第5話.水の枝守
場所は変わり水枝宮の奥殿にて、銀の薄い水盆に魔力の淡い光を灯してそれを覗き込んでいる者がいた。
さらりと揺れる長い長い髪は汚されることのない真の銀色。水盆を見つめる目は手の届かぬ泉の深みの色だ。月の光に溶けてしまいそうな白い肌に、流れ落ちる様な薄絹が重なる純白の長衣を纏って、たおやかな手には金色の長杖を握っている。大きな雫型の金枠の中心に青の天球型の宝玉の収まった彼女の霊杖だ。
柳眉を微かにひそめて、彼女は水盆の中の少年を見ている。
(貴方の顔は覚えている。色を変えたくらいで見逃すはずがない。絶対に、逃がさないわ)
彼女は水の枝守。右掌に赤い花を持つ夏の枝生まれだ。名をミルテルと言い、ウルーシュラの生まれ枝違いの姉である。
彼の顔立ちを水枝宮の兵士たちの脳内に魔法で伝え、街に放った。そしてリヴィエール中に張り巡らされた水を”目”にして彼を探した。おそらく他の都でも同じことが行われているだろう。
そして見つけた。久々に見た義弟は見知らぬ青年と歩いていた。水精の姿に変装していたが魔物とも精霊とも言えない不気味な気配を持つ生き物と。
「捕まえて」
ミルテルの声が水盆を通して広場の兵士たちに届けられた。
――――……
兵団長らしき男の手にある雫型の水晶玉から、女性の冷たく凛とした声が響いた。やはり、ミルテルだ。彼女が自分の顔を兵士に伝えたに違いないとウルは拳を握りしめる。ドキッとしたことによって慣れない変装の魔法が解けてしまい、シヴァの黒翼を見た兵士たちがざわめいた。
『もう一人はどうでもいい。精霊は逃がさないで』
「了解いたしました」
ウルが見るとシヴァは剣も抜かずに腕を組んでいる。何故、と軽く睨むと彼は「剣はいらない」と鼻で笑った。自分の身くらい自分で守らなければと考えてウルはウラヌリアスを喚ぶ。
「抵抗するな。我々は荒事を好まぬ」
兵団長が言う。ウルは必死で首を横に振った。その横でシヴァが肩を震わせて笑う。
「笑わせてくれるね。そんなやる気で武器を構えながら“荒事を好まぬ”だって?」
「貴様、我々を愚弄するか」
「ん? いや、別に?」
その次の瞬間には翼で勢いをつけたシヴァが踏み込み、兵団長をぶっ飛ばしていた。兵団長の顎を思いきり蹴り飛ばした体勢のまま、シヴァは艶然と目を細める。
「来いよ。全員ぶっ飛ばしてやる」
ドサッと兵団長の身体が石畳の地面に倒れた。すぐさま兵士たちが憤りも露わに飛びかかってくる。シヴァは恐ろしく正確に、猫の様にしなやかな動きで兵士たちを沈めていった。
そして、最後の兵士の鳩尾に鋭い一撃を叩き込んで容易く夢の世界へ飛ばし一息つく。鮮やかだった。それからすたすたと、倒れたままの兵団長に近寄り、彼の懐から先程の水晶玉を取り出す。
「俺のもう一つの狙いはこれさ」
そう言った彼は水晶玉に話しかけ始めた。
「水の枝守だな?」
『…………』
「この状態から察せるだろうが、あんたの兵じゃ俺には敵わない。無駄なことはやめるんだな」
『……貴方は、別に構わない。問題は……』
「ウルだろ」
向こうの気配がピリリと鋭くなった。それを感じ取ってシヴァが嘲笑うように鼻を鳴らした。
「あんたらがどう思っていようが関係無いね。こいつは自分で選んだんだ。俺と来る茨の道をな」
『……自分のものでない呪いを背負い込む気なの。すでに様々な因果を抱えている様子なのに』
「……ふん。今更一つ増えたって何も変わりゃしないさ。それにただ抱えるだけじゃない。利用させてもらう」
『……そう』
返答の直後水晶玉が唐突に冷たくなり始めた。その気配にウラヌリアスを構えたままだったウルが慌てた様子で「それを放して!!」と叫ぶ。シヴァはすぐにその声に従った。投げられる水晶玉の煌めき、そこに宿り始める青色の魔力粒子。
「本人が来る!」
「はぁっ?! 嘘だろ、枝守ってのは枝宮から動かないもんだとばかり……」
『その浅慮と、愚かな責任感で貴方は己の首を絞めたのよ』
水晶玉が空中で内側から鮮烈な青の光を放ちながら砕け散った。途端に襲い掛かる強力な魔力の気配。ウルはひやりと背筋が冷えるのを感じた。
(……怖い)
「死にたければ死ねばいい。水は全てを洗い流すものだから、障害は、邪魔者は……」
シャン、と金と青の霊杖が澄んだ音を立てる。風もないのにふわりと揺れる銀の長髪、ウルを見つめる泉の底の冷たい眼。
「破壊するだけ」
水の枝守ミルテルが二人の前に立ち、そう宣言した。
――――……
その頃、火枝宮。
「イルジラータ様」
茶色の短髪に炎の瞳をした青年が息を切らして火の枝守イルジラータのいる火枝宮の奥殿に飛び込んできた。
若竹の色の長髪を左耳の下で緩く束ね、先の尖った耳に金の耳環を揺らした青年……――イルジラータが羊皮紙の束から、つと金色の目を上げる。
「どうした」
「“あれ”が、リヴィエールで見つかり、現在ミルテル様の兵団が交戦中とのことです」
「リヴィエール……ふん、あの奇妙な男も考えたものだ」
イルジラータは顎に手を当てて少しばかり黙考する。ほぼ無意識にその指先が左頬の四片の花に触れた。主の様子を炎の瞳の青年……――火枝宮の兵団長ラビは不安げに見つめている。
「……何にせよ、枝守は他の都に踏み入ることが難しい。今はミルテルに任せておくしかあるまいな」
「そうですか……」
「気は抜くなよ。何かあればすぐに向かう」
ラビは頷く。はなからそのつもりであったし、何なら今すぐにでも突撃できるくらいに用意はしてあるのだ。それから、とイルジラータの金色の目が宙に向けられる。何も見ていないその目は彼が“あれ”について話す時のものだ。
「躊躇いは捨てろ。迷いが刃を鈍らせる」
「……僕は、大丈夫です」
「……そうか。ならいい。下がれ」
その言葉に立ち上がり、一礼してラビは奥殿を出た。柔らかな象牙色の石造りの廊下を進みながら、主の空虚な目を思い出す。
(……まだ、躊躇いと迷いを捨てられないのは……貴方ではありませんか?)
まるで己に言い聞かせるようにしてイルジラータがラビに伝えたあの言葉。ラビの心を不安に揺らす、寂しさの色が隠れたあの瞳。
(やはり貴方は、優しすぎるんだ)
だからこそ、主の剣である己がやらなければならない。躊躇いも、迷いも何もかも、主のためなら捨てる。剣は迷わない。剣に情は要らないのだ。
そう心に強く刻んだラビは深く息を吸ってから、火枝宮の一画に与えられている自室に戻った。