第14話.夜のざわめき
シヌゥたちが去った日の夜。
しんしんと降る月光よりも静かに眠っているシヴァの横で、ウルは眠れずに天井を見上げていた。
嫌な胸騒ぎがする。
多分これは本能のざわめきだ。いったい何故だろう。
ウルはそっと身を起こし、するりと寝台から下りて部屋を出た。
ちらり、と隣の寝台のシヴァを窺うが、長い黒髪を解いて眠る彼の気配は変わらない。起こした、と言うことはなさそうだ。
(……魔導具の作成も順調なのに。何なんだろう)
考え込みながら館の庭に足を踏み入れると、青白い月光の降る幻想的なそこには先客がいた。
「あ……女王陛下」
シリエールの女王スノアリィル。夜だからかいつもその額を飾っている白銀に白い月石の嵌まった額冠は無かった。
その代わり、月光を紡いだ様な長髪は、銀色の髪紐でその毛先を緩くまとめられている。
「眠れませんか、ウルーシュラ」
「……はい、何だか、胸騒ぎがして」
月光を纏った水晶の様な美しい女王は、ウルの言葉に少し目を細めた。
白の長衣を微かな音と共に引きずり、それに負けないほど白い素足で青い芝を踏んで彼女はウルの前まで歩いてきた。
「ウルーシュラ、これを御覧なさい」
そう言って彼女のたおやかな手が差し出したのは、白銀縁の円形鏡だった。
ウルは両手でそれを受け取り、戸惑いながらその澄んだ鏡面に目を落とす。
月光を反射する美しい鏡面。しかし、ウルはすぐに顔をしかめた。
「うっ、これは……」
「貴方にも見えましたか」
「な、何ですか、これ……」
円形鏡を落としそうになり、ウルはふらふらと座り込んだ。膝の上に載った鏡は恐ろしく重たく冷たい。
「冥界の軍です。シリエールを目指して進軍しています」
「え……?」
ウルは再び鏡に目を向ける。
そこには醜悪な魔物たちの群が映っていた。粗悪な槍や剣を手に、しっかりと並んで歩を進めている。
精霊の本能が目をそらせ、と命じるがウルは目をそらせずにいた。すると鏡の中の景色が別のところへ移動する。
どうやらそこは軍の先頭らしい。
「あ……」
赤い目をして鋭い牙を持つ大きな黒馬に乗った、もうすぐ枯れ落ちそうな薔薇に似た暗紅の髪をした壮年の男の魔物がいる。
鎧の様に腕や頬を覆う黒い鱗、同じく黒い鱗に覆われ、先に槍の穂先の様なものが付いた蜥蜴の尾。
そして髪の合間から前方へ向けて緩やかに湾曲した黒く立派な角と鈍い金色の目。
(マオの、お父さん……ゴドラの魔王だ)
ウルはそれに気づいて震えた。髪と同じ色をした髭と、うっすら見える皺を除いてしまえば、彼はマオにそっくりであった。
「どうして……?」
「冥界の皇帝が指示したことでしょうね」
「冥界の、皇帝……」
「あの男とシヴァは、悲しいことに血が繋がっている。あの男の力が及ばないユグラカノーネから戻り、地上に降りたことでシヴァが新たな力を得たことに気づいたのでしょう」
「それ、は……」
「霊具と貴方です。あの男は疑り深い。そして臆病者です。シヴァが帝位を狙っていると未だに思い込んでいる」
実際狙っているのは命なのに、と溜め息の様に続ける女王。ウルは絶句した。
その愚かなほどに疑り深い性格で、冥界の皇帝イスグルアスは実の弟であるシヴァの父を殺し、シヴァの育ての親たちを殺した。シヴァの家族を二度も残酷な手段で奪ったのである。
「なんて……なんて身勝手なんだっ……」
「ええ、その通りです。ですが、これは好機でもあります」
「え……? それは、一体どういうことですか?」
座り込んだまま女王を見上げ、ウルは首を傾げた。
背後に月を置き、その光の化身の様に麗しく煌めく彼女は、その視線を受けてウルを見下ろす。
「通常、冥界は出入りをほぼ禁じられ、固く閉ざされています。ですが、軍を通すためにはそれを緩めるしかない。そして万が一のため、軍には退路が必要です」
つまり、と女王はうっそり微笑んだ。
「冥界の軍が地上にある限り、冥界は普段に比べて格段に入りやすくなる。シヴァと貴方が行くならば、その時しかありません」
女王はそっと屈んでウルの手から円形鏡を取り上げる。艶のある青灰色の瞳が鏡面をじっと見た。
「……元々の計画では、私が門を開く予定でした。ですが、こうなった以上シリエールは防衛に専念しなければならない。私の結界は最も重要な役目を負います」
「では誰が、その、門というのを開いてくれるんですか?」
女王の瞳がふっとウルを見た。その呑み込まれそうな青灰色に、酩酊の様な感覚を覚える。
やがて形の良い薄い唇がふわりと微笑みを浮かべた。
「ジジです。彼女ならば、確実に通れる門を開けるでしょう」
それだけ言って女王は踵を返し、ひどく優美に、まるで滑る様な動作で館に戻っていった。
座り込んだままそれを見送り、ウルは考え込む。
(僕とシヴァを狙って、ここが戦火に包まれるんだ……これが、僕らの道)
この程度と言いたくはないが、しかしこの先にはもっと酷いことも待ち受けているだろう。だから、これだけで負けてはいられない。
(マオのお父さんが来るのって、多分、偶然じゃないんだよね。冥界の事情は詳しく知らないけれど、魔王は何人かいるはずだし、わざわざゴドラの魔王が選ばれってことは……)
でもきっとマオなら大丈夫だろう、とウルは月を仰いだ。彼にはジジがいる。
しんしんと降る青い月光を浴びて、ウルの銀星の瞳もうっすらと青を帯びた。
(いつでも発てるように、用意はしておこう)
冥界との戦いが、始まろうとしていた。




