第14話.皇帝の計画
ウルが目を覚ますと、そこはひどく寒い牢の中であった。それに気づいてバッと身を起こした彼は、じゃらりと鳴った鎖と妙な腕の重さで、左手首の鉄枷に気づく。
(これ……イシルの鉄じゃないけど、魔力が封じられている……)
簡素な寝台の左側の壁に繋がる重たい鉄の鎖と枷は、ウルの魔力を強烈な不快感をもたらしながら押さえつけていた。
(ここは、どこの牢だろう……転移魔法は成功したからシヴァは逃げられたと思うけれど……無事かな)
それから、ウルは自分の首を撫でて魔導具の存在を確かめる。それから足首も確認した。そこに光る美しい銀環を見てホッと安堵の息を吐く。
これは、冥界ではその空気に瞬く間に身体を蝕まれてしまうウルの命綱だ。これを失うことは即ち、ウルの死を意味する。
なるべく音を出さないように、そろりと動いて寝台を下りる。左側と頭側を壁に付けた寝台の向かい側もまた壁。そちらを向いたまま目だけを右に向ければ、そこは一面、表面の錆びた鉄格子であった。
(見張りは、置いていない? 一体誰が僕をここへ……)
そこでウルはハッとして自分の腹部に手をやった。ディエルオーナの腕に貫かれ、大きな穴が開いていたそこは、今やまったくの無傷である。
それはつまり、誰かが治療を施したということで。
「お目覚めですか?」
「っ!!」
突然、そう声をかけられてウルは飛び上がりそうになり、慌てて声の聞こえた方を向いた。見開いた銀星の目には、鉄格子の向こうに立っている男の姿が映っていた。
「誰……?」
嗄れていた喉から、ようやく出てきた単語だけで訊ねる。
今のウルは魔力を封じられてまったくの丸腰、何もできない状態だ。それを分かっているから、彼はとても緊張して瞬きすらできずに鉄格子の向こうの男を見ている。
そんな視線と正体を問う言葉を受けて、黒緑の髪に、果たして開いているのか分からない糸目の男はクツクツと喉を鳴らして笑った。
「失礼、驚かせてしまったようですね。私はサガノス。この冥界を治めるイスグルアス皇帝陛下第一の側近でございます」
以後お見知りおきを、と慇懃無礼な印象の声と少しばかり道化じみた大袈裟な動作で礼をされ、ウルはぐっと唇を引き結ぶ。
(イスグルアスの側近ってことは、ここはまさか皇宮なの?! 目的地だったからある意味では良いのかもしれないけれど、僕はまったくの無力だし……どうしよう?)
「……僕を、ここへ閉じ込めて、どうするつもり? 人質のつもりなら、多分僕は役に立たないよ」
(シヴァなら、そうする。目的のためなら僕を切り捨てるはず。そうしてくれなきゃ困るし、しなかったら僕は怒るからね)
この状況から、なんとかシヴァが皇帝を討つための道を整えられないだろうかと頭を回転させる。その思考に引きずられ、緊張で強張っていた顔に皮肉っぽい笑みが浮かんだ。
ウルの言葉に、サガノスはその顔に浮かべていた気味の悪い笑みを引っ込める。無表情になると、この男は途端に冷酷な印象となるので、その身体から溢れる湿地の気配の様な忍び寄る死に似た魔力の威に、ウルは思わず震えそうになった。
「……まったく、考えの浅いことで」
「え……?」
ぽつりと呟かれた言葉に、ウルは怪訝そうな顔で眉をひそめる。その直後。
「っ!!」
鉄格子の向こうに立っていたサガノスが姿を消し、次の瞬間彼は牢の中に現れてウルの首を乱暴に掴み、寝台に引き倒した。
(なんて速いんだ! まったく反応できなかった!)
喉への衝撃に咳き込みながら、ウルは早くなっていく鼓動を耳の奥で感じていた。もしやこのまま嬲り殺されるのだろうかという嫌な想像が脳裏に浮かぶ。
至近距離で、薄く開いた切れ目の様な黄金色の瞳がウルを見ていた。瞳孔が縦に細い。あまりにも温度を感じられない金針の様なその色にウルは息を呑む。
まったく音の無い動き、そしてその剣呑な湿った気配はまるで蛇の様だった。
「あの半霊半魔のことを考えているのですね。それならご心配なく。あれの気配はナズロアの荒野へ飛びました。黒死の姉妹が言う通りの重傷ならば、すぐに野垂れ死ぬでしょう」
(場所を特定されている、けど……この話を信じるなら、シヴァは狙われていないってことになる。どうか生きて、シヴァ!)
皇帝の目がシヴァに向いていない今を好機に、戦えるまで回復すれば霊具を持つ彼には勝機があるかもしれない。
ウルはそう考えて胸に希望を抱いた。
「陛下が貴方を手元へと望んだのは、あれの存在の様な些事とは比べ物にならない、冥界の未来、勝利の栄光へのお考えがあってのことです!」
話の内容からか、サガノスの手に力がこもる。喉を握り潰されそうなその力に、ウルは藻掻いてサガノスの腕を掴んだ。
「おっと失礼。私としたことが、つい力が入ってしまったようです」
パッと離れた手。開いた気道へ空気が通り、ウルは盛大に咳き込む。荒い呼吸を繰り返す彼を、先程よりは少し距離をとって見下ろすサガノス。そのおどけた様な声音とは真逆の冷たい眼差しを、ウルは涙目で睨み返した。
「ククク、自分がどんな目に遭うのか、その可愛らしい小さな頭で必死に考えておられますか?」
白手袋に包まれた指先で額をトントンと突かれる。払う様に首を振ると、再び喉を鳴らす様な笑い声が降ってきた。
「口止めされているわけではないので教えて差し上げましょうか」
「別に知りたくな――っ!」
「弱者が口答えをするな」
一瞬で顎を掴まれ、耳元で低く囁かれた言葉にウルは喉を詰まらせた。この男は速すぎる。ウルには、まったくその動きが目で追えない。
黙したウルの様子に満足したのか、サガノスは蛇の様に素早くしなやかな両腕で彼を拘束したまま嗤う。
「あの半霊半魔は強かったでしょう? 使いこなすことはできなかったようですが、かなりの魔力も有していた」
(それが、何だって言うんだっ……)
「陛下はこうお考えです――――『魔物と精霊をかけ合わせれば更に強いものを生み出すことができるのでは』と」
「は……?」
「あれは精霊の性質に傾いていたようですが、魔物に傾いたものが生まれれば冥界に付くことでしょう。そしてその半霊半魔は――」
その後に続くであろう言葉を想像してウルは青褪めた。それを見てサガノスは歪んだ笑みを深めた。
「精霊の国へと侵攻し、その中へと潜り込んで……内側から崩壊させることができる優秀な兵となる」
あの美しい故郷が内側から冥界の軍に荒らされる様子を、火を付けられた世界樹ユグドラシルの姿を想像して、ウルは目を見開いて震える。
半霊半魔は冥界にもユグラカノーネにも入ることができる特別な存在だ。サガノスの言う通りだった。
「そんなこと、できる、わけ……」
あまりに恐ろしい話に、ウルは震える声でそう言った。サガノスは「普通なら、そうでしょうねえ」と笑う。
「けれど今、我等の手元には、ちっぽけな一匹の精霊がいる」
低く告げられたその言葉。ウルはヒュッと引き攣る様に息を吸った。
「ただの精霊であれだけのものが出来上がったのですから、アルタラの一族の精霊を使ったら、どれだけのものとなるのでしょうね?」
固まっているウルを歪んだ愉悦の笑みで見下ろし、その細い首に光る銀環を撫でるサガノス。
「エルフの魔導具ですね。作り手には感謝しなければ。これのお陰で様々な実験を長く行うことができる」
銀環に触れていた指がウルの鎖骨をなぞりながら下りてきて心臓の上で止まる。ウルにとっては途轍もなくおぞましいことを言いながら、彼は嬉しそうに続けた。
「貴方の心臓が止まるまで、たっぷり利用させていただきますね」
貴方の故郷を焼くために、と愉悦の滲む声で締めくくり、サガノスはウルから離れて立ち上がった。
呆然と石造りの天井を見上げたまま固まっているウルをそのままに、来た時と同じく音を立てずにサガノスは去っていった。
(どうして、そんな、おぞましいことを考えつくの? 僕が、ユグラカノーネを滅ぼす道具になるなんて、そんなこと、させるもんか……もしそうなるなら僕は、舌を噛み切って死んでやるっ……)
思わずこぼれそうになった涙を拭ってウルは身を起こした。まだ牢の中にサガノスの気味の悪い魔力の気配が残っている。それを振り払う様に「僕は負けないぞ」と呟いた。
両の拳を握り締め、ウルはガバッと顔を上げて繰り返した。
「僕は負けないぞ!!」
すべての始まりのあの石牢はシヴァが破った。
二度目、土枝宮の牢は二人で力を合わせて抜け出した。
今度はウルが、たった一人で、この冥界の牢を破るのだ。
(そしてシヴァにもう一度会う)
会って、皇帝を討つ。
二人が生きて冥界を出るには、それしか道は無い。




