第3話.赤蝶の森
突然の目の前に現れた予想外の景色に、銀星の目を見開いたウルは小さく感嘆の溜め息を吐いた。
荒れ果て、神に見捨てられた様なこの黒岩の大地にこんな場所があるとは。
地面を覆うのは深緋の芝に似た植物。夕焼け空に浮かんだ星の煌めきの如く、深緋の中に時折混ざる小さな銀色は四片の花であるらしい。
開けた場所を円形に囲む黒い木々は鮮やかな赤い葉を繁らせ、まるで赤々と燃えている様であった。
木々の向こうには黒岩の壁がある。ぐるりと首を巡らせて見れば、ここが二人が通ってきた道の壁の延長で円形に囲まれた場所であることが分かった。
超自然的造形だ。見事にここだけ円形になっているとは。
そんな円い箱庭の如しこの空間を、風に弄ばれる赤い木の葉の様にひらりひらりと舞っているものがあった。
先程ウルの頬を掠めたものだ。
(赤い、蝶だ……)
それはまるで赤光で作られた幻であると錯覚してしまいそうな掌大の蝶であった。
赤く目映いのに、次の瞬間には消えてしまいそうな儚さがある。
(だから“赤蝶の森”なのか……)
黒い木々の枝の合間を、燃え盛る炎の様な葉の狭間を、ひらりひらりと舞い踊る幻想の蝶。
ウルはその赤光が描く軌跡を目で辿り、ふっとシヴァの背に視線を戻した。
シヴァはふらりと恐ろしくゆっくりとした動作で一歩踏み出し、そのまま深緋の芝の広場の真ん中まで歩いていく。
そこで彼は膝を付き、そっと手を伸ばして地面に触れた。
「…………ハディス」
涙の代わりに零れ落ちた言葉は、親鳥を求めて彷徨い歩く雛の鳴き声の様に弱々しかった。
ウルはしばらくその背をじっと見つめていたが、やがてふと目をそらし、燃え盛る炎の様な葉を揺らす黒木の森に足を踏み入れた。
今は、シヴァを一人にしておくべきだと思った。
――――………
それからしばらく、赤蝶の舞い踊る森をてくてくと散策したウルが広場に戻ってくると、シヴァが何やら手の中のものを眺めていた。
「……シヴァ?」
「ああ、ウル。ありがとう」
一人にしてくれて、と続けた彼は手の中のものをそっと差し出す。ウルはそれを覗き込んで首を傾げた。
「……指輪?」
「俺が切り落とした、あいつの左手の小指に嵌まっていた指輪だ」
「触って平気なのか」
「ああ。ここにあるのは許せないから、外で砕いてしまおうと思ってな」
もやもやする、とウルはそれを睨んだ。魔物の頂点に君臨する皇帝の指に嵌まっていた指輪である。それは精霊である彼にとって気持ちの良いものではないだろう。
黒っぽい血の染みが付いた金の太い指輪だった。
猛禽のものの様な五本の爪に血の様に赤い紅玉が捕らえられた意匠が、邪悪さを醸し出している。
「君では砕くのは難しいだろう。僕がやるよ」
「……そうだな。頼む」
そうして二人は赤蝶の森を後にした。
シヴァは一度も振り返らず、真っ直ぐ、今までより更に強い意志を宿した瞳で歩を進めた。
行きとは違った気持ちで細い道を戻った二人は、すぐにその場にしゃがみこんで指輪の破壊にかかった。
シヴァが地面に指輪を置く。
ウルはウラヌリアスを構え、その石突を指輪に添えた。
(ウラヌリアスが嫌がってる……ごめん、すぐ済ませるから)
パチッと魔力の火花を散らして反抗するウラヌリアスに謝りながら、ウルは指輪に精霊としての純粋な聖なる魔力を注ぎ始める。
ピシッと紅玉に皹が入り、続いて藻掻き苦しむ様な動きで五本の爪がバキッと外側に開いた。
(この指輪自身が強い魔力を持っているんだ……すごく、抵抗している)
パンッと黄金の輪が弾けた。飛んだ紅玉の破片がウルの白蝋の様な頬を掠める。
ウルは微かな痛みの後、つーっと温かなものが頬を流れ落ちるのを感じた。
「……大丈夫か」
完全に砕けた指輪を見ていたシヴァの手が気遣わしげに伸びてきて、頬を伝い落ちる赤を指先がそっと拭ってくれる。
「平気だ」
ウルはゆるゆると首を振った。慣れてしまった治癒魔法を体内で発動し、頬の傷を治す。
「これで、いいかな」
「ああ、ありがとう」
「よし、行こうか。ゴドラの城下町へ」
砕けた皇帝の指輪を一瞥し、ウルは立ち上がった。もう魔力の気配は無い。その内灰になって消えるだろう。
ウラヌリアスから、ふわりと紅色の魔力粒子が舞った。多分抗議の声である。
(ごめんよ、ウラヌリアス。でもこれだけは、やりたかったんだ。シヴァのために僕が何か出来ることと言えばこのくらいだから……)
精霊の半身である霊杖にとって、邪悪の権化の様な冥界の皇帝の指輪に触れるなど最悪の気分であったろう。
ウルだって、見るだけでその紅玉に蠢いていた澱んだ魔力に吐き気がしたのだから、ウラヌリアスが抗議したい気持ちもよく分かった。
だがこれだけは。
(今の僕はただでさえお荷物だからなぁ)
シヴァの憂いを少しであれ取り除きたかった。
シヴァに並んで歩きながら、ウルはウラヌリアスを宥め、何とか抗議の気配を薄れさせることができた。
「……止まれ」
「??」
苦労して半身の機嫌を直した途端これだとウルは若干げんなりしながらも足を止める。
シヴァの藍色の目は油断なく辺りを見渡していた。何だろう、と首を傾げた直後風向きが変わる。
「!!」
風に乗ってウルの鼻に届いたのは獣のにおいであった。聴覚を鋭くする魔法を発動すると、前方から複数の獣の足音、呼吸の音が聞こえてくる。
「シヴァ……」
「恐狼の群だ。ちっ、面倒なのに見つかったな」
岩を蹴る微かな音。瞬時に反応したシヴァが、崖の上から飛び降りて襲い掛かってきた灰色の大狼を、抜き払った黒剣で迎え撃った。
『ガルゥッ!!』
灰色の剛毛は振るわれた鋭刃に全くと言って良いほど傷つかない。
その恐狼は警戒する二人の前にすたっと着地した。
『アォーーーンッ!!』
喉をこちらに晒しての遠吠え。仲間を呼ばれては敵わないとシヴァがその白っぽい毛の生えた喉に剣を一閃する。
しかし。
『グルゥッ!!』
「ぐっ?!」
剣が弾かれた。ウルはシヴァの剣が弾かれるところを初めて見たので、呆然としているシヴァの顔をついまじまじと見てしまった。
(シヴァの剣は皇帝の指すら切り落としたのに! 何て硬いんだろう!!)
遠吠えに答え、沢山の恐狼が崖から飛び降りてくる。
牙をむき、爪もこちらに向けて飛び掛かってくる灰色の大狼たちに、シヴァは焦りを見せた。
「せいっ!!」
そんな中で、ウルが突然ウラヌリアスの石突を真っ直ぐ地面に叩きつける。溢れ出した鮮烈な魔力にシヴァが振り返った。
「大丈夫、バレない様にする」
薄紫の魔力粒子が舞い踊り、此処等一帯の空気に溶けていく。恐狼たちは警戒してか、鼻を鳴らし、ぐるぐると二人を囲んで歩き回っていた。
「空間を、隔絶する!!」
辺りを覆った魔力がこの場を切り離された箱の様な状態にした。
恐狼の群はそれに気づいて結界の様に場を囲う薄紫の魔力壁を睨んでいる。
「シヴァ、僕の後ろに」
ウラヌリアスを構えたウルがそう言うと、シヴァは藍色の目を瞬いて苦笑した。
「まさかお前にそんなことを言われて、背に庇われる日が来るなんてな」
「僕もびっくりさ」
そんなやり取りをする二人の前で、恐狼たちは状況を把握したらしい。
灰色の毛に映える沢山の黄金色の目がウルに向いた。大きな口が開き、赤い口腔に舌が動くのが見える。
「おいで、僕が相手だ」
直後、最前列にいた一頭が牙をむいてウルに飛び掛かった。
ダイアウルフ、実在する絶滅した大きな狼ですが、あくまで名前を拝借したモデルです。




