第16話.冥界の皇女
第60部目となります。読者様に感謝です。
牢の前で立ち尽くしている乙女を見つめ続けるのも疲れたウルは、取り敢えず彼女が口を開くのを待つことにして、途中だった食事を再開した。
慣れないものであるが不味くはないし体調にも支障はない。見慣れぬ変な形の果物を口に放り込み、口内で小さな種がパチパチと弾ける不思議なそれを味わう。
(僕が話しかけただけで青褪めるなんて、無力な精霊がそんなに怖いかな? 魔物にも色々な人がいるんだなぁ……)
魔物と言えどすべてが皇帝や黒死の姉妹の様な残虐性を持っているわけではない。精霊が皆聖人君子ではないのと同じである。
それでも“魔物”と聞くだけで身構えてしまうのは思い込み、偏見なのだなぁとウルはのんびり考えた。
もしかしたらこの乙女も、色々考えながらウルを見に来て、想像と違って思わず逃げてしまったのではないか。そう希望的観測をする。
だとしたら、少しずつ打ち解けられたりしないだろうか。牢を破るのに、ここへ簡単に出入りできる者の協力が得られたら心強い。
それに、打算はあれど魔物である彼女と言葉を交わすことに興味があった。
(魔物の中にも、精霊やエルフとの和平を望んでいる人がいるのかな……)
そうであったらどんなに良いか。そう思って、ウルは溜め息を吐く。
視界の端でその溜め息に反応した乙女がビクッとしたので「本当に怖がりなんだな……」と少し肩を落とした。
何もしていないしする気もないのにビクビクされると落ち込む。
(皇帝が討たれたら、冥界はどうなるんだろう? 各地の魔王の誰かが皇帝に即位したりするのかな……そしたら何の解決にもならない。きっとまた繰り返しだ)
マオの話を聞いた記憶を掘り返した。彼の父――ゴドラの魔王は、その思想において皇帝寄りだと考えられる。冥界に何人の魔王がいるのか不明だが、そう言った思想の者たちに領民ごと団結されたらまずい。
そう考えると、皇帝を討つばかりでは冥界とユグラカノーネの長い戦いに終止符を打つことはできないのではないだろうか、とウルは思った。
根本的な体制の改革が必要なのだ。しかしすべての魔王を倒すのも難しいはず。
(どうしよう……)
牢から脱出すらしていないのに、ずっと先のことを考えすぎてウルは呻いた。
いくら予言とは言え、ウルとシヴァの二人だけで――勿論、他人の協力抜きには考えられないが――神代から続いてきた精霊と魔物の確執を解消し、新たな時代を興すなど、あまりにも厳しすぎるのではないだろうか。
(もう、シヴァが皇帝になるしかないんじゃないかな……)
一応正統な血筋だし……と、シヴァが聞いたら盛大に顔を顰めそうなことを考え始めたウル。そう考えてしまうほどに彼が想像する未来は厳しい。
(その事も考えながら今後は行動しなきゃな……)
ウルは今度は乙女を驚かせないようにこっそり溜め息を吐く。
その時、ついに乙女が動いた。
「……貴方は、本当に、精霊なの?」
それを受け、慎重に、可能な限りの穏やかな動作でウルは乙女に向き直った。
星の銀色の目をゆっくり瞬いて、ハの字眉の下からこちらを見ている真紅の目を見つめ返す。
それから、ウルは少し微笑んで頷いた。
彼は、彼女が震えながらも一歩を踏み出してくれたことが何故かとても嬉しかったのである。
それに、相手は問い掛けからして初めて精霊に対面するのだろうから、以前自分がマオと対面した時の様な本能のざわつきを感じているに違いないとも思った。ならば、なるべく敵意が無いことを示すことができる雰囲気で応答しなければと考えたわけである。
「そうだよ、僕は精霊だ」
「そう……そう、なの……」
君は、とは訊かない。こちらから動けば彼女はまた逃げてしまうかもしれないからだ。
恐らくなけなしの勇気を振り絞って問いを発したであろう彼女は、見ているウルも悲しくなるような切ない表情で俯く。
微かに震えているのだろうか。耳元で遊色を華麗に煌めかせているオパールが小刻みに揺れていた。
その姿はどうしてか、すぐに駆け寄って抱きしめてあげたくなるような悲壮感に満ちていた。
やがて、彼女は悲痛な面持ちのまま顔を上げる。きゅっと引き結んだ赤い唇、固く握り締めた両拳。その両方が彼女の中の葛藤を目に見えるものとしていた。
「私は……」
言いながら、寂しげに気高く、泣きそうなままスッと背筋を伸ばすその様子は、見ていてとても悲しかった。
「私は冥界の唯一人の皇女。皇帝イスグルアスの娘、ハルザリィーン」
痛々しい孤独の気配を滲ませて“皇女”と言った乙女――ハルザリィーン。ウルは思わぬ事態に胸を突かれた様に唇を噛んだ。
「父帝陛下に……貴方と……いずれ、番うよう、命を受けました」
ウルはその内容に身を固くした。目を見開き、そして苦しそうに瞑目する。それからゆっくりと意味を考え、考えるまでもないとすぐに答えを出してあまりのことに俯いた。
(惨い、惨すぎる……どうして、実の娘にそんなことを)
決して涙を見せず、凛としていようと震えを押し隠しているハルザリィーンの気配に、目を閉じて俯いたまま、ウルは腰掛けている寝台についていた両手を固く握り締めた。
(あんまりだ、イスグルアス)
燃える地の底の胎動に似た憤りがウルの中で沸々と音を立てるようである。なんという身勝手。どんな顔でそれを彼女に命じたのか。そして彼女はどんな顔をしてそれを受けたのか。
ウルは、自分でもどうしてそんなに怒りを抱くのか分からなかった。相手は魔物で、言葉を交わしたのも今日が初めてなのに。
(……この子とは、仲良くなれるかもしれないと思ったから。そして……怖がる様子が、魔物のすべてが悪いものじゃないのだと考えせてくれたから)
もしかしたら打ち解けられたかもしれない相手が、怯えながらも一歩を歩み寄ってくれた相手が、それほどまでに残酷な命令を背負わされてここに来ていたとは思わなかった。
(イスグルアス……僕は、お前を許さない)
ウルは生まれて初めて他者をこれほどまでに強く憎んだ。しかし見下ろした左手首の枷に目が止まる。そしてどっと押し寄せるどうしようもない無力感。
どれだけ憤り、心の中で怒りの炎を燃やしても、自分にはイスグルアスを単身で討つに足る力はなく、ハルザリィーンを助ける術も持たない。
(シヴァ……やっぱり僕は、君がいなきゃ何もできないのか)
顔を上げないウルに、しばらくそこに佇んでいたハルザリィーンは「……ごめんなさい」と謝ってから去っていった。
今までになく目まぐるしく、意志に反して激動する遣る瀬ない感情はウルを混乱させ、そして聡明な彼は己の無力を正確に察した。
(どうして君が謝るんだ。僕は、どうしたら……)
ウルはその日、この牢に囚われてから初めて泣いた。あまりにも惨いハルザリィーンの運命に、そしてそれをどうにもできない己の無力に。




