目に水面の様な凪ぎを宿して口を開いた。静かな瞳は群青にも見える。
「……お前は俺を恐れない。それと、同じことさ」
「それは……どういう意味……」
「起きろよ、すぐに移動しなきゃならない」
シヴァはそう言って会話を断った。
ウルは黙って身を起こした。彼の真意は図りかねるが深く追求することの愚は昨夜理解した。だから黙っておく。
身を起こすとそこはどこかの路地裏らしき場所で、ウルは並んだ木箱の上に寝ていた。
「ここは?」
「土の都だよ」
「入れたのか?!」
シヴァは頷く。
リヴィエールの隣にある土の都ラコリーヌ。煉瓦造りの建物の並ぶ街である。美しい柄の織り出された見事な織物の名産地で、土の精霊は全員各々の機織り機を持つ織りの妙手だ。
都間の門をどう抜けたのだろう。しかも死んでいた自分を抱えて。
「そういうのは得意なんだ」
「ふぅん……」
何となく、いや最初から言われていたから分かっていたが、大変乱暴な方法で門を抜けたのは間違いない。
リヴィエールの時と同じように土の精霊に変装し歩き出す。今度はウルだけ少し顔も変えた。
前を歩くシヴァは何も言わない。その事が意外で、ウルは心の中でどう折り合いをつけたら良いのか分からず少し混乱した。
「卵、あと何日だっけ」
「昨日の夜作ったから、まだ一日も経ってない。あと六日と半日」
今は夕方、薄暗さが顔立ちを朧気にしてくれるのは助かる。
長いな、とシヴァは舌打ちした。だがこればかりは仕方がないと溜め息を吐く。
「シヴァ、ラコリーヌからは早く出た方がいいと思う」
ウルは並んで歩きながら小声でそう伝えた。シヴァは「何故」と前を向いたまま返す。
「ここの枝守は、一番危険だ」
「…………」
「一族の最年長で経験豊富だから、それに魔法の腕も……」
ウルは辺りを見渡した。ミルテルが水を通してこちらを探していたように、土の枝守も砂や土を目にしているかもしれない。少しでも魔法の気配があったらすぐに身を隠さなければ。
「なるほど、ね」
それなら警戒しなければ、とシヴァは様々な対策を頭の中で考える。
「っ!」
突然ウルがシヴァの襟首を引っ付かんで引いた。うぐっ、と息を詰まらせたシヴァが文句ありげに振り返る。少ないがゼロではない通行人たちが怪訝な表情で二人を見て通り過ぎていく。
「っなんだよ!」
「見て」
ウルは何もないように見える宙を指差した。赤煉瓦の家が左右に並ぶ道の真ん中である。シヴァは少し背を屈めてウルに目線を合わせた。
キラキラと光る細い糸が三本張られているのが見えた。土の精霊たちは気にせずにスタスタ歩いていく。糸は土の精霊たちに触れても何も反応しない。
「……多分、アルタラの精霊だけに反応する魔法。僕が触れていたら危なかった」
「よく気づいたな……迂回しよう」
頷き合った二人は道を変えた。
しかしその後どの道へ出ても途中で糸に出会い、二人は途方に暮れた。
最初にいたのはラコリーヌの入口からすぐのところ。そこから扇状に道が広がっていくのだが、そのすべてに糸が張られている。扇形の蜘蛛の巣の様だ。
草の都に続く一番太くて長い一本道も勿論通れず、かと言ってリヴィエールに戻ることも難しい。
「ラコリーヌに入ったことがバレてる。どうしよう」
「……暗くなるのを待って飛ぶ。すぐに草の都に行こう」
「……間に合うと、いいけど」
そして完全に日が暮れ、夜の帳がラコリーヌを覆った頃。
ウルとシヴァは肩を寄せ合って木箱の中に隠れていた。勿論、突然くっつきあう仲良し行動に目覚めたわけでも突然狭所愛好家になったわけでもない。
理由は簡単。日が暮れた途端、魔法の糸で包囲された狭い地域に土の枝守の兵団が放たれたからである。
間一髪魔法で身を隠し、その間にこそこそと木箱に隠れたのだが丁度良いところに木箱が一つしかなく、魔法で姿を消したまま移動してもいいかと考えたが、もしかしたら魔法を破る霊具が用意されている可能性もある。
そして兵団丸々全部が投入されているらしく、兵士の数が多すぎた。危険な橋は渡らずやり過ごす方向でいくことにした。
「……っ痛ぇ!」
「あ、え、どうしたの?!」
「お前の尻が俺の羽を踏んでるんだ!」
「わわわ、ごめんっ」
「ぐっ!」
「ひぇっ、今度は何?!」
「肘が腹に……」
「ごめん!」
「うぐっ!」
「今度はどこ?!」
「~~~っ!!」
「ごめんって!!」
「もういい動くなっ!!」
「うぅ~……」
すべてコソコソ話である。
ウルは小さく、可能な限り縮こまって溜め息を吐いた。何故ここに飛び込んでしまったのだろう。もっと、何とかならなかったのだろうか。自分の考え無しを呪う。
ウルの溜め息を聞いてシヴァも溜め息を吐いた。自分の無様が切ない。慌てた精霊に引っ張られて木箱に押し込められるなんて。もっとやりようがあったろうに。
外では兵士たちが言葉を交わしながらあちこちくまなく捜索している。この木箱は開けても空に見えるようにウルが魔法を掛けてあるので心配はあまり無い。
兵士たちが引くまで、この文字通り箱詰め状態は終わりそうにない。それは良いことであるはずが、二人の溜め息を増やすのであった。