第15話.薔薇紋の乙女
ウルは牢からの脱出方法をいくつも考えながら、しかし上手く行きそうにないと溜め息を吐く二日を過ごした。
あれきりサガノスは現れず、他の魔物が姿を見せることもなかったので精霊であるウルとしては無駄に心ざわつくことなく、密かに安堵した。
魔物が近づくだけでざわざわと項の産毛が逆立つのである。魔物を天敵とする精霊としての本能からの警告であった。
それに何より、ウルは湿地に蠢く蛇の様な気配をしたサガノスが怖かった。
(何をするにも、まずはこの枷を外さなきゃ)
そう考えながら、ウルは自身の左腕を持ち上げる。じゃらりと重たい鎖が音を立てた。
細い手首に嵌まった明らかに頑丈そうな鉄枷は、石の床に叩きつけるだけでは壊れそうにない。
魔力を封じる冥界の鉄。これがジジの魔導具の稼働を妨げなくて本当に良かったと思う。
(循環の力自体は僕の中で巡っているんだもんね……外に展開する結界式とかじゃなくて良かったや)
小さく息を吐く。それからウルはじめじめした壁に埋まる鉄鎖をじっと見つめる。
そして何を考えたか――その実それは想像に難くないが――彼は寝台に座り、壁に両足を付けて鎖を思いっきり引っ張った。
「ふんっ、うぐぐ……」
魔法の力が無ければ、彼は人間にも簡単に負けるであろう非力な少年である。その心意気は認めるが、確実に無理だ。
「っはぁ……やっぱり駄目だよね」
両手をひらひらと振る。
実に無駄な行動であったと自省する。ウルは少し疲れてしまった。
(どうしようかなぁ……少しずつ鎖の周辺を砕いていこうか……)
そう考え、めげない彼は左手首の枷を壁に添えて距離を測る。程よい角度で叩きつけなければ腕をかなり痛めるだろうから慎重にならねばならない。
枷で壁を削るのは土枝宮でもやったなぁと考えて彼は苦笑した。
その時、カツン、カツンと固い靴音がウルの耳に飛び込んできて、彼は慌てて壁に振り下ろし途中であった腕を止めた。
ウルが閉じ込められている石牢の鉄格子の壁からは、ここへ下りてくるための階段が――そのことから推測するにここは地下か何かだろう――見える。
それは階段の全容ではなく、ほんの終わりの一部でしかないから、階段を上った先が単純な扉なのか、見張りがいる鍵つきの扉なのかは分からない。
そんな冷たい石の階段を、誰かが下りてきていた。
最初に見えたのは、深い紅のドレスの裾と、そこから覗く金の靴を履いた白い足だった。
それから次第に、職人の気合いを感じる見事な作りのドレスがその全貌を現してゆき、同時にその美しい深紅を纏う者の姿もウルの目に入ってくる。
(だ、誰……? こんなところには、不釣り合いに感じるんだけど……)
彼女を見て、ウルは戸惑っていた。
魔物特有の気配を感じながらもウルが単純な戸惑いに首を傾げたほど、彼女はじめっとした暗い石牢のある場所に不釣り合いな姿をしていたのである。
牢の外に灯った明かり用の松明に似た魔導具の光に照らされた白い貌は、とても絢爛で派手な美しさをしているのに、どこか自信無さげであった。
それは、長いまつ毛に縁取られた真紅の目の上に完璧な形で置かれた柳眉が、何とも情けない様子の八の字になっているからであろう。
先の尖った耳には、大粒の紅玉に金剛石を三粒を連ねた耳飾りが揺れていた。
白蝋の如く青褪めた頬、きゅっと引き結ばれた薔薇の花弁の様に紅い唇。瞳の色も合わせて、白と赤の対比が鮮やかな美貌であった。
そんな美貌を縁取る様な長髪は黄金をそのまま絹糸の束に変えた様な艶やかさ。白い額の真ん中で左右に分けられた前髪の後ろから、頭の上半分の髪は結い上げられて金と紅玉の小さな冠を飾られている。
残りの髪は全て、緩やかなウェーブがかかって背中へと流れ落ちていた。腰まである金髪は、精霊やエルフの金髪には無い派手な華やかさを有している。
胸元に黒い薔薇が飾られた深紅のドレスは華奢な肩が露な形で、ウルはその白い肩の下、二の腕の上の辺りに紅の薔薇の紋様を見た。
彼女は白い両拳を更に白くなるほど固く握りしめ、牢の中のウルを見ていた。
そしてウルもまた、そんな彼女の紅玉の様な瞳をじっと見返していた。
――――……
見つめ合うだけ、そんな状態がどのくらい続いただろうか。
不意に牢の外の魔物の乙女が八の字だった眉を更にきゅっと寄せて何故か泣きそうな顔をすると、くるっと踵を返して階段を駆け上がっていった。
「えっ?!」
相手の出方を窺っていたウルは予想していなかった“撤退”に困惑して思わず腰を浮かせる。
しかしその後すぐ、バタンッという木扉が乱暴に閉まる音がしたので、ウルは乙女が本当に何もせずに去っていったことと、階段の先が木扉であることを知った。
「何だったの……?」
問いかけても、その言葉は宙に解けるばかりで答えは得られなかった。
――――……
それから二日後。また例の乙女がウルの牢の前へやって来た。
しかし、やはりしばらく見つめ合い――精霊であるウルにしてみれば睨み合うような感覚であった――を続けると、彼女はパッと逃げてしまうのであった。
(あの子は何がしたいんだろう? 僕のところへ簡単に一人で来れるんだから、皇帝の側近だとか言うサガノスと同等か、それ以上の地位の魔物なのかな……)
いつも華やかな格好をしているので、イスグルアスの妃か娘だったりして、とウルは考える。
(あんまり嫌な感じはしないからいいけれど……気になるよなぁ)
そう思ったウルは、次に彼女が現れたら声を掛けようと密かに決めたのであった。
それから再び二日が経った。意外と酷くない――ウルを飼うつもりだからだろう――食事を、体力のためにしっかり口に入れて考え事をしていたウルの耳に、またあの固い靴音が聞こえてきた。
ウルにとって未知の食べ物――毒入りではないだろうという適当な決定によって未知だろうが気にしていない――で頬を膨らませていたウルの目と、深い紫のドレスの裾を引いてやって来た乙女の目が合う。
またもやきゅっと唇を引き結ぶ彼女の様子に、落ち着いてごくんと口の中のものを飲み込んだウルは大きく息を吸った。
「……君は誰? 僕に何か用があるの?」
その問いかけを受けて、何故かサァッと青褪めた彼女は瞬きすらせず、見開いた目でウルを見つめ返していた。
呼吸が荒い。まるで恐ろしいものに対峙した者の様だ。魔力封じの枷を嵌められたウルの方が明らかに不利だろうと分かる状況にも関わらず、彼女はまるで肉食獣に睨まれた兎の様な表情をしていた。
「えっと、大丈夫……?」
「っ!!」
あまりにおかしいその様子に、ウルが思わず身を乗り出すと、彼女はビクッと細い肩を揺らして一歩後ずさった。
そのためウルは動きを止め、じっとして彼女の出方を見ることに決める。
ウルが寝台に大人しく腰かけて待っていると、やがて呼吸の落ち着いてきた乙女が後ずさった分の一歩、こちらへと戻ってきた。
しかし何か口を開くわけでもなく、拭い去ることのできない怯えを宿した真紅の目でウルを見つめている。
(どうしようかなぁ……困ったや)
ウルは見るともなしに彼女の二の腕の紅薔薇の紋様を見ながら、いったい何の紋様なんだろうと考えていた。




