第18話.ウルの決意
吹き荒れる暴嵐の中を走りながら、シヴァはすらりと黒剣を抜き払い、小首を傾げて佇んでいるローズ=リリーに飛び掛かった。
メイド服に身を包んだ屍乙女の左手の魔導書が、触れられることなくパララ、とページを繰る。直後冴え渡るローズ=リリーの魔力が宙に展開。氷柱の群に変じる。
飛来する氷の剣の様な氷柱を一瞥し、シヴァは冷静に剣を振るう。必要最低限の動きで自身に向いていた攻撃をすべて捌くと、素早く体勢を低くしてローズ=リリーに肉薄。左手の魔導書を狙う。
(こいつ本体に魔力はない。恐らくあの魔導書が、屍でも魔法が使えるような代物なんだろう)
あの魔導書がローズ=リリーとドローリアの間で一番強い繋がりなのは明白。
絶えず流れ込む黒薔薇の香を載せた屍術士の魔力は、ローズ=リリーが放つ魔法にも色濃く見受けられた。
あれを奪えばローズ=リリーは恐らく魔法を使えなくなるはずだ。
ローズ=リリーの魔法が起こし続けている風はシヴァの長髪を激しく乱し、激しいその音によって彼の鋭敏な聴覚を封じ込めていた。
顔に掛かる髪を首を振ることで乱暴に払い、ローズ=リリーに迫ったシヴァは、体勢を低く保ったまま下から鋭い蹴りを繰り出す。
しかしローズ=リリーの左手を打ち、魔導書を弾き飛ばすはずだったシヴァの左足は空を蹴ることになった。
「っ!」
室内を掻き乱す様に吹き荒れている風に乗り、ローズ=リリーの身体はふわりと宙に浮いていた。そこから、また魔導書のページが軽やかに繰られ、周囲に魔力が展開される。
宙を舞う屍乙女の周囲に黒い魔力粒子が集まって灰色の鳥の群を生み出した。よく見ればそれはぼろぼろの身体をした鳥の屍である。
屍術で操られている死者が、死した鳥を操るとは、なかなかに頭がこんがらがる光景であった。
突撃してくる屍鳥を剣で斬り払い、ローズ=リリーを見上げたシヴァは、そこに待ち受ける様に浮かべられた大量の鉄剣を見てニヤリと唇の片端を持ち上げた。
これは手強い。だが、彼女に勝てばかなりの成長が見込めるのが分かった。そう思うと剣を握る手に力が入る。
(命ギリギリの戦いはこうしてすぐに成長できるからいいな……)
ローズ=リリーも、彼女を操る術士であるドローリアも、シヴァを殺す気で攻撃を仕掛けている。彼自身も屍乙女を切り捨てる勢いで剣を振るっているのだ。
すべては皇帝イスグルアスを討つため。
そして、囚われたウルを救うために。
「行くぞっ!!」
荒れ狂う風の中、シヴァは黒翼を広げて宙に舞い上がった。
――――……
自分の無力さに泣いた夜から二日、ウルはやけに真剣な表情で寝台の上に座っていた。ちなみに、所在は未だ変わらず牢屋の中である。
彼は今、一人緊張しながら決意を固めていた。
(ここを出て、イスグルアスを倒すだけじゃ駄目だ。彼女を……ハルザリィーンを助ける)
何故ならハルザリィーンは直系の皇女。冥界の帝位を継ぐことができる唯一の存在だ。
それゆえに理不尽で惨いことを命じられているが、それでもその立場を上手く活用すれば未来の問題を解決できるかもしれない。
(イスグルアスを倒して、彼女を帝位につける)
身勝手な考えである。そして実行にはハルザリィーン本人の協力が不可欠。しかしこれしかない。
ウルは目を閉じて息を吸う。どうにかしてもう一度彼女と話さなければならない。
イスグルアスの強大な影に怯え、戦うことを、抗うことを放棄し、家畜の様に飼い殺される。かつてのウルがそうであったように、切っ掛け無しには動けなくなっているのだろう。
彼女には自由が必要だ。幽閉生活の中でも心のどこかで、もう一度広い蒼穹を仰ぐことを祈っていたウルと同じ。彼女もまた息苦しくて、でもどうしようもできないでいるはずだ。
(……よし、やるぞ。頑張れ、ウルーシュラ。僕がやるしかないんだから)
ショックを受けた自分の様子に、悲しそうな顔をして去っていったハルザリィーンは、きっともう自分からはここへ来てくれない。
ならば呼ぶしかない。牢から出られず、魔法も使えないこの身一つで。
――――……
牢番である兵士のババロは、軽装の鎧に槍を構えて地下牢へ続く階段前の扉にぼんやりと佇んでいた。
なんでもこの下にはアルタラの一族の精霊を捕らえてあるらしく、皇帝と皇女、そして側近のサガノス以外は通していけないと言われている。
それなりの場数を踏んでいる兵だったからこの役を任されたのだろうと思うが、如何せん退屈だ。ババロはボリボリと三角の耳の下を掻いた。
彼は俗に猫獣人と呼ばれる種類の魔物であった。人間に近い姿と大型の猫の姿を使い分ける。精霊やエルフ、そして人間は魔物を大きな括りである“魔物”としか呼ばないが、冥界では実は細やかな分類がされているのである。
さて、そんな猫獣人のババロであるが、くあぁと大きな欠伸をして槍を握り直した。どんなに退屈だろうと、仕事は仕事だ。
それにこれだけ暇なのに給料は前の衛兵職より良いときた。立っているだけの仕事だと思って堪えようと思う。
「……ん?」
そんな時、獣人の鋭敏な聴覚が何か慣れない音を拾い上げた。それは扉の向こうから聞こえてくる。
『おーーいっ、誰か来てよっ!!』
「んん?!」
意識を傾けたお陰で、きちんと意味ある言葉として聞き取れた内容にババロは首を傾げた。
『だーーれーーかーーっ!!』
今までずっと大人しかった精霊が騒いでいるらしい。しかも声の調子から推測するに、緊急事態と言うより子供の駄々という感じだ。
「…………」
『だーーれーーかぁぁぁっ! なんで無視するんだよーーーっ!』
「…………」
『来ーーてーーよーーっ!!』
「はぁ……」
溜め息を吐いたババロは、扉の鍵を開けて中に入ると内側から鍵をしめた。
一言怒鳴れば大人しくなるだろう。精霊と言うものはもっと静かな生き物だと思っていたが、霊王の息子だと言うし、恐らく甘やかされた我が儘坊やなのだ。
「来ーーてーー!」
「おい、黙れ!! さっきまでは大人しくして……――――」
グッと近くなった声に、大声で言いながら階段を下りきったババロは、生まれて初めて見る精霊の姿に息を呑んで立ち止まった。
鉄格子の向こうで冷たいであろう床にぺたりと座り込み、淡い紫の髪をふわっと揺らしてババロを見た精霊。
精霊は白い頬を赤く染め、眉を可愛らしく吊り上げて唇を不満げにツン、と尖らせている。長いまつ毛に縁取られた目は星の如し銀色。
華奢な印象の身体に、酷く武骨な左手首の鉄枷が似合わない。その気配は、冥界において本当に異質だった。
(これが、精霊……)
心臓の裏を爪でカリカリと引っ掛かれる様な嫌な感覚の警告を魔物としての本能が発している。しかし、その精霊はあまりにも美しく、明らかに無害で、ババロは怒鳴る言葉を失った。
鉄格子の前まで呆然とした様子で歩いてきたババロをキッと見上げた精霊は、ふんっと鼻息荒く、目を細めた。
「遅い!!」
「っ、な、なんの用だ!」
「僕は退屈だ! 話し相手がほしい!」
「話し相手だぁ?!」
なんて高慢ちきな奴だ、とババロは目を見開きながら腕を組む。
「それなら兵を寄越して……」
「いやだ! 僕はアルタラの一族の末子だぞっ! この前ここへ来た皇女を連れてきてよ!!」
「な、皇女様を?! できるわけないだろうっ!!」
「ならあの子が来るまで騒ぐぞ!!」
「は?!」
正真正銘子供の駄々だ。ババロは面食らって何も言えずに手を握ったり開いたり、口を開閉したりと混乱している。
(どうしろって言うんだーーーっ!!)
一般兵には荷が重い話だった。ババロはまた大声で騒ぎ始めた精霊を前に、項垂れるしかなかったのであった。




