第23話.薔薇の過去
冥界の皇女ハルザリィーンは葛藤していた。目の前で牢に繋がれ、魔力を封じられて、それでも消えない星の煌めきを宿した目に見つめられて未知への不安に怯えていた。
ウルは包み隠さず正直に「僕たちは君のお父さんを倒しに来た。すべてを新しくするために」と告げた。今、皇宮内で起こっている魔力の激震と絶え間無い戦闘の気配は、その言葉に真実の重みを乗せて、ハルザリィーンの心にのし掛かる。
(父帝陛下を……お父様を、倒す?)
なんでも、たった今皇宮に乗り込んできたのはウルの仲間で、ハルザリィーンの従兄に当たる青年だと言う。
彼女の父によって実の父親と育ての親を奪われた青年。復讐に燃えながら、再びこの地を踏んだ従兄。
(無理、よ。だって、だってお父様はとても恐ろしい方だもの)
生まれたときからハルザリィーンを縛り続けていた恐怖。決して拭い去ることのできないそれは、彼女の喉元で言葉を絡ませて止める。
「――怖いよね」
「っ!」
ウルはそう言って左手首にはまる鉄枷を撫でた。その目には何かを思い返す様な色があってハルザリィーンは言葉に詰まる。
「僕も、ずっと怖かった」
ぽつり、と彼は言った。
「怖くて、諦めて、心も死んでしまったと思っていた時に――シヴァが来た」
ウルは瞑目して薄く微笑む。とても大切なものを思う顔だった。ハルザリィーンが見たことのない、けれど記憶のどこかにはある表情だ。
「彼のことも、勿論怖かったけどね。でもまだ、自分の心が死んでいないことを知った」
囁くような声でそう言って、ウルは顔を上げる。銀星の目がハルザリィーンをじっと見つめた。
「家族に反抗するって、すごく勇気がいるんだよね。でも、その勇気は、自分の心が叫んでくれるんだよ。自由を、って」
「自由……」
「君は、自由なんだよ。ハルザリィーン」
弾ける様な星の煌めきが、自由への衝動を纏ってハルザリィーンの瞳に映り込んだ。
―――――………
冥界の唯一の皇女ハルザリィーンの人生は、その始まりの時から父帝イスグルアスの操り糸に絡め取られていた。
彼女に母の記憶は無い。何故なら、彼女が“皇女”として産まれた瞬間に、母は父の手によって首を刎ねられたからだ。
その遺体は、東の果てのナズロアの荒野に捨てられたらしい。これらの話は全て乳母に聞いたものだ。その乳母も、母の肖像画を隠し持っていてそれをハルザリィーンに見せたという罪で首を刎ねられた。
父が自分の跡を周囲の反対無く継ぐことのできる皇子を欲しがっていたことはすぐに分かった。
永久の闇に憩う冥界ベリシアルで、跡継ぎが生まれるのはハルザリィーンが史上初である。悠久に近い時を生きる上位の魔物は元々子を作りにくいが、皇帝イスグルアスは持つ力故か、その傾向が顕著だった。
帝政が開かれて以降、イスグルアスが皇帝位に在り続けるが故に即位や譲位の決まりはなく、勿論皇子でなければ帝位を継げない、という決まりもなかったが、すでに各地の魔王は世襲制となってから男児へ継がせると言うことが暗黙の了解となっていた。
だから、父は慌てたのだ。冥界の始まりから、この地を治めてきた彼が。
何よりも疑り深い父は謀反を恐れた。皇女ハルザリィーンを理由に、各地の魔王たちの子のどれかが帝位を狙うことを恐れたのである。
いつだったか、ハルザリィーンは幼い頃に、父が部屋でぶつぶつと呟いているのを聞いてしまった。
――「アラドリスの子を殺さなければ……あれは、帝位を狙っておる……」――
アラドリス、という名が父の弟のものであることは知っていた。そして“帝位”という単語によって、歳のわりに聡明であったハルザリィーンは、皇弟の子が男児であることを察してしまった。
(私が女だったから、お父様は私を愛してくれないのだ)
広大な暗い帝国、冥界ベリシアルでぽつんと独りぼっちに投げ出されたような気分になった。
(私が女だったから、お母様は殺されたのだ)
自分の存在が呪われたものであると理解した。周囲へと、存在するだけで死を振り撒く呪い。
(私は生まれてはいけなかったのだ)
きっと父はすぐに新たな皇后を迎え、男児を産ませるだろう。そうすれば自分はすぐに殺される。呪われた自分には、お似合いの最期ではないか。
そう考えていたのに、イスグルアスが新たな皇后を迎えることはなかった。適した年齢、家格の――家格はそれ即ち次代へ受け継がれる安定した魔力量を意味する――者がいなかった、とそんな話を聞いたが、その時すでにハルザリィーンは自分の命にも外部にも関心を失った状態だったので、あまり心に留めることはなかった。
父に言われるままに学び、やがてはっきりとした魔力が肩の辺りの魔紋と共に発現した時、父は彼女に対してはっきりとした失望を見せた。
深紅の紅薔薇の魔力。それは、父が行ってきた恐怖政治を継ぐことは到底無理であると思える魔力だった。
――「女であるだけでも許されざることであるというのに、お前はその力ですら非力さで余を煩わせるのか」――
父の、底冷えする血の色の目に浮かんだ失望は、他の何よりもハルザリィーンを恐怖させた。
(失望されてしまった。捨てられる、殺されてしまう!!)
父の身体から溢れ出る怒りの波動に、ハルザリィーンは震えて、その場に立ち竦んだ。次の瞬間には首が飛ぶかも、次の瞬間には心臓を抉り出されるかも、次の瞬間には、次の瞬間には……
しかし彼女の予想に反して、父は何もせず身を翻した。部屋に取り残されたハルザリィーンは、圧倒的な恐怖の余韻に震えたまま、今後父は自分に目を向けてくれることはないだろうと漠然と考えていた。
(それから、私は……考えて生きることをやめた。何も考えなければ、苦しくないし寂しくない。けれど……)
ある日、父に呼び出された。
「精霊を生きたまま捕らえた。精霊と魔物の混血は強い。お前はその精霊と番い、余の役に立て」
久々の対面に何の言葉もなく、感情を感じさせない冷たい地鳴りの様な声で父はそう言った。
そのことに呆然としながらも、彼女に許されていたのはただ一言。
「承りました」
自分は役に立たないのだから、父の道具の一つに過ぎないのだから。考えてはいけない、拒んではいけないのだ。
(……でも、精霊って、どんな生き物なのかしら)
その時にぽつりと思ったことである。
(我慢できずに見に行ってしまった。そして、あまりにも魔物と似ていて、怖くなったの)
そんな思いと共に、ハルザリィーンは目の前のウルーシュラを見つめた。銀の双眸は星の瞬きを宿してハルザリィーンを見つめ返している。
「……私には、何が正しいのか分からないわ」
「そんなの皆同じさ。僕だって、何が正しいのか分からなくて悩んで生きてる。悩むことが大事なんじゃないかな」
「お父様は、強いのよ」
「うん。でも、シヴァも強いよ」
疑いなど一欠片も持っていない、という笑顔で彼は言った。その絶対の信頼は、ハルザリィーンが持ったことも持たれたこともないもの。
「だ、だって、お父様は始まりの時から生きている魔物なのよ。そんな相手に勝てる者がいると言うの……?」
「うーん、確かに苦戦するとは思うけれどね……」
そう言ってウルはおもむろに視線を上の方へ投げる。その先には止まらない戦いの気配があるはずだ。
「彼は強くなった。勿論、前は僕も不安だったけれど今なら大丈夫だと思える」
「っけれど……」
「本当は、僕も彼の手助けをしたい」
「!!」
彼の言葉にハルザリィーンは身を固くした。
「それ、は……」
唇を引き結んだ彼女の表情に、ウルは慌てて「あっ、あのね」と言葉を続ける。
「確かに、僕が外に出るには君に出してもらわなきゃならないわけだけど、強要する気はないよ。僕は君たちの敵だからね」
「……どうして、出せと言わないの?」
「うーん……君に、そう言いたくないからかな」
ウルの答えに、ハルザリィーンは不可解だと口をつぐんだ。ひたすらに真っ直ぐな銀色の瞳を、その奥に宿る真意を図ろうとする様に鮮やかな真紅の目でひたと見つめる。
「だって君は僕と言葉を交わしてくれるでしょう? そんな相手に、命令なんてできないよ」
そう言ってウルは困ったように微笑む。
「だから、君に任せる」
ハルザリィーンは息を呑み、そしてきゅっと手を握りしめた。俯いたまま立ち上がり、唇を引き結んで一歩下がる。
それから彼女はパッと身を翻した。ふわりと揺れた豊かな金の長髪。深い紅色の裾を引いて、ハルザリィーンは階段を駆け足で上っていった。




