第12話.変換の力
ゆったりとしたお茶の時間が終わり、マオが食器を盆に乗せて片付けに席を立つ。そこでシヴァが口を開いた。
「ウルを調べたんだろう。どうだった?」
「ん。違い、出た。これから、見る」
こっくりと頷いて答えたジジは、先程作業台に置いていた試験管立てを机へと運んできて真ん中に置く。
相変わらず試験管の中には、元血液の透明な液体の上に、ふわふわした靄が浮かんでいた。
試験管立てを安置したジジは、次に大きな棚の前までとことこ歩いていき、上から棚全てに目を走らせた。
目的のものを発見したのか、短杖の一振りで引き寄せた踏み台を設置し、棚からしっかりと蓋をされた大きな集気瓶を取り出す。
かなり大きかったのでジジの小さな身体がふらついた。それを見たウルは慌てて駆け寄り、踏み台から後ろへ倒れたジジを抱き止める。
「大丈夫?」
「おぉ、ウルーシュラ、早い。助かった」
「どの瓶か教えてくれれば取ったのに」
「ん。じゃあ、運ぶ、頼む」
ジジは頷いて集気瓶を差し出した。それを受け取ったウルはそのままそれを机まで運ぶ。
椅子に座りっぱなしだったシヴァが「悪いな」と肩をすくめた。
「弓を引きすぎてあちこち痛い。今日の俺は戦力外だと思ってくれ」
「君、そんなに引いたのか。治癒魔法掛けようか?」
「筋肉痛にも効くのか?」
「精霊の魔法を舐めるなよ」
得意気に微笑んで答えたウルは「ウラヌリアス」と自身の霊杖に呼び掛けた。ふわりと舞う薄紫の魔力粒子と共に、彼の半身ウラヌリアスが顕れる。
銀月と銀翼、拳大の紅玉が美しい。銀環に揺れる紅の雫石が触れ合い、玲瓏たる音を立てた。
さて治癒魔法を、とウラヌリアスの頭をシヴァへ向けたウルは、自身に注がれる熱い眼差しに気づく。
「……ジジ? どうかした?」
「精霊の、魔法、初めて、見る。とても、貴重。観察、させて」
「なるほどね。うん、いいよ」
とは言っても、誰かにまじまじと観察されながら魔法を使うなんてなかなか無いことである。ウルはする必要のない緊張に背筋を正した。
「いくよ、シヴァ」
「おう、頼む」
ふわりと薄紫の魔力粒子が溢れ、それが薄絹の緒の様に連なり、幾筋もの光の細帯になった。それがシヴァに纏わり付き、ウルの魔力を伝えやすくする。
すっと息を吸い、紡ぐ言葉に魔力を乗せる。
「癒せ」
力ある言葉が放たれた。乗せられた魔力が柔らかな癒しの力に変換され、その暖かい黄緑色の輝きは光の帯を伝ってシヴァの身体に浸透していく。
ふわりと身体に満ちた暖かさにシヴァは藍色の目を閉じた。薄く開いた唇から細い吐息が漏れる。
「シヴァ、どう?」
「すごくじんわりする……はぁ、あちこちほぐされてる感じだ……」
「うん、効いてるな」
ウルは頃合いを見て魔法を止めた。ウラヌリアスは、薄紫の魔力粒子の固まりになって大気に解ける様に散っていく。
若干名残惜しそうにシヴァの目が魔力粒子の行方を追う。
「はぁ~、しばらくこのままにしてくれ」
「分かった」
溶けた猫の様になったシヴァは、頭に手をやって金の髪紐をしゅるりと解いた。さらりと夜絹の糸束の様に真っ直ぐ流れ落ちる艶やかな黒髪に一度指を通し、彼は満足げな溜め息を吐いて再び目を閉じた。
それに苦笑したウルは、気を取り直してジジに顔を向けた。そしてぎょっとした。
「ジ、ジジ……?」
「すごい、すごい……エルフの、魔法と、かなり、違う……術式、繊細、柔軟」
「え、えーと、ありがとう……?」
「ありがとう、は、ジジ、言う。すごい、ウルーシュラ、また、見せて」
「う、うん」
ジジは頬を赤く染めて、少し荒い呼吸と共にウルを見つめていた。若干ふらついている。心配だ。
「魔導具、作る、ウルーシュラの、力、借りる、かも」
「本当? それは勿論協力するよ!」
「その時、また、じっくり、見る」
「あはは……」
気を取り直して。
ジジはウルが机に運んだ集気瓶を手で示して、試験管立てから三本の試験管を取り上げる。
「瓶、中、冥界の、空気。違い、そこへ、入れる。血、より、反応、早い」
「へえ……」
興味深い、と頷いたウルにジジは目を細めてうっすら微笑み、金の短杖を構えた。
短杖の先の菱形の紅玉に薄くジジの魔力が纏わり付く。ジジは試験管の蓋をすべて開け、試験管の口に短杖の先を近づけた。
すると試験管の中から違いの靄がするすると上ってきて、細い紐状になり、短杖にくっついて試験管から出てきた。採血の魔法に似ている。
ジジは一つ目のウルの靄を杖先に付けたまま、自分のとマオのを同じ様にして取り出した。
「靄が混ざらないの?」
「ん。全部、種族、違う、平気。種族、同じは、混ざる」
「そうなんだ……」
そう説明しながらジジの左手が集気瓶の蓋に乗せられた。素早く蓋を少しだけ開き、靄を全て中へ押し込みすぐに閉じる。
「うっ、けほっ……」
「大丈夫、か。少し、吸った?」
「う、うん、近づきすぎた。こほっ」
作業が気になって、つい近づきすぎたとウルは反省した。ひりひりと喉が痛んで咳が出る。冥界の空気とは精霊の身にこんなにも有害なのか、と背筋が冷えた。
(シヴァの母親は、それでも冥界に行ったんだ……皇弟を、シヴァの父を、愛していたんだな)
その中で暫し生き抜いて、シヴァを生んだ女性を思い、ウルはそっと瞑目した。
「大丈夫。魔導具、完成、すれば、平気に、なる」
「本当……? 君はすごいや……」
また一つ咳き込んで、ウルは集気瓶の中に目を向けた。
三つの靄の塊は冥界の空気の中で緩やかに渦を巻いて大人しくしている。
マオの靄の金色は濃くなり、ウルの靄の銀の煌めきは心なしか弱くなったようだ。ジジの銀糸と緑の靄は相変わらずである。
その様子をジジはぐるぐると濁った黄緑色の目でじっと見つめていた。ウルもそれに倣って瓶の中の靄を観察した。
変化はすぐに訪れた。
ウルの銀糸の靄が端から黒ずみ始め、その炭の様な黒は瞬く間に星の如し銀を侵食していき、靄全体が黒い糸玉の様になる。
そしてウルが驚きの声を上げる間も無く黒くなった靄はボロボロと崩れて消えた。
マオのものやジジのものに変化はない。
「ジジ……これ……」
「まだ、見る。ジジのと、マオの、消える時、必要なもの、見える」
「うん……分かった」
ジジの目は真っ直ぐ瓶の中を見つめている。その真剣さ見て息を呑んだウルは、ドキドキと煩い胸を押さえて観察を続けた。
それからかなりの時間が経ってジジの靄は黒に侵食され始め、ウルの靄の時とは違い、緩やかに黒に染められていった。
やがて全体が黒になるとボロボロと崩れて消える。ここは先程と同じだ。
そこで意外なことが起こった。
冥界の空気の中で生き生きと金糸の靄を輝かせていたマオの靄が、ジジの靄が消滅した直後少し揺らぎ、つられるようにして消えたのである。
「あっ……」
「使い魔と、主人は、命の、繋がり。ジジ、死ぬと、マオも、死ぬ」
「そう、だね……」
「大丈夫。ジジ、死なない。強い」
そう言って胸を張った彼女にウルは苦笑した。
さて、観察の結果、ジジは何を発見したのだろうか。ウルは「何が分かったの?」と訊ねた。そこで「何か分かった?」と訊かないのは、彼がジジは確実に何かを掴むと確信していたからである。
ジジはこっくり頷いた。
「必要なもの。シヴァの、血」
「えっ?!」
予想もできなかった言葉にウルは思わず机の傍ら、椅子にてぐんにゃりしているシヴァを見る。
彼はいつの間にか静かに眠っていた。双翼で上手く身体を支えた、なかなかに良い姿勢である。
「寝てるね……」
「ん。血は、後で、採ろう」
「じゃあさ、どうしてシヴァの血が必要なのか聞かせてほしいな」
「ん。分かった」
身を乗り出してそう言ったウルに、ジジは頷いた。
「シヴァ、半霊半魔。ずっと、冥界、いられる。そこに、特別な、変換の、力ある」
「変換の力……」
「エルフ、変換の、力無い。耐性、だけ」
「うん……あれ? じゃあシヴァの血で、またこの実験するの?」
「しない。必要、無い」
ジジはふるふる首を横に振ると、手近な棚から羊皮紙を引っ張り出して机に置く。
そこへ短杖の先を向け、さらさらと何かを書き付ける動作をした。
すると羊皮紙にジジの魔力が伝わり、ぼんやりと黄緑色に光る文字が現れた。
「魔物、空気、取り込む。変換、しない」
丸を描いて下に“魔物”と書き、丸の中にバツ印を書き込む。
「精霊、空気、取り込む。変換、できない」
同じ様に丸を描いて“精霊”と入れ、バツ印を付ける。
「エルフ、空気に、耐性ある。変換、少しできる」
それも書き込んだジジは顔を上げてちらっ、とシヴァの方を見た。
「エルフ、空気、変換、できなくなって、駄目に、なる。シヴァ、ずっと、続けられる。そこが、違い」
真ん中に分断する様に線を入れた丸を描く。その横にジジはさらさらと何かを書き込んだ。
「変換、の力。本来、使えない、はずの、精霊の力。魔物と、混ざって、それが、発現した」
魔物は空気を変換する力を元々持ち合わせていない。身体に害が無いからそもそも持つ必要の無い力なのだ。
そして精霊は変換“できない”のである。
そこに半霊半魔のシヴァという存在が加わると自ずと結果は見えてきた。
「精霊は、元は、冥界の、空気、変換できるはず。でも、何らかの、理由で、できない。シヴァは、混ざってる。その、何かの枷、外れた」
書き込まれたのは細やかな魔法の術式だった。それを解読しようと覗き込むウルに目を細め、ジジはうっすらと微笑んだ。




