2.黒翼の話
ウルが父である霊王ティリスチリスと話したその夜。ちょっとした宴が開かれた。その席に現れなかったシヴァを心配して、ウルは一人、会場となった火枝宮の広間を抜け出した。
喧騒から離れた廊下を歩き、シヴァに与えられた客室へ向かう。しんしんと、青い月の光が窓硝子を通して降り注いでいる。シヴァは草の都で倒れた。それはあの都へのユグドラシルの影響力のせいである。枝の上にある枝宮にいて彼は平気だろうか。
「シヴァ、僕だけど……」
ドアの前でそう声をかけると、中から「ウルか、入ってくれ」と普通の返答があった。
部屋に入り、全体を見回してウルは短く驚きの声を上げた。壁と天井に薄黄緑色の魔法陣が描かれ、淡く光りながら緩やかに回転している。
「すごいだろう? 霊王様直々の結界さ」
「父上が? すごい……」
「世界樹の力の影響を遮断してくれるそうだ。久々に心地よかったから部屋から出たくなくなった。心配したか?」
ウルはこっくりと頷いた。長椅子に猫の様に寝そべっていたシヴァは喉を低く鳴らして笑う。
「大丈夫。もう倒れないさ」
「うん……」
「お前の兄と、あのへっぽこ兵団長と話した。ここへ来たあの夜、俺はあいつらの部下を数人殺したからな……」
血に濡れていた黒い剣と、悪魔の様に美しかった出会いの時のシヴァの姿がウルの脳裏に鮮明に浮かび上がる。ウルは黙って頷いた。
「お前が何を考えてここへ来たのかは何となく分かる。いいか、俺が行くのは血に濡れて、罪にまみれた道だぞ」
「…………」
そうしてしばらく沈黙が流れた。ウルは無言のまま長椅子の前の床に座る。シヴァはそんな彼の様子を眺めていた。ウルはやがてぽつりと呟く。
「……それでも僕は、君と行くと決めたんだ」
「……何故?」
「君と、行かなきゃならないと思ったからだ」
「…………」
銀の瞳で自分を見上げ、真っ直ぐに答えたウルをシヴァは静かに見下ろしていた。そしておもむろにするりと身を起こす。
「お前、俺が霊具を欲しがった理由聞いたよな?」
「ああ。復讐って言っていた」
「……それで、どこへ向かうのか知っているのか?」
「…………なんとなく」
へぇ、と言ってシヴァは長椅子に座ったまま上体を屈めた。ぐっと近づいた藍色の目を真っ直ぐ見つめ、ウルは眉根を寄せる。
その状態のままシヴァは妖しく囁いた。
「で? どこだと思うんだ?」
「……冥界、ベリシアル」
「精霊のお前が、冥界に入れると思っているのか?」
「……っ、何とかする!」
不機嫌に答えたウルに、軽く目を見開いたシヴァはやがて、くっくっと笑い始めた。
「僕は真面目なんだぞ、笑うなよ!」
「くっ、悪い。くくっ……何とかするってお前、はははっ」
「笑うなって言ってるじゃないか!」
ウルは頬を赤くして怒鳴ったがシヴァはしばらく笑い続けた。
「悪かったよ。ほら、むくれるなって」
「ふんっだ」
シヴァが笑い続けたためにウルはすっかりへそを曲げてそっぽを向いている。その膨れた頬を突いてシヴァは溜め息を吐いた。
「……本気か」
「本気さ」
そっぽを向いたままウルは即答する。シヴァは再び溜め息を吐いた。
「……俺の話を、聞いてくれるか?」
「うん。聞きたい」
シヴァは藍色の瞳を窓の外に向け、ゆっくりと頷いた。一度閉じられた目蓋に微かな苦渋の色を見出してウルは不安になる。しかし大人しく聞くと決めた。
そっとシヴァの目が再び開く。その目に揺らぎは無い。
「俺も予言を受けたんだ」
その言葉からシヴァの話は始まった。
――――……
シヴァは暗き地の底、闇に憩う地底の帝国冥界ベリシアルで生まれた。
彼の父は皇弟アラドリスである。アラドリスは、帝位を狙っていると勝手な言い掛かりをつけられて、常日頃から兄である皇帝イスグルアスに命を狙われていた。
ある時、兄の酷い攻撃に傷つきベリシアルから逃げ出したアラドリスは地上にあるエルフの国近くの森に身を潜めていた。
そこへたまたま一人の精霊の乙女が通りかかった。当時雷の枝守になりたてだったウルの義姉トルネアの抱える兵団の長である。
彼女は、主人であるトルネアが天上で癇癪を起こしエルフの国の木に雷を落としたことの謝罪に遣わされていた。
休憩に立ち寄った森の中で、まさかベリシアルの皇弟に遭遇するとは彼女も思わなかっただろう。
警戒して剣を抜いた乙女にアラドリスは微笑んだ。彼は兄との長い争いに疲れていた。ここで死ぬのも悪くないと思ったらしい。
抵抗しない魔物の様子に乙女は何を考えたのか。一度その場を離れた彼女は、次に現れたとき薬草の束を持っていたという。
それから二人はぽつりぽつりと自分のことを話し、少しずつ心を通わせていった。アラドリスは森で傷を癒し、乙女は暇を見つけては地上へ通い続けた。
この世で初めてだろう。精霊と魔物が愛し合ったのは。
そして二人の間に子供ができたことが判明すると、乙女はアラドリスの反対もあったが冥界に下ることを決意した。
アラドリスは乙女を何としてでも守ろうと決めて彼女の決断を尊重した。
しかし現実は非情である。
冥界の大気に満ちる魔は瞬く間に乙女を蝕んだ。彼女は衰弱し、それでも諦めずシヴァを産んだ。そしてその産褥で彼女は眠るように息を引き取った。
アラドリスは悲しみの淵に沈みながらもシヴァを一人で育てようと決めた。そこへアラドリスが子を持ったという噂を聞いたイスグルアスが現れる。
彼は帝位を奪うためにアラドリスが跡継ぎをもうけたと思い込み、激怒し、焦り、シヴァを殺そうとした。アラドリスはシヴァを守ろうとし、その場で二人は激しい戦いを始めた。
その戦いの間に赤子のシヴァはアラドリスの古くからの友人であるモルモルの一族の族長のもとへ運ばれ、そこで育てられることになった。モルモルとは、猫頭人身の魔物である。彼らは剣術に優れ、心優しい魔物であった。
イスグルアスとアラドリス、二人の戦いは熾烈を極め、決着までに一月もかかった。
そして誰も踏み込めない魔力の奔流が唐突に去ったとき、そこに立っていたのはアラドリスの首を掲げた皇帝イスグルアスであった。
モルモルの一族はその知らせを受けてから、ずっとシヴァを隠し続け、移動を続けて彼を守り育てた。
そして長い時が経った。シヴァは青年となり、その運命を激しく揺り動かした出来事が起こる。
モルモルの一族がイスグルアスに見つかってしまったのである。彼らが潜伏していた地を治める魔王が皇帝に通報したのだ。
現れたイスグルアスはモルモルの一族を皆殺しにした。
シヴァもその手にかかるかと思われたが、彼は族長の黒い剣でイスグルアスの左手の小指を切り落とし、ベリシアルから逃げ出した。
その心に、焼け焦げる様な苦しみと憎悪を抱いて。
――――……
「……俺が生まれた時、冥界の風が予言を告げていったそうだ。それが“銀星の予言”だ」
「銀星……」
「何だったかな……『汝の道に銀の星の瞬きたる時、終わりなき争いは去り、新たなる時代が興りて、安寧が得られるであろう』とか何とか」
「それって」
「たぶん、お前の予言と同じ様な意味で、星は、お前のことだと思う」
シヴァはそう言ってウルの目を見た。夜に瞬き闇を払う銀星の瞳。ラビから予言、と聞いたとき真っ先に己の予言が頭をよぎった。そしてウラヌリアスの中から帰ってきた彼の目を見て、シヴァは確信した。
「俺がお前の宿命であるように、お前も俺の宿命なんだ」
シヴァは、悲痛な表情で自分を見上げてくるウルを見下ろし苦笑した。
「君は…………」
言葉が出てこない。ウルはシヴァの生きてきた道を想像し、ぎゅっと手を握り締めた。母は冥界に殺され、父と育ての親は皇帝に殺された。
彼にかける言葉が見つからなかった。そもそも、彼の生い立ちに寄せるものとしてはどんな言葉も軽すぎて安すぎる。
「だから俺も、お前の意志を確認してから連れていこうと思っていた。そのために、いずれ知ることになるだろうから話した」
今にも泣き出しそうなウルの表情に、シヴァは「怖くなったか?」と訊いた。ウルはふるふると首を横に振る。そしてシヴァの手にそっと触れた。
「……僕が、君のそばにいる」
シヴァは言葉に詰まった。目を伏せて、今にも泣きそうなのに絶対に泣くまいとしているウルが放った細く小さな言葉が、彼の胸を打つ。
それがどれだけ残酷で頼り無い希望であっても、彼はつい縋り付きたくなってしまう。
頭のどこかでは「信じられない」と呟いて、シヴァの心はウルの瞳の様な銀の細い輝きにそっと触れた。同時に自分の手に触れている彼の手に触れる。
「……ありがとう、ウル」
「シヴァ、無理をするな。僕は、絶対に君のそばを離れないから」
「…………そうか」
見透かされた、と感じると同時にそれが嬉しかった。シヴァは目を閉じてその不慣れな感情に浸った。
沈黙がその場に満ちていた様々な気配をすっかり流して消える頃、シヴァは腰の革袋から霊具の卵を取り出した。白くつるりとした球体はころりとシヴァの手の中に収まっている。
「霊具が卵から孵ったら、まずエルフの国に行こう」
「何故?」
「あそこの天才魔導士の力を借りる。お前が冥界に入っても平気なように魔導具を作ってもらう。それから冥界への扉も開いてもらわなきゃな……」
「すごい。もしかして知り合いなのか?」
「ああ。冥界を出てから、俺はしばらくあそこにいたから」
ところで、とウルは呟いた。先程の泣きそうな表情はもう姿も形も無く丸い眼でシヴァを見上げている。
「君の霊具は何の形になるだろう?」
「さあ」
「武器だろうなぁ」
「だといいけど」
「装飾品だったら面白いなぁ」
「そりゃあないだろ」
ふふふ、と笑ったウルにシヴァは苦笑した。復讐心を燃やす者の傍らで作られた霊具だ。そんな穏やかなものになるはずがない。
「君なぁ、そうは言っても霊具は時に作り手や主人の予想を裏切る形に生まれるんだぞ」
「へぇ、例えば?」
「草の都の兵団長、壮年の偉丈夫なんだけどね、メリーニール義姉上が授けた霊具の卵が孵ったら、髪飾りだったんだ」
「えっ?!」
目を見開いたシヴァにウルはまたもやふふふ、と笑う。
「そこまで華美ではなかったし、自分のために授けられたありがたいものだからって、ちゃんと身に着けているよ」
金の透かし彫は精霊の羽根に似ており、きらりと輝く小粒の紅水晶と菫色の石は彼の主人メリーニールの色であった。
だからこそ兵団長も身に着けているのだろう。なんだかんだ想い合っている主従なのである。
「君のも髪飾りになったら着けてくれるか?」
「…………」
気まずげに沈黙したシヴァにウルは眉尻を下げる。銀の瞳がじっとシヴァを見つめた。
「僕の初めての霊具なんだ」
「…………」
「是非とも君に使ってほしい」
「……っ」
「駄目かな?」
「~っ、分かった!!」
シヴァは根負けした。ウルの顔がパァァと明るくなる。彼は満面の笑みでシヴァの手を握り「ありがとう」と礼を言った。それでも止まらず霊具の卵を持ち上げてその場で一人ぴょこぴょこし始める。
このやり取りのお陰で張りつめていたシヴァの神経がほどよく緩んだ。ほっと息をつける。
(こいつ、ここまで考えて……はは、まさかな)
ただ、誰かに話せたことで心は確かに軽くなった。シヴァは穏やかに微笑みながらぴょこぴょこするウルを見ていた。
1章完全終了です。
お時間あれば感想等お聞かせくださると嬉しいです。
※2020.8.19 1章と幕間1を全部改稿いたしました。細かい点の修正のみなので、読み返しは必要ではありませんがお時間ありましたら読んでいただけると、作者の小さな成長が見られます。