第20話.落涙
シヴァに睨まれながら、ラビはかなり前にイルジラータから聞かされた予言を記憶の底から引きずり出そうとした。
しかしこの状況においての焦りもあって正確に出てこない。
「んー、ええと、春の枝が告げたらしいんだけど………」
何だっけ、とラビは目を泳がせる。その視界にシヴァの黒い翼の先がちらりと映った。あ、と短い声を上げるラビ。
『汝の前に黒き翼の降りる時、永遠の決別は解かれ、太古の闇は去り、平穏が訪れるであろう』
彼自身も驚くほどすんなりと出てきたラビの言葉を聞き、シヴァは思わず絶句した。
(嘘だろ、まさか、そんな……)
襟首を掴む手が緩み、ラビは慌てて抜け出す。ちら、とシヴァを振り返ると彼は藍色の目に驚愕と困惑を揺らしていた。そのままその目は離れたところにいるウラヌリアスに向けられる。
その様子を見て驚いたラビは「おい、そんなに驚くこと?」と訊く。しかしシヴァは反応せず、複雑な表情でウラヌリアスを見つめていた。
そしてウラヌリアスも、じっとシヴァを見ていた。
「ねぇ、イルジラータ。もう分かったんじゃないの? 今の、聞いたでしょ? シヴァの方が早かったね」
目の前で膝をつくイルジラータから目を離したまま、ウラヌリアスはそう言った。イルジラータは俯いて「ああ」と答えた。
「“黒翼の予言”だ……だが、あれは」
「“不可能だ”って?」
尻すぼみになったイルジラータの言葉を継いだウラヌリアスに彼は黙って頷く。そんな彼を見下ろしたウラヌリアスは真紅の目を細めて腕を組んだ。そしてそのまま続ける。
「永遠の決別、それ即ちユグラカノーネと冥界ベリシアルの決別を指す。それが解かれるなんて、無理だって言いたいの?」
「ああそうだ」
重々しくそう肯定したイルジラータに、ウラヌリアスは沈黙する。その無言にハッとして、彼を見上げたイルジラータは呆然と呟いた。
「まさか……本当に、成ると言うのか? そのために、予言の達成のために、お前が、いると?」
「やっと分かったの」
「あ、あの子がそれを成すと言うのか?! そんな、有り得ない!!」
そう叫んだ彼をウラヌリアスは冷たく見下ろした。
「やるんだよ。この子にしかできないんだから。そしてこの子が成さなければ、もう二度とその機会は来ない」
だからボクがいる、と言ってウラヌリアスは空を見上げた。紅く、どこまでも紅く染め上げられた空。彼の瞳と同じ、狂った呪いの様で実は静かな海の様な凪いだ色。
「……なのに皆、それを信じなかった。そのせいでウルーシュラは酷い目に遭った。だったらもういいじゃない。この世界のためにウルーシュラが血を流す必要は無いじゃないか!」
イルジラータは呆然と彼を見上げたままだった。ふわふわと漂う紅の魔力粒子がその頬を叩く。ウラヌリアスはキッと彼を睨みつけた。
「この子が世界のために在るとしても、ボクは、ボクだけはこの子のためだけに在るんだ。だから隠す。この子の望む限り!」
その言葉に、驚愕のため沈黙していたシヴァがようやく口を開いた。
「じゃあやっぱり、そこにいるんだな、ウル」
ウラヌリアスが決してこぼれない涙をたたえた目でシヴァを睨んだ。対して、シヴァの藍色の目は柔らかく、ただ気遣わしげだった。
――――……
突然、誰かがウルを呼んだ。心地よい微睡みの中、暖かな腕の中で、眠っていたウルはそっと目を開く。
(誰……?)
聞かなくていいよ、とウルを抱く人がその耳を塞ぐ。だがウルは、自分を呼んだのが誰なのかどうしても気になった。
『ウル、俺だ』
耳を塞ごうとする手を押さえると、その手の主は寂しげな吐息を漏らして、それからは無理に耳を塞ごうとはしなかった。
『シヴァだ。聞こえるか?』
(あ、あぁ……シヴァの、声だ)
日の光に、月の光に、幻想的にきらめく藍色の瞳が、濡れた様な艶を持つ黒の双翼が、ウルの脳裏に浮かんだ。
彼なりの思惑はあったろうが、目の前で死に、そして生き返ったウルを嫌うことなく共にいてくれたシヴァ。彼はきっと、利用してやるというウルの考えを見抜いていたのに、凍える様な暗い瞳の中に憐れみと小さな良心の光を宿して手を引いてくれた。
(どうして君の声が聞こえるんだろう? だって僕は、死んだはずなのに)
『いいか、ウル。目を覚ませ。お前の力で戻ってこないと駄目なんだ』
(目を、覚ます……? なんで、だって僕は死んだ。やっと……自然に、許される形になったんだ)
それなのに何故、そんなことを言うの。ウルは身を縮めた。彼の言うことが理解できない。
そうだよ眠っていよう、と囁く声。暖かく柔らかなその腕に包まれて、ウルは再び訪れる微睡みに身を任せようとする。
『お前にはやらなきゃならないことがある。それに、お前を待っている奴がいるんだぞ』
シヴァの言葉にウルを抱く者が何か答えている。声の気配は怒っていた。その理由が気になってウルは耳を澄ます。
『ウル、お前が望めば戻ってこられる。戻ってこい。お前に、話したいことがあるんだ』
(君の話……聞きたい。君は、自分のことは何も話してくれなかったから)
そっと身を起こして立ち上がる。やめようよ、と腕の主は言う。その声の悲痛さにウルは立ち止まった。後ろから優しく抱きしめられる。
(どうして、止めるの?)
だって、と声は呟く。ウルはその腕にそっと手を添えて黙した。
(ここはとても心地がよい。君の話も気になるけれど、彼のことも置いておけない……)
あと一歩、ウルは進めずにいた。
その腕の正体に、優しさの理由に、気づいてしまったから。
――――……
ウラヌリアスの中のウルへ向けて言葉をかけ続けるシヴァの姿を見ながら、イルジラータは呆然と考えていた。
(黒翼、お前が予言の……?)
兵団長ラビが首をさすりながら彼の隣に並んだ。そして「あの、イルジラータ様」と口を開く。
「予言の黒翼は、彼なんでしょうか」
「……私も、それを考えていたところだ。恐らく、間違いないのだろう」
あの黒い翼は、そして彼の持つ精霊でも魔物でもない特有の気配は、他を探してもなかなか見つからないだろう。
「そう、ですか……」
「何にせよ……あの子を目覚めさせなければ」
「っ、はい」
そう言ったイルジラータはラビの助けを借りて立ち上がった。戦いの前と違った理由で、もう、迷いは無い。
「うるさいうるさいっ! やっと得た安らぎを失うことを、この子は望んでいない! もう、黙ってよ!!」
シヴァが声をかけ続けることで、ウラヌリアスの中のウルの意識が鮮明になり始めている。ウラヌリアスは必死にそれを押し留めようとしたが、ウルは一歩を踏み出そうとしていた。
しかもイルジラータまで立ち上がって歩み寄ってくる。
(駄目だウルーシュラ。君は、ボクが守るから、どうか外へ出ないで! お願いだからそこにいて! ボクに守らせてよ!!)
激情と焦りのままに腕を振る。ウラヌリアスの正面に紅の魔力粒子が集まり、いくつもの小さな魔法陣に変化した。
「こっちに来るなっ!!」
言葉と共に魔法陣が無数の光弾を放つ。だが上手くコントロールできない。いくつかはシヴァやイルジラータ、ラビの身体に傷を作った。しかし、ほとんどの光弾が誰にも当たらず三人の背後へ抜けていく。
「何なの、どうして、なんでっ……守らなかったくせに、守れなかったくせに!!」
光弾がシヴァの頬を裂き、イルジラータの肩を貫いた。それでも歩みを止めない彼らにウラヌリアスは首を横に振って拒絶の意を示す。
「もうやめてよ! ボクから、ウルーシュラを奪わないで!!」
ついにその真紅の両目から透明な雫がこぼれ落ちた。そして同時に、その雫に滲む孤独すら包み込むようにしてシヴァの両腕がウラヌリアスを抱きしめた。
「奪ったりするもんか。お前は、ウルの半身なんだろう。もう大丈夫だ、お前は一人じゃない」
ウラヌリアスの身体が震えた。
はた、とこぼれ落ちて胸元を濡らした涙は、ただひたすらに綺麗だった。そのわけを知ってしまったから、シヴァは何も言わずにその頭を撫でた。