第17話.リリーとローズ
鋭い音で風を切りながら、恐ろしいほどの正確さで額を狙う鋼鉄の踵。正面から食らえばいとも容易く頭蓋を貫いて砕くであろうその一撃を、シヴァは軽く身を捻るだけでかわした。
追撃、回転によって勢いを乗せられ振り下ろされる銀の短剣。銀光の閃きにも似た速度で、喉笛を切り裂こうと迫る。
軽やかに跳躍して回避、空中でひらりと一回転してそのまま短剣を握る手へ、足を振り下ろした。
カシャン……と短剣が床に転がった。同時に短剣の持ち主である深い青色の髪の少女もその場に倒れた。見事に音も無く着地したシヴァはそれを見てから構えを解く。
「慣れてきたぞ」
「リリー=ローズ……もういいわ、ありがとう」
白と黒のメイド服に身を包んだ屍乙女のリリー=ローズは、女主人の言葉を受けてゆらりと立ち上がると短剣を拾い上げてすたすたと歩き、部屋を去っていった。
それを見送って、シヴァとリリー=ローズの戦いを長椅子に横たわって眺めていた屍の女主人……屍術士のドローリアは溜め息を吐く。
「あの子の速度に慣れるなんて、あなた、やっぱり化け物ね」
「そうしなきゃ死ぬだけだ。化け物だって何にだってなってやるさ」
「そう……」
相変わらず暗く病んだ厭世的な美貌に、真白の一糸纏わぬ姿をしたドローリアは「じゃあそろそろ対魔法訓練かしら……」と呟いた。シヴァはそれに無言で頷く。
ドローリアの治癒魔法によって回復したシヴァは、彼女の操る屍であるリリー=ローズとの戦闘訓練に明け暮れていた。
愚鈍なイメージのある一般的な屍術と違い、ドローリアの屍術は素晴らしいものであった。
屍は生前と同じくらい――またはそれ以上に機敏に、舞うように鮮やかで多様な攻撃方法を披露してくれる。
その中でも最高の屍の何体かに入ると言うリリー=ローズは、肉弾戦において向かうところ敵無し。シヴァを苦戦させた黒死の姉妹の姉、ジエルメーラを超える速度を誇っていた。
普段は大人しくメイドに相応しい黒い靴を履いているが、戦闘となるとほっそりとした色の無い両足に似つかわしくない黒鉄の靴を履く。先を尖らせた鋼鉄の踵をもって繰り出される蹴りは巨獣の頭蓋ですら一撃で砕くことができるらしい。
そう言えば彼女の蹴りを避ける時に、その両太腿にぐるりと一周縫い合わせた様な痕を目にした。
それを不意に思い出したシヴァは、まあ屍術では複数の死体を合成して使用することも珍しくない、と考えて首を横に振った。
「魔法の使える奴がいるのか」
「ええ、しかも、飛びっきりの子がね」
これも屍術としては規格外のことである。普通、意志無き屍に魔法を使わせることはできない。
それにら魔力の根源はその者の生きている魂にある。だから死んでいる者には魔力が無いはずなのだ。
しかしドローリアの術の規格外具合はリリー=ローズの体術で散々見せつけられている。今更、特別驚くことでもなかった。
微笑んだドローリアは、長椅子から少し身を起こし(彼女には恥じらいと言うものが全く無いのでシヴァが紳士的に目をそらした)先程リリー=ローズが出ていった黒っぽい木扉へ向けて「来て」と呼ばう。
「ローズ=リリー、出番よ」
(ローズ=リリー?)
リリー=ローズと対称的なその名前が引っ掛かる。しかしシヴァが考えている内に木扉が開いてもう一人の屍乙女が姿を現した。
頭の高い位置で二つに結ばれた深い赤色の長髪。歩みに合わせて揺れる鮮やかな赤にヘッドドレスの白が映える。
目元には他の屍と同じく繊細な黒のレースの目隠しがされていた。これはドローリアのこだわりであるらしい。
温度の無い身体を包むのはリリー=ローズのものと同じデザインで、スカート丈だけが違って長く、足首まであるメイド服である。
腰には太めの茶色い革製のベルトが巻かれ、右側に分厚い濃紫の本が留められていた。
「この子がローズ=リリー。リリー=ローズほど頑丈ではないから優しくしてあげてね」
「……名前のせいで少し混乱するな」
「元は、リリーとローズだったの」
シヴァの言葉にドローリアは少し眉尻を下げてそう答える。彼女の暗紅色の瞳には懐古の色が浮かんでいた。
「二人はね、ティルトリア様の侍女だったのよ」
「…………」
「二人は昔から、心臓を抜かれてもティルトリア様のおそばにいて守ると言っていたから。実際にそうなってしまったあの日、強くなれるように作り替えたの」
「そうか」
ローズ=リリーを眺めながら、シヴァは短く答えて頷いた。それほど慕われていたという悲劇の皇后は、物言わぬ冷たい屍となる前、血の通う温かな生者であった頃、いったいどんな人物だったのだろうか。
「……よし、頼む」
「……分かったわ」
死者を思ってみても仕方がない。シヴァはふるりと頭を軽く振って気持ちを切り替える。
今のシヴァにそんな暇は無いのだ。一刻も早く皇宮の敵たちを制圧できる力を付けてウルを助け出し、イスグルアスを討たなければならない。
ドローリアは静かに頷いて、ほっそりとした手を持ち上げるとローズ=リリーに向けた。
「ローズ=リリー」
白い腕から仄かに立ち上る甘やかな黒薔薇の香。それは彼女の魔力。死に最も近しく、幽玄に憩う屍術士に相応しい妍麗な気配であった。
術者である女主人の命を受け、じっと佇んでいたローズ=リリーが動く。彼女は腰のベルトから濃紫の本を取り外し、さらさらと開いた。
(魔導書だな……)
本が持つ独特の気配に、観察していたシヴァはそう見当を付ける。
「訓練よ。殺しちゃ駄目。武器を取り落とすまでやって」
細やかな命令を与えられたローズ=リリーの気配がゆらりと変わった。ドローリアから流れた魔力が、冷たい乙女の中で渦を巻いている。
「……始めて」
直後襲い掛かった強風に、シヴァは堪らず目を細めた。暴嵐の魔法、これほどの威力を屍が発生させるとは。
両翼が煽られて体勢を保ちにくい。シヴァは咄嗟に黒翼を畳んだ。
(なるほど、俺の有利なところを潰していこうっていう作戦か)
面白い、と彼の唇の端が持ち上がる。
「行くぞっ!!」
そう言ってシヴァは床を蹴った。




