第18話.結界の軋み
ウルは慣れない飛行に加えて速度を出していたので、上手く勢いを調節できずに女王の館の庭に突っ込んだ。
ころころころ、と芝の上を転がったウルは「う」と悔しさと鈍痛に短く呻いた。
「おいおい、いくらなんでも焦りすぎだ」
「……ここで急がなきゃいつ急ぐんだ」
「さぁ。皇帝の首を獲る時とか?」
くくっと喉を鳴らして、庭で待機していたシヴァは笑った。結界を揺るがす魔物の赤黒い攻撃魔法の光が、シヴァの瞳を夜と黄昏の境の様な不可思議な紫に染め上げている。
「ジジは? あいつが門を開くんだろう」
「先に行けって……」
「そうか」
ウルはむくっと身を起こして空を仰ぐ。どこまでも白い結界の輝きと、果てなく紅い攻撃の煌めきが銀星の瞳の上で混ざり合う。
「……これが、魔物の魔法なんだね」
「ああ。お前らのお淑やかな魔法とは大違いだろう」
「うん。とても、攻撃的で乱暴だ」
二人の間にしばらく沈黙が降りた。その静寂にも、結界が軋む音と絶え間ない攻撃の音は響く。
ウルは芝の付いた服を軽く叩いて立ち上がった。ウラヌリアスは握り締めたまま、じりじりと静かに胸の奥を焦がす焦燥に唾を飲む。
反対にシヴァの瞳はしんと凪いでいた。だがウルはその裏に抱えきれないほどの激情が渦を巻いていることを知っている。
「……それが魔導具か」
おもむろにシヴァが言った。視線をウルに向けている訳ではない。彼の目は冥界軍の攻撃に抵抗を続けている結界に向けられたままである。
「うん。さっき完成したばかりなんだ。ちゃんと実験もしたし、大丈夫さ」
「…………」
シヴァの目がふい、とウルに向いた。組まれていた腕が解けて、すっと手が伸びてくる。
形の良い指先がコツン、と首環の魔石を突いた。とろりとした紅色、シヴァの血を封じ込めたこの魔導具の要だ。
「……今更“本当に来るのか”って言うのは禁止だぞ」
魔導具を見ていたシヴァは、その言葉に魔導具からウルの顔へ目を移す。
「僕はどうなったって君と行くし、君が何を言ってもついていく。一人で行こうとしたら羽を思いっきり掴むからな」
「……それはやめてくれ」
二人は顔を見合わせて、それから笑い出した。
シヴァは口の片端を上げて笑む。
「分かってる、そんなこと言わない。こうなったからには最後までついてきてもらうさ」
「ふふ、そう来なくちゃ。そういう顔こそ君らしいもの」
「ふん、どういう顔だ」
緊張が少し解けた、とウルは肩をすくめた。それと同時に、誰かの声が二人の耳に届く。
「……マオ?」
「そうみたいだ。ほら」
シヴァが北方を指し示した。その先に目を凝らす。近づいてくる影があった。微かに判別できる暗い紅色の髪、確かにマオであるらしい。
「……あれ? もしかして」
「あいつ、苦労してんな……」
空を飛ぶマオが近づいてくると色々なことが分かり、ウルとシヴァは溜め息を吐いた。
マオは空を飛ぶにあたり、黒竜の翼をその背中に生やしていた。黒い鱗に覆われて先の尖った尻尾も相まって龍人の様だ。
問題はその背中の上。両翼の間に、ちんまりとした者が座っていた。
ぼっさぼさの紫の髪の両側に一筋ずつ揺れる白髪、表情の変わらない幼い顔。ぐるぐると濁った黄緑色の瞳。言うまでもなくジジである。
彼女の小さな両手は、マオの頭に生えた立派な黒い角をひしっと掴んでおり、さながら竜騎士の様な威風堂々とした姿であった。
その状態のまま、マオが二人の前に着陸した。それと同時にジジはその背からひょいっと降りて、ウルを見上げる。
「門、開く。支度、して、きた。結界、もう、保たない」
シヴァとマオは結界を見上げて彼女の言葉に頷いた。あちこちに白光の皹が入って、結界はキシキシと軋んでいる。
ジジは短い丈の黒いローブをバサッとその場に脱ぎ捨てた。何故かその中の袖無しの白い長衣は足を覆い隠すほどズルズルである。
「主、ローブを投げるな。それと、何でそんな大きな服……」
「ん」
ローブを拾うマオの言葉に適当に頷いたジジは、握り締めた金の短杖を地面に向けた。
途端描かれる薄緑の魔法陣。その光に下から照らされて、ジジは目を細める。
「ジジ、小さい。門、開く、保たない」
「え?! そんな、じゃあ、何でこの役目を……」
「おいジジ、俺たちはそこまで……」
「主のやりたいことを、否定はしないけどさ……俺と主は一心同体なんだぞ……?」
三者三様の焦りを見せる彼等に、魔法陣の光に照らされたジジは首を傾げた。
「大丈夫、ジジ、大きくなる」
「「「え??」」」
三人の声が揃ったところで、魔法陣の発光が激しくなり、三人は思わず目を閉じてしまった。
――――………
メシャ、と結界に槍の穂先が突き刺さって皹を入れる。それを見た咆哮将軍ミレイシアは、じりじりと迫る緊張に唾を飲み込んだ。
「皆、来るよ」
彼女が率いる咆哮軍の兵たちは静かに頷いて結界の向こうの冥界軍を睨んでいる。その静かさは、さながら獲物を草陰から狙う獅子の様であった。
キリ、と紅竜の弓を握り締める。一纏めにした黒髪がさらりと風に揺らされた。
皹の隙間から溢れてくる冥界の魔物たちの魔力の波涛。ひやり、と冷える背筋。
来る、と悟った直後、結界が割れた。
その瞬間、冥界軍の魔物たちはドッと割れ目を勢いで突き破ってシリエールに踏み込んできた。
――――………
光が収まって、ゆるゆると目を開けたウルはそこにあった光景に口をポカンと開けてしまった。
そのまま左右を見れば、シヴァもマオも同じ様に呆然としている。
だよなぁと何処か遠くで納得しながら視線を戻した。そこにいたエルフはこっくりと頷く。
「ほら、ね」
「うん……そう、だね……?」
取り敢えず何か言わなければ、と思ってウルはそう答える。
相も変わらず左右の二人は口を開かないので、彼は一応訊くことにした。
「ジジ、だよね……?」
「ん」
ぐるぐると濁った黄緑色の瞳をしたエルフの乙女は、こっくりと頷いたのであった。