第18話.真紅
シヴァが支えたウルの身体は恐ろしく軽かった。かなりの血が流れ出したこと、そして腹部に空いた大きな穴のせいだ。
「おい、ウル!!」
「シ……ヴァ、に……げ、て」
「喋ったら駄目だ!」
そう言って自分自身も無駄に思える止血を始めるシヴァの服を、ウルが残った僅かな力を振り絞って掴んだ。
「ぼく……から、に……げろ……」
「何言って……」
「…………」
ずるりと手が滑り落ちる。薄赤の瞳から光が消え、最期の吐息が空気に溶けた。
しばらくその場に沈黙が降りた。誰しもが、今にもウルの傷口が泡立っていつものように息を吹き返すに違いないと思っていた。
しかしいくつもの一瞬を重ね、いくら待ってもウルは生き返らない。それが当たり前のはず、死んだ者は二度と戻らないのだから。だが彼は違うはずなのに。
息を呑んで見つめていたラビの顔に困惑と安堵が窺える。イルジラータは俯いていてその表情を窺うことは叶わなかった。
シヴァは座り込んで冷たくなっていくウルを抱いたまま、しばし呆然としていた。
その時、変化は訪れた。
シヴァが見ていた虚ろなウルの瞳が端からじわりじわりと滲む様にして鮮やかな真紅に変わり始めたのである。
流れ出した血が風に吹かれた花びらの様に舞い上がり傷口に注いだ。ふわりと隣に現れたのは喚ばれてもいない霊杖ウラヌリアスである。
傷が塞がり、ウルの目に光が戻るかとシヴァが微かに期待した瞬間、ウルの身体が淡く光ってウラヌリアスの紅玉に吸い込まれた。
「なっ……」
空っぽになった両腕にシヴァは驚き、ウラヌリアスを見やる。
主を吸い込んだ霊杖は、ぼんやりと薄紫色に輝いていた。
イルジラータが顔を上げ、信じられないものを見た、という表情でウラヌリアスを見ている。何とか自力で縄を抜けたラビはそんな主に駆け寄りつつも、ウラヌリアスが気になって仕方がない様子だ。
そして突然ウラヌリアスがひとりでに立ち上がった。地面すれすれの所で真っ直ぐに立って浮遊する霊杖。異常事態なのは、その場で緊張しながらその光景を見ている三人ともはっきり理解していた。しかし何が起きているのかは分からなかった。
ウラヌリアスは緩やかに回転を始めた。回る毎に光は強くなり、霊杖はあるべき長杖としての形を変えていく。
その光がぐんにゃりと人の形をとった。シヴァは押し寄せる悪寒に微かに震えたが、その人形から目を離せずにいる。
ふわり、と光が散った。柔らかに舞う紅の魔力粒子。その後ろから完璧な微笑みを浮かべている少年の真紅の瞳。
「シヴァ、もう大丈夫だよ。ボク、直ったから」
三日月型に弧を描く唇。水中にいる様にふわふわと揺れる髪は白く、肌も病的なまでに白い。細められた真紅の眼は見ているとどことなく不安になる。
色合いは別として、その少年の顔は、姿は、どこからどう見てもウルそのものであった。
「お前……」
「どうしたの? 早く逃げようよ」
ウルに似た少年はまるでウルの様にそう言ってシヴァの手をとる。その手を振りほどけず、じわじわと心の端から滲んでくる不安に彼の目を見つめ続けることしかできない。
その時、シヴァの後ろでイルジラータが呻いた。
「お前は……何者、だ」
その声に少年は目を丸くしてそれから、さもイルジラータが面白い冗談でも言ったかの様にクスクス笑い始めた。
「あは、あははははっ!!」
「何が可笑しい!」
終いには声を上げて笑い出した少年にイルジラータは不安感を掻き立てられて思わず怒鳴った。その隣で不安そうな顔をしたラビが主を支えている。
すると少年はピタリと笑うのをやめた。
そのよく見知ったはずの顔から表情が抜け落ちると、作り物のような端正さが、白い肌が、紅の目が、酷く恐ろしいものに見えた。
やがて少年はその真紅の目でイルジラータを凝視したまま、唇だけを笑みの形に歪めた。
「分からないの? ああ、分からないよね? ボクが何なのか、何のためにボクがいるのか、分かってたらこの子に……ウルーシュラにあんなこと、しなかったはずだよねっ?!」
恐ろしい怒りの波動だった。紅の魔力粒子が不穏にざわめいて、魔法に変化すること無くイルジラータとラビに打ち付けられて砕ける。
「随分と酷いことをしてくれたよねっ?! 君はこの子の“お兄ちゃん”なのに、たくさんたくさんひどいことをしたよねっ!! ああ、もしかして全部忘れちゃったのかなっ?!」
少年は両腕をバッと左右に広げた。
「ボクは全部覚えてる! 君がこの子を焼いたこと! 地に深く深く埋めたこと! 心を引き裂くみたいにこの子に見向きもしなかったこと! 縋るこの子を手酷く突き放したこと! 全部全部覚えてる!!」
イルジラータの顔が蒼白になった。彼は頭を抱えて蹲る。
「やめろ……やめてくれ。あれは、仕方なかったんだ、私には、ああするしか……」
「言い訳だよねぇ?! あははは、酷いお兄ちゃんだね? しかも君は殺す時でさえこの子の顔を見ずに、声を聞かずに済むようにしたよね! 自分が苦しいから、せめて罪悪感を感じないようにしたかったのかなぁっ?!」
「っ、許してくれ、私はっ……私は……」
「もうやめてくれ!!」
ラビが悲痛な声で叫ぶ。主を守るように前に進み出て両腕を広げた。彼を見た途端、少年の顔からまたもや表情が抜け落ちる。
「あは、随分と勝手なことを言うね? これは正当な権利じゃない? 君たちに傷つけられたボクたちが、君たちを傷つけても許されるよね? 君たちはこの子を傷つける悪い奴だもん。君だって、この子を傷つけるときそうやって正当化したじゃない。“ウルーシュラは呪われてるから殺さなきゃ”ってさぁ。それを棚に上げてボクたちのことを批判するの? 勝手だねぇ?」
その口調は酷く冷たく、先程イルジラータをなじったときとは違って落ち着いていた。それがラビの心を抉ったようだ。彼はよろめいて首を横に振る。
「そんな、違う、違う。だって……」
すたすたとラビに歩み寄り、その顔を下から間近に覗き込む少年。炎の色の瞳と真紅の瞳が至近距離で見つめ合う。
「あはは。何が違うの? 君も、イルジラータも、みんなみんな、この子を傷つけた愚かな大罪人だよ?」
ガクッと主の前に膝を付いた彼をつまらなそうに見下ろし、少年はふわりと方向転換した。
その目がシヴァを捉える。シヴァは藍色の目で彼を見ていた。
「さぁ、逃げようよ。それとも、こいつらを殺してくれるの? それはすごく嬉しいなぁ。すぐやっちゃってよ」
「ウル」
シヴァはそう呼んだ。少年の笑みがピシリと固まる。
「なんて?」
「ウルを呼んだ。お前じゃない」
「はぁぁ?!」
少年は顔を歪めて怒鳴り、怒りの波動をシヴァに叩き付けた。ざわざわと不気味に漂う紅の魔力粒子、憎悪に光る真紅の眼。彼は怒っている。
「そんな子、もういないよ! 君が守れなかった、みんなが殺した、可哀想な子、可哀想なウルーシュラ!!」
少年は胸元をぎゅっと握り締めた。
「だから隠した! 永遠に誰にも傷つけられない場所へ、ボクだけが、ボクだけがこの子を守れるんだっ!!」
「そんなはずは……」
「うるさい!! この子を傷つけるものは、この子に苦しみを背負わせる世界は、ボクが壊してやる!!」
少年の叫びのあと、その足下に紅の巨大な魔法陣が展開した。その光に照らされて歪んだ笑みを浮かべる少年は、震える右手をゆっくりと天に向ける。
「そのあとで……もう何も怖いものが無くなったあとで……ボクは……」
狂気にぎらつくその瞳に一抹の寂しさを揺らして、少年は空を見上げた。そしてすぐ、ゴオッと魔法陣から紅の光柱が空へ立ち上がり蒼穹に突き刺さった。