第6話.怒りと空虚
ウルがシヴァの攻撃に気づいたのは、魔物の青年が、唐突に腕を覆った黒い鱗でシヴァの剣を防いだ瞬間だった。
「っ、いきなり何、すんだよっ、あんた!!」
青年が腕を払いシヴァを弾く。本の塔を一つ倒して着地したシヴァは鋭い目で青年を睨んだ。青年もまた黄金色の瞳でシヴァを睨み返している。
「お前、ゴドラの……かなり高位の魔物だな?」
「そうだけど、それがなんだよ!」
「やっぱりそうかっ!!」
シヴァが吠え、再び青年に襲いかかる。おろおろしているうちに倒された本の塔から振ってきた分厚い本を頭に食らったウルは、ハッとして慌ててシヴァに飛び掛かった。
「落ち着け! 君の気持ちは分かる、でも彼は無関係かもしれないだろう!!」
恐らく“ゴドラ”と言うのは魔物の住む地区の名前で、そして……シヴァの育ての親であるモルモルの一族の最後の潜伏場所であった場所であろう。その地区を治める魔王が皇帝に通報したことでモルモルの一族は惨殺された。
ウルに押さえられながら、シヴァは荒い呼吸を繰り返す。その目はギリッと青年を睨んでおり、手を緩めればまた飛び掛かっていくだろう。
「落ち着くんだ、シヴァ。ゆっくり、ゆっくり息をするんだ」
「…………悪い、ウル。もう大丈夫だ」
そう言ってシヴァは俯き、剣を鞘に納める。青年は警戒を解かないまま、腕を覆っていた鱗を消し、伸びていた爪を元に戻した。そして微妙な空気がその場に漂う。
ウルが何か言おうと口を開いた時、塔であった崩れた本の山の向こうから小さな影が歩いてきた。
「……マオ、何してる。本、倒れた」
「あっ、主! こいつ、いきなり部屋に入ってきて襲いかかってきたんだけど!!」
「……シヴァ」
青年が振り返ってそう声を掛け、その小さな人影は無惨な本の山を越えてシヴァの名前を呟く。
ばつが悪そうな様子で腕を組んだシヴァが溜め息を吐いて言った。
「……ジジ、まさかとは思うが、こいつ、お前の使い魔じゃないだろうな」
「ん。マオ、ジジの、使い魔」
光球の明かりの下へ出てきた幼げな声の主は、ぐるぐると濁った黄緑色の目をシヴァに向けていた。その少女は小さく、十歳の子供程の背丈をしていた。
あちこちがぴょんぴょん跳ねている長髪は、両側の白いもみあげを除く全てが深紫で、その狭間から先の尖った耳が生えている。肌は日の光を何年浴びていないのやらと心配になるほど白い。
袖無しの白い長衣に銀の細帯を締め、片側が華奢な肩からずり落ちている短い丈の黒いローブを着ている。その胸元には金の翼竜が紅玉をぐるりと巻く様に抱く少し大きな胸章が光っていた。
「そうか……悪かったな。えーと……マオ、とか言ったか」
「あ、ああ。うん。いいよ、怪我もしてないしさ」
少女……ジジは、のこのことシヴァの元まで歩いてくると、そのぐるぐるした目でじっと彼を見上げた。
「マオが、何か、したか」
「いや……俺が勝手に襲いかかった」
「……何故」
「…………」
ウルはマオを見ていて感じるざわざわをじっと堪えている。その横でジジに見つめられたままのシヴァは、彼女の視線から逃れるように顔をそっとそらした。
「ゴドラの魔物の気配は、覚えている。特に、高位の魔物の気配は。奴等が……間接的にせよ、俺の家族の命を奪ったからだ」
その言葉を聞いて表情を変えたのはマオであった。
「あんた……まさか、モルモルの一族んとこの……」
「お前っ、知っているのか?!」
シヴァがバッと顔を上げた。マオに詰め寄り、剣の柄に手を添える。
「ま、待て、落ち着け! やっぱり、そうなんだな?」
「そうだ、お前の言葉次第ではお前の喉を切り裂くぞ」
「シヴァ、それ、困る」
「ジジ、お前には悪いけどこれは譲れないんだ」
マオは「あ~」とか「うわ~」とか、言葉にならない声をしばらく上げていたが、やがて大きく息を吐くと剣の柄に添えられているシヴァの手をそっと押さえて口を開いた。
「いいか。これから俺はあんたの問いに正直に答える。だけどその前に一つだけ知っておいてほしい」
「…………何だ」
「俺は、モルモルの一族の奴等が好きだったし、皇帝への通報には反対した。結局俺の意見は誰にも聞き入れてもらえなかったけどな……」
シヴァの目が光球の明かりで濃紫に煌めく。彼は目を細めてマオに続きを促した。
「俺は……ゴドラの、魔王の息子だった」
パシッと青雷が走った。シヴァの肩にあった霊弓テンペスタが主人の怒りを受け取って放ったようである。ピリピリと震える空気に、しかし作り手であるウルはその影響を受けず、ただヒリヒリとした心の焦燥に胸を押さえてシヴァとマオを見つめていた。
(シヴァ……)
自分が初めて作った霊具が、目の前で誰かを殺すかもしれない不安。覚悟していたはずなのに、ウルは彼等から目を離せないでいた。
「……一年前、俺は、主に召喚された。そこで、その……ちょっと悲しい事故があって俺は名前を上書きされ、使い魔になったんだ。だから前の名前はもう覚えていないけど、記憶は確かだ」
「……魔王の息子が、名前を上書きか。はっ、いいザマだな」
シヴァはそう言ってかすれた笑いをこぼすとマオから離れ、物言いたげなウルの横を素通りして部屋を出ていった。
ウルはそれを見送り、ジジとマオを振り返る。
「多分、しばらくしたら戻ってくるよ」
「……まさかこんなところで、会うことになるなんてなぁ」
悲しげに苦笑したマオは頬を掻き、すたすたと奥へ引っ込んだ。しばらくすると微かな食器の触れ合う音が聞こえてくる。
「マオ、茶、入れる。座って」
「あ、うん……」
どこに? とウルは辺りを見渡す。シヴァとマオが倒した本で床は埋まっていた。部屋の主であるジジに目をやると、彼女はその辺の本を退けて床に直座りしている。ウルもそうすることにした。
「シヴァの、話、知ってる、か」
「知っている。だから、間には割り込めなかった。僕が考えているより、彼等にとってはとても重たいことだから」
「そう、か。ジジも、知ってる」
ジジはそう言ってウルをじっと見た。そのぐるぐるした大きな瞳は、見つめ返すと不安になってくる。ウルは目を泳がせた。
「精霊。名前、は」
「僕はウルーシュラ。アルタラの一族の末の子だよ」
「アルタラ、珍しい」
ウルが名乗ると、ジジは身を乗り出してウルの頬に触れた。そのままペタペタとあちこちに触れる。ぐるぐるした目はいたって真剣であり、ウルは首根っこを掴まれた猫の様にじっとしていた。
しばらくそうしていると彼女は満足したようだった。ふんすっ、と鼻を鳴らして元の位置へ戻る。
「ウルーシュラ、良い精霊。抵抗、しなかった。嬉しい」
「う、うん。どうも……?」
「ん。ジジは、ジジ。王下双翼の、一人。副魔導長」
「王下……あっ」
聞いたことがある、と思ったらそう言えば先程レイが“王下三弓”の一人だと言っていた。似たような称号だから色々教えてもらえるだろうか。
「ねえ、訊いても良いかな」
「ん。いい」
「ありがとう。王下双翼とか、王下三弓とかって何のことだい?」
ウルの問いにジジはこっくりと頷いた。
「王下双翼。ジジと、魔導長の、おじい。陛下が、決めて、胸章、くれる。ジジの、単竜玉章。おじいの、双竜玉章」
そう説明しながらジジは自分の胸章を指し示す。単竜玉章で金の竜が一頭なので、恐らく魔導長とやらの双竜玉章は金の竜が二頭なのだろう。
そしてジジは続ける。
「王下三弓。レイ、リン、シア。裂牙、穿爪、咆哮。獅子弓軍の、将軍。三人、陛下に、弓貰う。緑の裂牙弓、蒼の穿爪弓、紅の咆哮弓」
そう言えばリンが美しい蒼の弓を持っていた。木から落ちた時のレイは持っていなかったが、あの落ちっぷりからして持っていなくて正解だったろう。
「主、茶が入ったぞ」
そこで木のコップを三つ載せた盆を持ったマオが戻ってきた。
「ん、ご苦労」
ジジは手を伸ばしてコップを受け取る。マオが差し出したコップを小声で礼を言いながら受け取ったウルは、先程から気になっていたことを彼に訊いた。
「あの……マオ、さん?」
「マオでいいよ。あんた、精霊だから俺の近くにいるの辛いだろう。大丈夫か」
「あ、うん……ありがとう。さっき言ってた“ちょっと悲しい事故”って何なのか気になってて……訊いてもいいかな?」
「ああ、いいよ」
頷いたマオは静かに語り始めた。彼がジジの使い魔となるまでの、彼にとっては悲惨な事故の話を。




