第21話.前進
ふわりと白い手が宙を薙いだ。揺らぐ風に舞うのは黒い魔力粒子で、辺りには膿んだ薔薇の様な暗く甘い香りが漂っている。
集まった魔力粒子が宙に大きな円を描いて、その真ん中にぽっかりと黒い穴が口を開けた。
転移魔法に近い、俗に扉や門と呼ばれる移動用の魔法の一種である。
「皇宮の中に、直接は繋げないから……門前に、繋げたわ」
「分かった。ありがとな」
灰色のマントの下に、珍しくきちんと衣装を纏ったドローリアの言葉に頷いたシヴァは、いざ扉の中へと一歩を踏み出した。
「ちょっと待ってちょうだい……」
「何だ」
振り返ると、ドローリアは暗紅色の瞳でシヴァをじっと見つめていた。いつも顔に掛かっている長髪が風に流され、白蝋の頬に浮かぶ流れ落ちる血涙の様な紅い紋様がよく見える。
「わたしも……行くわ」
「……は?」
彼女は静かにそう言った。シヴァはその真意を図りかねて困惑の声を漏らす。
その身体の艶麗な曲線美にあわせた様な紺碧の長衣の柔らかな布地を握り、ドローリアは「行くわ」と繰り返した。
半身で振り返っていたシヴァは、困惑の表情から真剣な顔になって彼女にしっかりと向き直る。
「本気か? 俺と違って、お前は来なくてもいいじゃないか」
「……そうね。けれど、わたし、思ったのよ。あなたに任せるだけで、本当に、いいのかしらって」
言いながら、その双眸を乾いた風が吹く荒野に向けたドローリアは、長衣から放した自分の右手を見下ろした。
「あなたと行ったら、何かが変わるかもしれないと……そう感じるの」
「……俺があいつに勝てるかは、分からないんだぞ」
「わたしが行ったら……勝つかも、しれないじゃない?」
確かにそうかもしれない、と考えてシヴァは視線をふらりと斜め右下に流す。ドローリアは桁外れに優秀な屍術士だ。仲間として、隣に彼女がいればかなり心強い。
ゆるりと瞬きをして、視線をドローリアに戻す。荒野に降る暗い紅天の光が、シヴァの瞳を喩えようのないほどに美しい紫色に染めていた。
「いいのか」
病んだ紅薔薇を煮詰めた様な暗紅色の双眸が、真っ直ぐな光を宿した比類無き麗紫を見つめ返している。
やがて吹いた一陣の風が二人の間を駆け抜けて、砂塵が触れ合う微かな音と共に場に満ちた静寂を連れ去っていく。
ドローリアはゆっくりと頷いた。
「……ええ。もう、決めたの。わたしの大切な人たちに酷いことをしたあの男に……一矢報いたい」
シヴァは薄く微笑んで頷き返した。
「分かった。あいつに勝つか、お互いが死ぬかのどっちかまで、よろしく頼むぞ」
「ええ、任せて」
そして、シヴァはドローリアと共に、空中にぽっかりと開いた黒い穴の中へ飛び込んでいった。
開かれた扉はやがて幽かな黒薔薇の香りと共にふっつりと姿を消して、乾いた風が吹き続けるナズロアの荒野には再び餓えた様な風音だけが響くことになった。
――――………
場所は変わり皇宮地下牢。二日ほど考え事を続けていたために頭が疲れてしまったウルは、ぼんやりと寝台に腰かけて、じめじめとした石の床を見るともなしに見ていた。
ハルザリィーンは来ていない。ウルはずっと彼女と何を話そうかと悩み、どんな言葉も彼女の手を引いて一歩を踏み出させるには足りないと頭を抱え続けている。
(……もう、むしろ何も考えずに話した方が良いんじゃないかって思い始めてきた)
彼女の心は固く閉ざされている。気丈に伸ばした背筋が、ウルには悲しくて仕方がない。
(ここから逃げるため、そのために彼女と話そうと、そう考えていたのになぁ……)
ウルは次第に、策謀ではなく純粋な「救いたい」という思いによってハルザリィーンと言葉を交わしたいと考え始めている自分に少し困惑していた。
(……彼女のことを、知りたい)
そう思って、ふと顔を上げたウル。
その時、彼の脳裏にバチッと青い稲妻が走った。
「っ!!」
見慣れた鮮やかな青。それは、ウルが初めて自分の手で作り上げた霊具の気配。
(テンペスタが……いいや、シヴァが、ここへ近づいてる!!)
堪らず立ち上がったウル。そこへ、牢の外の階段の上から木の扉が開く音が降ってくる。ハッとして目を向ければ、ちらりと覗いた紅色の裾。
心臓がばくばくと煩い。居ても立ってもいられない気持ち、ついにやって来たハルザリィーンに、この二日間考えていた様々な言葉。
この一瞬で様々なことが押し寄せ、ウルは混乱した。見開いた銀の星の目を忙しく瞬き、両の手を握ったり開いたりする。
そしてついに、階段を下りてきたハルザリィーンの真紅の目と銀星の目が合った。
「っ……」
ウルが尋常ならざる様子で立っているとは思っていなかったハルザリィーンが、驚いて足を止める。そんな彼女を見つめたまま、上手く言葉にならない小さな音を漏らすウル。
どうしよう、と焦れば焦るほどに頭から抜けていく言葉の数々。勇気を振り絞って再びここへ足を運んでくれたであろうハルザリィーンが逃げてしまわないうちに、何か言わなきゃと必死に言葉を追う。
「……ぼ、僕は、ウルーシュラ」
やがて、ウルの口から迷い迷って転がり出たのはそんな平凡な名乗りだった。
自分でも何故、と思いながらも、ウルの口は止まらない。
「君のことが、知りたいんだ」
言葉に続いてウルの目から涙が溢れ、白い頬を伝って冷たい床へと落ちる。
どうして涙が出るのか、自分の中でしとしとと雨を降らす感情に困惑しながら、ウルは泣き顔のままでへにゃりと笑った。
ただ泣いていたら、ハルザリィーンが困るだろうから。漠然とそう思ったからだ。
ウルを見つめて、大きな目を驚きと不安に見開いていたハルザリィーンは、その泣き笑い顔を見て、不意にトン、と胸を突かれた様に感じた。
(天敵の精霊なのに……怖い、はずなのに)
ほろり。気づけばつられるように涙が溢れていた。
「私、も、貴方のことが、っ知りたい」
泣きながら歩み寄った二人は、錆び付いた鉄格子の間で、まるで糸を手繰る様に、ゆっくりと差し出した手を握り合った。悠長なことを言っていられない状況が迫ってきていても、言葉を持つものは結局、言葉を交わさねば前に進めないのである。
「少しずつ、でいいから、話そう」
「っええ、少し、ずつ」
お互いに涙に濡れた顔で笑い合い、頷き合って、その場に座り込む。
初めて触れた、自分にとって天敵であるはずの者の心は、手は……とても、温かかった。




