第一巻 パート八
〜前回のあらすじ〜
後悔先に立たず。
十月三日 午後三時五十三分
暮沢住宅街
『御神 秋一パート その五』
……あの話題からこんな方向に進んでしまうとは微塵も思っていなかったが、俺は、成り行きで夜中の廃屋へと忍び込まなければならなくなった。
懐中電灯、家にあったかな。まぁ、兄貴が自称冒険に使ってるものとかあるだろうし、それを借りれば大丈夫か。
……いやいや、状況をもっと深刻に考えろよ、俺。懐中電灯とか、問題はそんなところじゃないだろう。
確かに、俺は古い建物の雰囲気とかが非常に苦手な人である。独特の誰もいない雰囲気というか、なんというか……あれだ。簡潔に述べると、人気がないくせに妙な気配だけはあるような雰囲気が、滅法苦手なのだ。
――この時点で理解してもらえるとは思うが、それは自動的に、肝試し等が嫌いな理由にもなってしまう。
つまり、だ……恥ずかしいからあまりいいたくはないのだが、俺は重度のビビリなのである。だからして、今回の廃屋探検だって、気が進まないどころか断言して行きたくない。ほぼ決定事項になっていたから思わず自然に頷いてしまったものの、アレは奈良葉に同じく俺も断るべきだったんじゃないか? 例え、結からの攻撃を受けてでも。
だが、後悔してももう遅かった。携帯は持ってるし結のメールアドレスも登録済みだが、あいつにメールをして一日以内に返信があった事は、過去に一度もなかったからだ。今から断りのメールを送っても、今日の午前零時には廃屋前で待つ結の姿があるに決まってる。
かといって、結の住所は知らないし……電話番号も聞いときゃよかったな。これも、後悔しようがもう遅かった。
あぁ、学校からの帰り道をこんなに悲しい気持ちで歩いたのは、恐らく高校入学以来はじめてだ。今の俺にできるのは、幽霊が休暇でも取ってどっか遊びに出かけてる事を祈るだけである。
尤も、そこまで能天気な幽霊がいるのなら、何がしたくてこの世に留まってるんだと質問してみたいところだが。
それはさておき、まだ予定の時刻まで時間があるな。とりあえず、家に帰って少し寝るか。
そんで――
――本当に、本当に何の前触れもなく、酷い寒気がした。
どっと、嫌な汗が吹き出た。動悸がする。思考を、完全に消された。身体は、動く。金縛りとかではないらしい。
「……っ! はぁ……っ……はぁっ!」
急激に、明らかに、呼吸が乱れた。動けるが、動く気にならない。異常である。俺だけなのだろうか? この広い住宅街の中で、こうまで異常な状態に陥っているのは。
「ぐっ――かはっ……!」
呼吸が、しづらい。何故か、喉が強く圧迫され始めた。やばい、冗談抜きで死にそうだ。こんな唐突に起こった訳のわからん事で死ぬなんて、あまりに嫌すぎる。
くそっ! 何が原因で、何が起こった? 病気? 違う、本能的に理解できる。これは、もっと別の事が原因なんだ。
しかし、何のせいで死にそうなのかまではわからないから、対処法もわからない。頭が朦朧とする。いよいよ、死の危険が迫りつつあるらしい。やり残した事はないかと薄れた意識で思い返してみるが、見事に何もなかった。手持ちの小説が読み終わってないが、どうでもよすぎる。
……あ、そういえば、一つだけあったな。廃屋探検ができなかった。いつまで経っても待ち合わせ場所にこない俺に対して、結は怒るんだろうか? 『秋一なんか死んじゃえ』とかいったら、笑えるな。その頃にゃ、本当に死んじまってるんだろうし。
そういや、結との思い出らしい思い出は何もないな。お決まりの三人で、俺の席に集まってくだらん事で笑い合ったり……そんな光景しか、覚えていない。
うん? でも、おかしいな。高校に入ってからの思い出。そのどれにも、奈良葉の姿はあったが結の姿だけがなかった気がする。
どういう事だ? 入学当時から、三人でワンセットだった。奈良葉がいて結がいないなど、まずありえないのだが……。
……死に際の疑問、か。これほど無意味なものも、珍しいだろう。
あーあ、本当に幽霊を見てトラウマになったとしても、最後に結と印象的な思い出の一つ作ったってよかったのかもな。悲しいが、これも後悔しようがもう遅いけど。
人間とは、あの世行き寸前、もうダメという段階になると、生への執着心が少しも湧かなくなるらしい。呼吸ができなくなり、適当な塀にもたれかからなければ自身を支えられないほど衰弱した俺は、生き延びる事を諦めて死を覚悟した。
無呼吸な状態の先にある、必然の終わり。残り数秒で向かう事になる、天国か地獄。あと少し時計の秒針が進むだけで実感できる筈の、永眠――
――どうして急に異常状態に陥ったのかは、全くの不明だった。
それと同じく、俺は、最期に思い浮かべた変な言い回しの言葉達を、一瞬にして無意識に否定した。
噛み砕けば、先程の状態に陥った瞬間からを逆転したかのように、寒気と喉の圧迫が消えたのだ。しかも、急速に。
とはいえ、極限まで息ができなかったせいで、かなりの酸素不足には違いなかった。俺は塀にもたれかかったまま、水をがぶ飲みして乾いた喉を潤すが如く荒い呼吸を繰り返す。
とにかく、苦しかった。あまりの急展開に、今の俺はなぜ呼吸ができているのかがわからなかった。ただひたすら、吸い、吐き、吸い、吐き……やがて、その一つ一つを行う間隔は長くなっていった。
落ち着きを取り戻した呼吸と心臓の鼓動を確認し、薄い青だけが存在する空を、久し振りにまじまじと仰ぐ。
視線の先には、基準と化した普通だけがあった。俺だけが妙な異常で死の一歩手前まで追いやられている間も、いま見ている空は何もかも普通だったのだ。
「……はぁ」
最後に大きな溜め息を吐き、俺は普通の下校時にするべき事――寄り道せずに帰る為、塀から離れた。
考えすぎかもしれないけど、少しでも普通という名のレールから外れる事をしちまえば、またさっきの状態に戻る気がしたからだ。
ただ、そう考えるとさっきの俺はどこをどう外れてしまったのかという疑問も同時に生まれる訳だが……面倒くさいから、あまり考えないようにした。考えれば考えるほど訳がわからなくなるのは、嫌いなんだ。
あれ、昨日も似たような事を。確か、メイドに会って――。
(もう、あのメイドの事は忘れたい。いや、忘れよう。覚えてたら、連鎖的に変な出来事が起こりそうな気がしてならないし)
「……!」
偶然だと、思いたい。
あのメイドの事なんて、確かに忘れていた。
……だけど。
……だけど、もし忘れたかどうかなんかに関わらず、俺の人生を上書きして変なシナリオが自動作成されていたんだとしたら――
――俺の人生は、あのメイドにあった時点でおかしな方向に進み始めていたんじゃないだろうか……?
「――ぷっ」
思わず、吹き出してしまった。傑作だ。俺には、小説書きの才能があるのかもしれない。
偶然だよ、偶然。あんな必然なんて、ありえる筈がないのさ。
……ありえていい筈も、な。