第4話.水の都リヴィエール
翌朝目を覚ましたウルは、目の腫れぼったさに昨夜の事を思い出して溜め息を吐いた。
極力音を立てないように寝台の上で身を起こす。
幽閉されていた間に勝手に身に付いた癖だ。両手を寝台について大きく欠伸をする。
そろり、と隣を窺うとそこにはこちらを向いて窓に背を向けた体勢で静かに眠っているシヴァがいた。青みを帯びた少し硬そうな黒髪は解かれて肩から胸元へ、夜色の川の様に流れ落ちている。
閉じた睫毛が白い頬に影を落としている様子を眺め、ウルは寝台を下りようか止めようか思案した。下りたら恐らくシヴァは起きてしまう。自分を誘拐して運ぶのに疲れただろうし自然に起きるまで起こしたくなかった。
彼の寝顔をまじまじと眺め青い雫型の石を付けた、先の尖った耳に目が辿り着いたとき、ウルは自分の耳にも触れてみた。同じ様に先が尖っている。
(……君の、痛みの正体は何なのかな。抉り出してはいけないと知っているのに、こんなに気になってしまうのは何故だろう)
そう考えて、ウルはまた物憂げに大きく息を吐いた。桃色の瞳をけぶる様な長い睫毛が隠す。
「……何を考えてる?」
「っ?!」
ばたばたどたっ、とウルは床に落ちた。
くすくす、と笑いながらシヴァが身を起こした。床にひっくり返ったままのウルは、バクバクいう胸を押さえて彼を見上げる。
「……お、起きてたの」
「ああ。お前、意外と静かに動くなと思ったんだけど、その様子を見るに思い違いだったみたいだ」
「お、驚いただけだから……」
シヴァはまだ笑いながら寝台から下りてきた。立ち上がったウルはヒリヒリする背中に若干涙目である。
長髪を結うこともせず、シヴァは部屋の隅のクローゼットを開けてがさごそとあさり始めた。
「……君のか」
「ああ。いわく付きのこの部屋に入る奴はいなくてな」
それをいいことに私物化しているのか、とウルは長椅子に腰を下ろして彼を眺めた。その間にシヴァは服を一揃い取り出して寝台に投げている。深い青の衣。ズボンは相変わらず裾の少し膨らんだ白いものだ。
シヴァが上を脱いだのでウルは自分の服装を見下ろした。真っ白で少し長い上衣と膝丈の白いズボン。唯一の色はひらひらしてしまう上衣を腰で締める黒革の細いベルトだけだ。
真っ白々で、これでは街に出たら目立つだろう。よし、と思い立って霊杖ウラヌリアスを喚び出す。
「……何してんの、お前」
「放っておいて」
怪訝な目で問いかけてきたシヴァに短く答え、口の中で小さく呪文を唱える。薄紫色の光粒が集まってきた。
今の服を分解して再構成、足りない分は魔法で作ってしまう。出来上がったのは新しい……と言ってもほぼ色違いなだけの服だ。白の上衣は薄水色に、ズボンは青色になり、細いベルトは白くなった。
満足して、ひらひら長い袖を広げて自身を見下ろす。これなら青を好む水の精霊たちの中にいても目立つまい。
「変装の魔法はできるだろうから、やれって言おうと思っていたが服までいけるのか……便利だな」
「ふふん。これくらいはね」
「便利ついでに、髪と目の色を変えて、羽も付けろ。詰めが甘い。あと俺のもな」
「……分かった」
やった、と思ったのにまだまだだった。ウルは少し悔しいと思いながら別の呪文を口にした。
――――……
数十分後『白鳩の尾羽亭』から二人の精霊が出てきた。言うまでもなく変装したシヴァとウルである。
早朝のリヴィエールは、夜とはまた違った趣の静寂に満ちていた。爽やかな空気を胸一杯に吸い込んでウルは伸びをする。変装の魔法によって黒髪を深青にしたシヴァが街並みを眺めて「人が少ないのはいいもんだ」と呟いた。背中の黒翼は半透明な青色の木の葉の様な羽に変わっている。
「なんだか素敵だね」
水色の髪に羽、すっかり水精の少年に姿を変えたウルはにっこり笑う。彼にとっては何もかも、外界のことはすべてが物珍しい。
空を仰げばそびえ立つ世界樹ユグドラシルが目に入り、この街の丁度上に来るようにして一枝が伸びている。その上には白亜の宮城の姿がある。水の枝守が住まう水枝宮だ。
「…………」
「気にするなよ。行くぞ」
ウルの沈黙の言葉を察してか、シヴァは鼻を鳴らして歩き出す。頷いてウルはすぐにあとを追った。
水枝宮に住まう水の枝守は、火の枝守であるイルジラータと仲が悪い。それこそ、ウルが世界樹の幹の中、父王の園で育てられていた頃からだ。長い銀糸の髪を金と青玉で飾った乙女が、ウルの実兄であるイルジラータと言い争いをしている様子はしょっちゅう見かけた。
(……それでも、逃げた僕のことを、通達しないわけがない)
今は月光を身に飾るのが相応しいほどの美女になっているだろう、生まれ枝違いの義姉のことを考えてウルは少し気が重くなった。
―――……
大通りに出ると人は先程より増えた。朝食の露店や、新鮮な野菜や果物を並べる店が少しずつ並び始めているからであろう。
シヴァはふらりと近くの露店に近寄り、ほんの数秒で帰ってきた。その手には二つの赤い林檎。一つをウルに放って寄越し、もう一つはそのままシャリシャリとかじる。
何だかウラヌリアスの紅玉に似ているよなぁ、と感想を思い浮かべながら小さく礼を言ったウルは林檎をかじり始めた。
「……思ったより早い」
「え?」
唐突にシヴァがそう言った。何のことか分からずウルは林檎から顔を上げた。もしや自分の林檎をかじるペースだろうか? そんなに早くないと思うのだが……と林檎を眺める。
「……あちこちに兵士が配備されてる」
足は決して止めずに目だけでその数を数えていくシヴァ。兵士がいるようには思えず遠慮がちに辺りを見て首を傾げるウル。
「兵士……?」
いくら眺めても朝の買い物や散歩を楽しむ水の精霊たちしか見えない。勿論この都にいる兵士も水の精霊だが。
溜め息を吐いたシヴァは、再び林檎をかじりながら小声で教えてくれる。
「あの、小物屋を眺めてるふりをしてる奴。あっちの木の下で串焼きを食べてる奴も」
それから建物の二階の窓、あちこちを目で示す。ウルは示された者たちを見てみたが、どう見ても一般人だ。そう呟くと、シヴァは「まあお前には分からないだろうな」と言う。反論できないのが少し悔しい。
「ちょっとした動作が一般人とは違うんだ」
「……へえ」
そうこうしているうちに大通りから広場に出た。この広場はリヴィエールの中心にある。ここから四方に大通りが延びており、ユグドラシルを向いて左側の道を行くと隣の土の都ラコリーヌに辿り着く。
広場の中央には大きく見事な噴水があって人々の憩いの場となっていた。
「……さあ、門をどう破るかな」
「魔法を破る霊具が設置されている」
「ああ。知ってるさ」
頷いたシヴァはそれから簡単そうに一言呟く。
「簡単に正面から行くか」
「え?!」
少し焦ってそう言うウルに、シヴァはちらりと一瞥をくれる。
「なんとでもなるぜ?」
「ええぇ……」
広場のユグドラシル側の大通りの端がにわかに騒がしくなった。明らかに一般人に見える何人もの水精がこちらに向かって歩いてくる。だが統率されたその動き、彼らは兵士だ。ウルはヒヤッとして彼らを見る。
「ああ、こりゃあいい。向こうから来た」
その言葉のあとに響き渡ったのは水枝宮の兵士たちの「逃亡者発見!」という声だった。