第7話.ちょっと悲しい事故
マオは召喚されたときのことを思い出しながら、苦々しい表情で口を開いた。
「モルモルの一族の居場所を報告することに反対してから、俺はゴドラの魔王城で冷遇されてた。まあ、兄弟もいなかったから次期魔王の座は揺るがなかったんだけど」
マオが、まだマオではなかった頃。もう少し立派であったと願いたい名前を持ち、次期魔王として知識を詰め込まれ、冷酷になれと再教育を受けていたあの時。
不意に周囲の空間が歪み、彼の足下に紫色の魔法陣が現れた。それが放つ光は瞬く間に彼を呑み込み、冥界から地上へと連れ去ったのである。
「召喚されたってすぐ分かった。それで、一応俺にも次期魔王だっていう矜持があったから“どんな偉大な魔導士が俺を召喚したんだ?”って思ったし、次期魔王なんだから偉ぶろうってその一瞬で決めた」
そんな決意を固めた彼の視界を覆う紫光が弱まり、彼が目を開けるとそこは薄暗い小さな部屋であった。本が馬鹿かという程に高く積み上げられ、怪しい標本が魔法陣の放つ光に照らされていた。
そして、そこにはジジがいた。右手には先端に菱形の紅玉が光る短い金色の杖を握っている。ちんまりとした、それでいて得体の知れない魔力を放つ彼女を見下ろし、マオは開口一番にこう言い放ったという。
「よもやゴドラの次期魔王である俺を喚び出す者がこの様な……小さい、エルフだとはな」
「え……君ってそんなこと言う人だったのか」
我慢できずにウルは呟いた。マオは恥ずかしそうに頬を掻いて苦笑する。
「あの時は疲れてたんだよ。取り敢えず偉く振る舞えっていう再教育の最中だったしな」
そして、その偉ぶった言葉を受け取ったジジは、感情を読み取らせない濁った黄緑色の目で彼を見上げ、こっくりと頷いたのであった。
「ジジ、使い魔、欲しい」
「はっ、愚か者め。俺はゴドラの次期魔王だぞ。貴様の様なエルフの使い魔に下るわけがなかろう」
「……親切。怒ってる、様に、見えた、けど、優しい」
何を曲解したらそうなるのか。ジジはそう言ってほんの少し目を細めた。それが彼女なりの微笑みであるとマオが知るのは少し先である。
「何を言っているんだ貴様は。俺のどこが親切だというのだ」
「名前、自分から、名乗った。それ、契約、してもいいって、こと」
「は?!」
勿論彼は“ゴドラの次期魔王”という称号であるものしか伝えていない。だと言うのにジジは「名乗った」と繰り返す。彼女はまたもや、黄緑色のぐるぐるした目を細めた。
「ゴドラの、魔物、ジキマオ」
「次期魔王だ!」
「ジキマオ」
「ま・お・う!!」
「……ジジ、間違った」
そう言った彼女に、彼は少しなれど安心した。まあ、間違った名前では契約などできないから問題は無いのだが、再教育中だった彼にとって「次期魔王」という称号は間違ってもらっては困るものだったのである。
「主は難聴でも何でもないのに、この時は聞き間違いが酷くてさ……」
「……召喚陣、維持、疲れる。ジジ、ぼんやり、してた」
「そうなんだ……僕は召喚術を使ったことがないから分からないや」
「なら、今度、やる」
「本当? やった。一度やってみたかったんだ」
二人のやり取りを眺めてマオは微笑んでいる。ウルは話を中断したことを謝り、続きを話してくれるよう促した。マオは構わないと言って頷く。
顔を再び彼に向けたジジは、自信満々な様子で口を開いた。
「マオ、だ」
「だから違うと……」
彼が否定しようとした直後、足下の召喚術が強く発光した。ぎょっとして口をつぐんだ彼を他所に、ジジは短杖をピシッ彼に向ける。
「ゴドラの、マオ。ジジの、使い魔、契約、する」
「ま、待て、そんな名前じゃできるわけ」
「ジジ・リゼット・ランドール。マオの、主だ」
召喚陣が立ち上げている見えない壁で隔てられた二人の間に魔力によって構築された契約書が浮かび上がる。上にジジのフルネームが書き込まれ、その下に『ゴドラのマオ』と彼の新しい名前が書き込まれた。
その直後、彼の頭の中から本名に関する記憶が消し去られた。
そして理解した。
「主の魔力が、俺の魔力を遥かに上回っていたから、名前を書き換えられてしまったんだ。まあ主は、それを俺の名前だと思い込んで、名前を縛ったつもりだったみたいなんだけど……」
はぁ……とマオの重たい溜め息が狭い研究室に響く。ウルはその“ちょっと悲しい事故”に言い様のない切なさを感じてマオの肩を優しく叩いた。
ジジは衝撃、とでも言いたい様な表情でマオを見ている。
「マオ、マオじゃ、なかったの、か」
「そうだよ……まあ、もう、いいんだ。ここでの暮らしも意外と悪くない。と言うか俺の性分にあってるんだ」
「悪い、こと……した。マオ、名前、失くした……酷い、こと」
マオの顔を見つめながら、ジジはふるふる震えだした。そんな彼女の小さな身体をマオは優しく引き寄せて抱きしめる。そっと背をさする手の優しさ、ウルは彼が本当にジジのことを大切に思っているのだと感じた。
「いいんだ主。俺は、きっとあのまま冥界にいたら、父さんみたいな冷酷で残虐な魔王になってた。それは……嫌だったから、これでいいんだ」
「マオ……」
「ここでの生活は心地がいい。俺は、最初こそ事故だったし悲しかったけど、今は主の使い魔になれて嬉しいと思ってるよ」
「ん……ジジも、マオ、来て、くれて、嬉し、かった」
二人はそっと身を離し、微笑み合った。
「ジジ、マオの、名前、取り戻す、魔法、探す。約束」
「本当か? うん……ありがとう、主。待ってる」
ウルはなるべく息を殺しながら、頭の中で考えていた。失った記憶を取り戻す魔法から、類似系統へ構築し直せばそう言った魔法を作ることも可能ではないだろうか。
そして静かにしたことで彼はあることに気がついた。苦笑して扉を振り返る。
「――……君も、今の話聞いていたろう。もう怒らずにいられるんじゃないかい?」
ジジとマオが「?」と顔を上げる。ウルは扉までゆっくりと歩み寄って、そっとドアノブを回した。
扉からすぐの壁にシヴァが拗ねた様な表情で寄りかかっていた。
「……気づいてたのかよ」
「途中で気づいたんだ。テンペスタの気配は探りやすいみたいだ」
「ふぅん。そうか」
「で、どうなんだ?」
「…………」
シヴァは大人しく部屋の中に入ってくると、床に座っているマオの前に立った。
「お前の事情も把握した。冷静になったよ。一方的に責め立てて悪かったな」
「お、俺もっ、あの時、父さんを止められなくて……すまなかった」
「いいんだ、お前の責任じゃないし」
マオは立ち上がり、シヴァはウルに背中を押されて一歩前に出る。
「それじゃあ、これからジジに世話になるから、お前も、よろしくな」
「ああよろしく。部屋を散らかすのだけは勘弁してくれ。片付けるのは俺なんだ」
こうして先程まではピリピリしていた研究室に、柔らかく穏やかな空気が満ち溢れたのであった。
マオとジジの出会いの詳細はシリーズ内の『混沌系変人エルフと苦労性使い魔の出会い』に描かれていますので是非!