第11話.分断
地上と冥界を繋ぐ扉をくぐった時によく似た、真っ白な眩しさと浮遊感。
転移の感覚は、旋風が気まぐれに通り過ぎて頬をくすぐる様な気配に似ていた。
そんなことを不意に思った次の瞬間、シヴァの傷だらけの身体はドサッと乱暴に乾いた土の地面に投げ出された。
(……ここ、どこだ)
起き上がる力が湧いてこない。
一刻も早く立ち上がり、一歩でも皇宮に近づかねばならないのに、血を流しすぎた身体は自分のものではないと思う程に重かった。
(ウルは、どうなるんだ……そもそも、何故イスグルアスはウルを狙った?)
赤黒い雲が重く垂れ込めた空を見るともなしにぼんやりと眺めながら、シヴァは回らない頭でじっと考える。
(人質……けど、ウルは自分がユグラカノーネの不利益になると判断したら死を選ぶだろう。それに……霊王も)
イスグルアスは、ユグラカノーネに住まうアルタラの一族の家族間の結びつきを、とても強いものと捉えているのだろうか。
それはある意味では正しい。彼らの絆は深く断たれることがない。
しかし、霊王は千のためならば一を切り捨てる、王としての冷酷さも持っているのだ。
そして一族の者たちも、国のためならば自身の命を捨てることを厭わないだけの覚悟をしている。
そうでなければ、ユグラカノーネはとっくの昔に冥界に潰されていただろう。
(それくらい、承知してると思うけどな)
ならば何故。
あれだけの強者を(どこか壊れてはいたが)二人も送り込んできて、シヴァの殺害は恐らく二の次であった。
シヴァを殺すことが目的ならば、ウルなど早々に片付けて放っておけば良いのだから。
(……何か、嫌な予感がする)
その嫌な予感の正体を探ろうと頭を悩ませようとした時、スッと意識が遠退き始めるのを感じた。
これはまずい、と彼は慌てたが、身体は鉛の様に重く、貧血で白くなっていく視界に焦ってもどうしようもない。
(まさか、ここで、死ぬのか……? 折角ウルが、命をかけて逃がしてくれたのに)
悔しさに滲む視界に、ふと小柄な影が現れる。
それが何であるか確かめる前に、シヴァは意識を失った。
―――――………
誰かが小声で話している。
相手の応える声は聞こえない。
暗闇に、しんしんと、誰かの声だけが満ちていた。その声音は甘く煮詰めすぎた薔薇の花弁の様で、厭世的な鬱々とした暗い気配を忍ばせている。
「…………死ぬわ」
不吉な単語だ。
それを聞き取って、シヴァはぼんやりと目を開ける。
黒い天井が見えた。視界は暗く、左側からぼんやりと橙の明かりが差している。
自分は固い台か何かに寝かされているようだ。背中がとても痛かった。
「放っておけば、ね。とても綺麗だもの。いい仲間になるわ……」
続いた声に、シヴァは目を閉じた。
自然に呼吸を続けながら、この部屋にいる声に耳を傾ける。
どうやらその女は、シヴァが目を覚ましたことに気づかなかったようだ。
「でも、あの男が、追っていた子だわ」
(……誰と話しているんだ?)
「ええ、あの時、わたしが門を開いて逃がしたの」
応える者の気配は感じられない。
シヴァは内心で舌打ちをした。この場にいる者の人数が分からないと、下手に起き上がることもできない。
身体のあちこちにぱっくりと口を開けている裂傷は、ようやく出血を止めたようだが、それにしたってもう血を流しすぎているのだ。
意識を失ってから、どのくらいたったか知らないが、確かに放置されていたら死ぬことは間違いない。
「だって、そうすればあの男が困ると思ったから……」
シヴァは気配を探るのを諦め――この状態で殺されていないのならもしかしたら相手は敵ではないかもしれない――女が震える声でする話の内容に集中することに決めた。
「わたしはどうしたらいいの? この子を助けたら、また、あの男は困るかしら?」
(……本当に、誰と話しているんだ?)
「そうなの? うぅ、ティルトリア様がそう言うのなら……助けようかしら……」
(ティルトリア……?)
聞き覚えがある。
この地で、モルモルの一族に守られて暮らす前、父と過ごした短い時間のどこかで聞いた名前だ。
シヴァは必死に血の足りない頭を回転させ、過去の記憶をほじくり返す。
(思い出した! イスグルアスの皇后だった女の名前だ)
確か、皇女を産んだことで皇子を期待していたイスグルアスに首を斬られ、荒野に打ち捨てられたはずだ。
悲劇の皇后、とその当時は皆が囁き合っていたらしい。
シヴァが生まれてそこそこの時間が経過してからのことであった。
イスグルアスは焦っていたのである。
そこで漸くできた子が、しかし自分の跡取りとなり得ない皇女であったことから、激怒し、皇后の首を刎ねたのであった。
(ずっと前に死んだ奴の名前がどうして出てくるんだ……?)
珍しい名前だが、たまたま同じ名前の女がこの部屋にいるということだろうか。
その時、ずっと震える声で話していた者の気配が動いた。さやさやと布が床に擦れる音がする。
シヴァは目を閉じたまま、その様子を探った。
「本当に綺麗なのに。でも、ティルトリア様が助けようって言うんだもの……殺しちゃ、駄目よね」
シヴァが寝かされている台の傍らに、声の主が衣擦れの音と共に立った。
切り傷のある左腕に冷たい指が触れる。シヴァはどうしたものかと悩んでいた。
(どうやら俺を助けることになったらしいが……何が目的だ?)
それに、先程この声の主は「わたしが門を開いて逃がしたの」と言っていた。その言葉が引っ掛かる。
「冷たい……皆と同じだわ。もう助からないんじゃないかしら?」
腕に触れていた指が、するするとシヴァの喉元まで上がってきた。その細い指が喉仏を撫でた瞬間、シヴァは飛び起きた。
「きゃぁっ?!」
「っ……」
飛び起きはしたものの、失血の影響ですぐに身体がぐらつく。台の上に片膝を立ててしゃがんだ体勢を何とか維持して、酷い眩暈と頭痛にシヴァは呻いた。
そんな状態で、目を細めて悲鳴を上げた相手を見る。相手は台のそばに灰色のマントに包まれて転がっていた。
「けほっ……おい」
「あぁぁぁっいや、生きているっ。死にそうだったのに、あんなに綺麗だったのに、あぁ、これは有り得ないくらい生者だわ!!」
「…………」
灰色のマントの塊が蠢いて、白い頭が持ち上がった。柔らかそうな白い長髪は、まるで白蛇の群の様に絡み合い、酷い乱れ様である。
「やっぱり生きているものを拾ってくるんじゃなかった!! きちんと死んでからにしなきゃ、やっぱり駄目なんだわ」
頭を振りながら、その女は両手を床に付いたのか、灰色のマントが肩から滑り落ちて腰の上に柔らかく溜まる。
華奢な肩、白い長髪を流す艶かしい肩甲骨の曲線。二の腕の向こうに柔らかく女性的な膨らみを垣間見て、シヴァはそっと目をそらした。
用意していた台詞が全部「何でこいつは服を着ていないんだ頭おかしいんじゃないか」という言葉に押し流されてしまい、彼は微かに眉根を寄せる。
「いやよ、こんなの! たとえティルトリア様の命令でも、わたしは、生きている者と同じ空間にいるなんて耐えられないっ! リリー=ローズッ! これを拾ったところへ捨ててきて!!」
自分に裸の背を向けたまま叫んだ相手を見て、シヴァは現状彼女はそれなりに無害であると判断し(話の内容はともかく)部屋を見回した。
黒剣と霊弓テンペスタは台の足元に無造作に転がされている。
黒と白ばかりの部屋は結構な広さで、どっしりとした黒檀の調度品が暗がりに溶ける様にして重々しく佇んでいた。
唯一の灯りは台から少し離れたところにあるテーブルの上の蝋燭の、細く燻らせる様に揺らめく灯だけである。
(話し相手はどこだ?!)
直前まで、この、床で泣いている女と話していた者がいるはずだ。こんな状況になったのだからすぐに飛びかかってきてもおかしくはないのに、姿すら見えない。
その時、シヴァの視線の先にある木扉の蝶番がキィィ……と鳴って、ゆっくりと開くのが分かった。
ゆらり、と室内に踏み込んできた氷花の様な冷えた気配に、シヴァはざわりと鳥肌が立つのを感じた。




