第19話.策略
慣れない大声を出しながら、ウルは内心ひやひやしていた。この大騒ぎは、あまりにもわざとらしくないだろうか?
気を抜くとすぐ八の字になろうとする眉に力を込めて、ウルは階段を下りてやって来た牢番に顔を向けた。
(……猫みたいな、耳だ)
牢番は軽装の鎧に銀の槍を持った青年であった。健康的な褐色の肌に瞳孔が縦に細い緑色の目をしている。
適当に切ったであろう黒髪の間からぴょこんと飛び出した一対の猫のものにそっくりな三角の耳。そして足元に揺れる黒い毛に包まれた尻尾。
魔物は見た目が醜悪なものが多いと長く思っていたが、混血のシヴァは言わずもなが、ハルザリィーンもとても美人だったし、牢番の青年も容姿が整っている。それがウルには少し意外だった。
(魔物の中にも細かい種の分類がありそうだな……)
ウルの中の研究魂が騒ぐ。今は押さえねば、と彼は尖らせた唇に力を込めた。
青年はウルと目が合うなりピシリと固まった。鮮やかな緑の目の中で、瞳孔がひゅるりと円くなるのが見える。
(警戒、してるよね……)
ウルは意識して高慢ちきな表情を作りながら――目標は怒っている時の義姉メリーニールの表情である――近づいてきた青年を睨み上げて「遅い!!」と怒鳴った。
(もっと怖い声が出ればいいのにっ!)
少年らしさが抜けない自分の喉を恨めしく思いながら、「っ、な、なんの用だ!」と戸惑いを滲ませて答えた青年相手に会話を続ける。
「僕は退屈だ! 話し相手がほしい!」
「話し相手だぁ?!」
会話というより一方的な言葉の暴投である。青年は目を見開いて信じられないものを見るような顔をしていた。
「それなら兵を寄越して……」
「いやだ! 僕はアルタラの一族の末子だぞっ! この前ここへ来た皇女を連れてきてよ!!」
無茶苦茶な要求だがこればかりは何としてでも通さなければ。子供の駄々だと思わせて、真意を悟られないよう慎重に騒ぐ。
「な、皇女様を?! できるわけないだろうっ!!」
「ならあの子が来るまで騒ぐぞ!!」
「は?!」
新しい種類の脅しである。なるほど、泣きわめく幼子は、言外にこう伝えて親を脅しているのであろう。
青年は途方に暮れた様に頭を掻き、溜め息を吐き、項垂れた。申し訳無さが込み上げてくるがここは耐えなければならない。
「連れてきてよ!」
「…………」
「ねぇ! もっと大きな声を出すよ!!」
「…………」
「退屈なんだけどーーっ!!」
「っ~~、うるせぇなぁ! やってられっかぁぁ!!」
「やってらんないのはこっちだよ!!」
頭を掻き毟った青年の叫びに、同じくらいの音量で叫び返したウル。それを受けて青年は「シャーーッ!」と猫らしく威嚇して階段を駆け上がっていった。
(どうなるかな……)
大声の出しすぎで痛くなってきた喉を擦りながら、ウルはこっそり溜め息を漏らした。
――――……
ババロは頭を掻き毟りながら廊下をつかつか進んでいた。途中で掴まえた暇そうにしていた顔見知りの兵を臨時の牢番に据えて、皇帝の側近サガノスを探す。
(俺あの人苦手なんだよ……)
あのまま騒ぎ続けられると思うと気が狂いそうだ。子供の世話は嫌いだし、言うことを聞かないものはもっと嫌いである。
(異動か、何かにならないもんかな……)
かなりの速度のまま角を曲がる。この先にサガノスの部屋が――――
「きゃっ?!」
「っ!!」
確認せずにいたため危うく曲がり角の向こう側からやって来た者とぶつかりそうになる。ババロは慌てて数歩下がり謝ろうと口を開き、足元から視線を上げ相手を見て見事に固まった。
そこに立っていたのは皇女ハルザリィーンであった。金の髪が映える淑やかな印象の藤紫のドレスを身に纏って、耳元に深い色の青玉を煌めかせている。
きらりと光った耳飾りによって硬直状態から復活したババロは、真っ青になってその場に平伏した。
「もっ、申し訳ございません! お怪我はございませんか?!」
(まずい、まずいまずいっ……!)
頭を垂れたまま謝罪を口にする彼の頭の中を勢いよく様々な言葉が巡る。冥界の皇宮で、ちっぽけな衛兵でしかない彼の命は権力者たちの戯れによってすら簡単に摘まれてしまう儚いものだ。
たとえ相手が傀儡に等しい気の弱い皇女であるとしても、彼女が眉を少しでもひそめれば次の瞬間にはもう自分は生きていないかもしれない。
(誰かに見られたら終わりだ)
そう思ってババロは更に頭を下げる。早く、早く許しの言葉を、と願いながら。
「……貴方は、地下牢の牢番ね」
「っはい!」
「……彼は、あの精霊は、元気?」
「は……」
思わず顔を上げて、ババロは言葉に詰まった。見上げる先のハルザリィーンは、何やら俯いて物憂げに視線を何もない場所に投げている。
(確かに何度か牢に下りてたけど、そんな親しい間柄になってたってか?! いや、まさかそんな。どうする、何て答えればいいんだ?!)
彼は焦る。答えに迷い、冷たい床についた手をぎゅっと握り締めた。この手の問いに対する答えを間違えてはいけない。
間違いは即、死を意味する。同じような状況に陥り、高官や皇帝の機嫌を損ね、その首を荒野に晒した同僚は少なくない。
「…………おそれながら、あの精霊は、元気があり余っているようでして、その……」
(サガノス様に言うつもりでここまで来たけど……言うのか、言っていいのか?)
口ごもったババロに、ハルザリィーンは小首を傾げて話の先を待っている様子を見せた。
「何か、あったの?」
「っ……は、話し相手が欲しいと」
「……話し相手」
視線をさ迷わせたハルザリィーンは、やがて長いまつ毛に縁取られた目蓋をゆるりと伏せる。対するババロは、祈るような気持ちで固く目を閉じていた。
「話し相手に……不敬にも、その、お、皇女殿下を、と騒いでおります」
言ってしまった、と思いながら、次第に浅くなる呼吸の音を押し殺すババロ。その前で、ハルザリィーンがふらりと一歩下がった。目を閉じていても感じたその動きにババロは恐る恐る目を開ける。
「わ、私を……?」
見上げると、彼女は真紅の目を大きく見開いて、唇を震わせていた。青褪めた顔から驚愕と少しの怯えの様子が読み取れ、ババロはごくりと唾を飲んだ。
しばらくの間震えていたハルザリィーンは、切り替える様に瞑目し、大きく息を吐くと背筋を伸ばす。
「……立って。牢番なのだから、持ち場へ戻りなさい」
「は、はい……」
「それと……精霊に“少し待って”と伝えてくれる?」
「っ、はい」
「……ありがとう」
そう言って彼女は身を翻した。柔らかな藤紫の裾を引いて、微かな硬い靴音と共に去っていく。薔薇の紋が目立つ細い肩が未だ震えていたことをババロの良い目はしっかり見ていた。
(……助かった)
知らず知らずのうちに周囲に満ちていたハルザリィーンの魔力に今更当てられて、ババロはしばらくその場から動くことができなかった。
(精霊と、話すのか。まったく、変なお人だな……)
しかし、これでもう精霊の大騒ぎに悩まされずに済みそうだ。皇女の短い言葉を携えて、ババロはふらふらと地下牢へと戻っていった。




