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 それが意識を得ると、薄暗い石造りの通路にいた。

 左右の壁までは五歩前後の距離があり、天井は闇に飲まれて見えない。壁と地面は暗灰色の石材による組積造である。

 石壁には、人間の二、三人なら余裕で納まるくらいの立方体の窪みがあり、その中には火の灯った蝋燭を立てた、赤茶けた金属製の燭台が設置されている。それがおよそ十メートルごとに通路の先と天井方向に並んでいる。どこか墳墓のような、陰気な風景だった。


「ここはどこだ?」


 低い声がそれの口から発せられる。

 見覚えのない場所であった。

 後ろを振り返ると、巨大な石の扉がある。

 扉の表面には、風化して顔の造作がぼやけてしまったような、人を象ったと思われる彫刻が施されている。


「駄目だ、開かないな」


 近づいて試しに押してみるが、微動だにしない。取っ手の類も見当たらないし、開け閉めを禁じようとしている意思のようなものさえ感じられる。


「仕方ない。向こうに行ってみるか」


 改めて意識すると、壁に反響する声は、低い大人の男のそれであった。


「自分は誰だ?」


 それの記憶からは、自分が男か女かすらわからない。

 ただ、状況から察せられる事実に基づくなら、男であろうと予想された。

 感情や感性から、性が抜け落ちているような、もしくはどちらでもあったことがあるような、曖昧とした不思議な感覚があった。

 自分の存在を確かめるように、それは掌に目をやる。

 一応、男と思われる特徴の掌であった。ただし、記憶すらないとはいえ、自分の感覚からすると、その掌や腕には不自然なほど傷や染みなどはなく、明らかに違和感があった。

 それよりも問題なのは――。

 視線は掌を貫いて、薄らと透けて石畳の地面が見えていたことだ。


「はあ?」


 男は間抜けな声を上げながら、慌てて全身を眺めまわした。


「え? 裸? ありえん。しかも、なんで燃えてやがる!」


 やはり体は半透明で、さらに服は着ていない。

 記憶が混濁しているのか、性別を識別できる要素が、確か、下半身にあったはずなのに、実際に見たところでも、腹から下は青白い炎に包まれたようにもやもやとした、異常な状態になっている。

 さらには、識別できる要素がどういうものであったのかすら、正確には思い出せない。

 特に足元は燃え盛っているような見た目になっていて、中身が無事であるのか不安になる。

 焦りながら、きょろきょろと周囲を見渡す。

 身体が消し炭にならないか、半透明を気にすればいいのか、全裸を気にすればいいのか、そんな選択肢に悩んでしまうほど、混乱を(きた)していた。

 ただ、痛みはまるで感じないので、燃えているように見えるだけで、どうやら実害はなさそうだと、少しずつ冷静さを取り戻す。

 どういうわけか、その状態があるべき状態であると、どこかで理解できているような感覚を憶える。


 唐突に、右手の壁から蓋のない石棺状の直方体が迫り出してくる。

 唖然としながら石棺の中に視線を落とすと、折り畳まれた布が置かれていた。


「服だよな、これ。着ろってことか。誰かいるのか。おーぃ……」


 頃合いを見計らっていたかのように起こった現象に、何者かの意志を感じて呼びかけるが、返事はない。

 周囲を見廻ってみようか、という思考が浮かぶも、(かぶり)を振って一旦、取り止める。


「いやいや、まずは服を着てからだな」


 声を潜め、男は布を手に取った。

 布越しに奥の石棺が透けて見えた時にはがっくりしてしまったが、いざ着てみると肌は見えなくなって、半透明の衣服越しに、周囲の風景が透けて見えるようになった。

 上は貫頭衣、下は馬乗り袴を細くしたようなもので、どちらも生地の荒い枯葉色の布でできていた。

 男は跳んだり、腕を振ってみたりした。上下ともにほどよくゆったりとしているため、まったく動きを阻害しない。

 古めかしい衣装も相まって、奇妙な踊りを踊る古代人然とした様相を呈していたが、悪くない着心地に、男の気分は少しだけ晴れた。

 むしろ着心地というよりも、着ている感覚すら感じない不思議な布地である。

 男は居心地の悪い状態を脱し、落ち着きも取り戻したので、改めて通路の先へと気持ちを向けた。


「暗くて、遠くまでは見えないか」


 進んでみるしかなさそうなので、黙って歩き始めた。

 無心で延々と歩き続けると、やがて通路の終わりと扉が見えてきた。

 ついでに視界の端に見えてはいけないものが見え、思わず体がビクッと反応してしまい、見なかったフリも封じられてしまった。

 仕方なく、ゆっくりとぎこちなく、横合いの巨大な窪みに首を回して目を向ける。

 そこには、金糸で彩られた黒色の法衣を着て、座禅を組んで鎮座するものが納まっていた。

 それの纏った法衣は洋の東とも西ともつかない、独特の意匠であった。

 法衣に包まれていない部位には、(いばら)を幾重にも巻いたような黒色の冠を被った頭蓋骨と、白骨化した手足が見える。

 その遺骨は、一階建ての建物ほどの高さの窪みに、座禅を組んだ状態ですら、ぎりぎり納まるほどの巨体であった。


「巨人の骸骨……」


 問題だったのは、その命がなくなり、動くはずのない白骨の指がゆっくりと印を結ぶように動かされていることであった。


「う、動いてやがる?」


 目にしたありのままの事象が男の口をついて出た。


「繰り糸でもあるのか?」

「ようやく適任の霊魂が来たか」


 骸骨は、顎骨をカクカクと動かし、頭に直接響くような反響した声を発した。


「うわっ。喋った」


 男は思わず後ろに跳び退り、警戒も顕わに身構える。


「その反応は見飽きておる。捕って喰う気はないから落ち着け」


 老いている印象は受けるが、性別は何故か判然としない不思議な声だった。


「わかり、ました」


 逆らわないほうが身のためだと判断し、男は無理やり心を落ち着かせようと胸に手をやるが、鼓動が感じられない。


「一体、どういうことなんだ!」

「問題ない。話が進まんから騒ぐでない」

「はい」


 どう考えても問題があるのだが、棘が含まれた声を浴びせられた男は、素直に返事をして身を強張らせた。


「さて、端的に言えば。――お主はもう死んでいる」


 巨大な遺骨は、改まって冷然とした雰囲気を発しながら告げる。


「……そう、ですか」


 男の声が震える。

 頭の片隅にはその可能性を浮かべてはいた。鼓動しない心臓や、燃えているような見た目の部位や、透けている部位のある躰。

 しかし、予想はしていても、動揺を完璧に抑えることはできなかった。


「自分は幽霊ってことですか?」

「いや、お主は幽霊ではない。霊魂だ」


 似たようなものではないか、とも思うが、なんとなく違いはわかる。

 あの世に逝ったか、逝けていないか。とすると、ここは死後の世界ということになる。実際、ここの風景は現世ではありえないものである。無限にも思える蝋燭の火が壁に沿って、見えなくなるまで高所にまで灯すことなど、人の手には余る。


「霊魂、ですか。それであなたは一体?」

「我はこの霊道を通ってきた霊魂の管理を担当する霊的機構である。お主の世界でい

うところの、死神、もしくはヤーマラージャの眷属トゥルダクとでも考えておくとよい。実際にはほとんど違う存在ではあるが。手間を掛けてまで正確に認識する必要も、させる必要も互いに生じぬので問題なかろう」


 死神が操る言語は聞いたことのないものであったが、意味は何故かわかる。そういえば、自分が使っている言葉も同じじゃないか、と男はいまさらになって思い至る。そして、そもそも、生前にどんな言葉を使っていたのか思い出せないことに気がつく。


「して、お主は自分の名前を思い出せるか?」

「あー。……いえ、思い出せませんね」


 死神は、肉のない手で楕円形状に組んだ法界定印(ほっかいじょういん)を解いて、顎骨を撫でるように指骨を動かす。


「真名はわからんか。それだけ真実の言霊を扱えるのなら名無しのわけはない。輪廻を続けるのなら必要もなくなるが――。そうなって貰っては、こちらが困る。試しに名前を考えてみよ」


 男が死神に促がされて自分の名前を考えてみると、すぐに思い浮かぶ。


「ヨクト」

「重畳である」


 死神の話す言語は理解できるが、本質はほとんど理解できている気がしない。それでも男は、無駄口を叩くと怒らせるかもしれない、と考えて質問は控えた。


「さて、真名がわかったところで、ひとまず獄卒広間まで行くとするか」


 結跏趺坐(けっかふざ)のまま、死神は滑るように宙を移動し始める。

 骨が言葉をしゃべる時点で、現世ではありえないのは思い知らされたが、空中浮遊まで見せられれば、いよいよ心が折れて、ここがあの世と信じるしかなくなった。

 目の前の光景があまりに非現実的で、まだ受け止められてはいないが、どうにもなりそうもない。諦めて後を追うしかない。


「ここが獄卒広間である」

「ここが……」


 獄卒広間に入ると、緩やかに湾曲した壁に沿って、ヨクトが歩いてきた通路と同じような通路への出入り口が、幾つも壁に開いているのが見られた。

 広間の石畳の床には、蝋燭の立てられた背の高い燭台が点在し、その周囲を照らしている。それでも前方と左右、それから頭上の果ては闇の奥に隠れて見えない。


 ◇


「誰かー。ちくしょう。助けてくれ!」


 広間を歩き始めてしばらく経った頃、野太い男の声が響いた。

 見ると、赤色の鎖に縛られた黒い靄を纏った男と、その鎖を掴んで男を引きずる赤色の冠を被った死神が、反響する叫びを伴いながら闇の向こうに消えていった。


「あれは?」


 思わず声を洩らしたヨクトに、死神は事務的に答える。


「快楽のために自らと同種の命を大量に奪った魂だ。あれは滅却されるであろうな」

「というと、魂が消滅するってことでしょうか?」


 死神は小さく頷いた。


「場合によっては、というべきであったな。すべての業が浄化されるまで消滅しなければ、また輪廻の輪へと戻ることもあろう」


 肩越しに振り返り、死神は厳かに語る。乾ききった眼窩には何の情も感じない。


「あれ? あの霊魂も黒い靄を纏っていますが」


 全身から黒い靄を吹き出しながら、闇の奥に走っていく者がいる。その体躯は死神と遜色ない巨体で、異様に腕が長い。

 巨体が通り過ぎた石畳の表層部分は、腐った汚物のように変容している。

 しかし、時間と共に正常な石畳へと、徐々に修復されているようであった。

 ヨクトにとっては奇怪な現象が、次々と展開されていく。


「必ずしも、我らより弱い霊魂ばかりが来るわけではないからな」

「は?」

「担当の霊的機構が返り討ちにあったか、取り逃がしたかしたのであろう」


 目の前を進む死神は、動じた様子もなく冷静に告げる。


「大丈夫なんですか?」

「あれは既に輪廻からは、完全に外れた存在となっているであろう。もはや怨霊と成り果てている。ああなってしまえば地獄にしか居場所はない。より強い霊魂、もしくは強力な浄化担当の霊的機構によって、いずれは滅却される運命なのだ。……おそらくはな」


 淀みない説明からは自信が溢れている。

 最後、小声で呟いていた部分以外は。


「滅却されるまでに、周囲に悪い影響があったりとかは?」

「安心しろ。然したる影響はない。最悪でも、星ひとつ分の霊魂が喰われるか、滅却されるかする程度である」


 平然と語られる内容に、ヨクトは眩暈のするような感覚に襲われた。

 その中にヨクトが含まれないとも限らない。安心できる要素はどこにもなかった。

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