百鬼夜行バス
小説初心者です。
初めて書いた作品です。なにぶん慣れていないので、読みにくい小説かもしれませんが、お付き合い頂ければ幸いです。
よろしくお願いします。
1. 夜行バス、定刻通り
男はバス停でバスを待っていた。繁華街に向かう路線バスだ。時刻表の予定到着時刻は20時ちょうどとなっている。
だいぶ涼しくなってきたとは言え、まだ9月。今日の昼間の気温は30度を楽に越え、その暑さは日が暮れても続いていた。
バスの到着時間より少し早くにバス停に来てしまった男は、汗を拭いながら、様々な事を考えていた。
お彼岸が近いが先祖の墓はあまりにも遠方にあり、もう何年も墓参りに行けていない事。
この間心筋梗塞で突然亡くなってしまった、中学時代の友人の事。
今日、会社内で熱中症になり、救急車で搬送されていった同僚の安田の事。
……そして何より考えてしまう事は、先日仕事で犯してしまった大きなミス。
連日の暑さの為か頭がボーッとしていて、大口の顧客から受けていた注文をすっかり忘れてしまっていたのである。
それによって先方の仕事に穴が空いてしまい、顧客から激しく叱責されたのだ。
今日、営業部長と共に先方に謝罪に行き、なんとか取引停止には至らなかったが、帰りの車中では部長の怒号に耐えながらの運転となった。
「いいか平岡!お前はだいたい普段から仕事がぬるいんだよ!仕事を几帳面にこなしていれば、こんな凡ミスは起きないんだ!今回みたいな大口顧客に対してのミスでもし取引無くなったりしたら、お前責任とれんのか!?死んでも責任取れねえぞ!」
自分が悪いとはいえ、延々続く罵声に精神的疲労はピークを迎えた。平岡は生まれて初めて死にたいと思った。それほど、辛い時間であった。
平岡のあまりの落ち込みように、一つ上の先輩、田島が気を使ってくれたようで、退社する際に、
「今晩、一杯どうだ?」
と誘ってくれた。
平岡はあまり乗り気ではなかったが、自宅に帰って一人で過ごしていると更に気が滅入るような気がしたので、先輩の好意を素直に受ける事にした。
現地集合という事なので一度帰宅してマイカーを自宅に置き、路線バスに乗って繁華街へ出る。飲みに行く時は平岡は必ずバスを利用していた。
路線バスを待っている間、仕事の事を延々考えていると、ついには、
”悪い事が起こるのは、やはり墓参りに行ってないからではないか?ご先祖様が怒っているのでは?”
などと非科学的に考えてしまう。
平岡は、イカンイカンと首を振り、やはり精神的に参っていると、改めて感じるのだった。
バスが遠くに見えてきた。ずっと考え事をしていて気がつかなかったが、バスを待っているのは平岡一人だという事に平岡はこの時初めて気が付いた。
バス停に来た時は、確かニ、三人がバス停に居たような気がしていたが、平岡は上の空だった為、その記憶は定かではない。
やがて、バスがゆっくりと近づき停車した。いつも乗る赤いバス。時刻は20時。定刻通りだ。
音を立てながら扉が開き、乗り込もうとする。
……数段あるバスのステップを一段登ったところで、不意に後ろに体が引っ張られた!
それで一度、バスの車外に体が降りてしまった。
「えっ!?」
平岡が小さく声を上げ、後ろを振り返ってみたが……誰もいない。
あたりを見回してみたが、誰もいなかった。
「………???」
確かに引っ張られた気がしたのだが………どうやら俺は、相当参っているらしい。後ろによろめいたのが、引っ張られたように感じるなんて……。
平岡はそう思い、再びステップに足を掛け、今度はよろめかないように力強く足を踏み込んで乗り込んだ。
平岡が整理券を取ると、バスの扉が音を立てて閉まる。
閉まる瞬間、外に何か気配を感じ、声が聞こえたような気がした。
「……………そのバスじゃない。」
………平岡は振り返って扉の外を見た。一瞬、誰か居たように見えた。
やはり、他にもバス停に人が居たのでは?
乗り遅れたのか?
平岡はそんな気がしてならなかったが、よくよく車外を見ると、やはり誰もいなかった。
やがてバスは走り出した。
何と無く違和感は感じたが、どこかの家から漏れた声でも聞こえたのだろうと、平岡は気にもしなかった。
よく利用する居酒屋での待ち合わせだった。田島は先に店に入っていた。遅くなった事を平岡は詫びたが、歳も近い為お互いそんなに気を使う仲でもない。
二人は慣れた感じで、テキパキとオーダーを済ませた。程なくして、ビールジョッキがふたつ運ばれて来る。ジョッキはよく冷えていた。
「じゃ、お疲れ。」
「お疲れ様です。」
二人は軽くコツンとジョッキを当てる程度の乾杯を交わし、ゴクゴクと飲み始めた。
よく冷えたビールの味は、今日の平岡には染みた。平岡は勢いよく一気にビールを飲み干すと、すぐにおかわりを注文した。
「おお〜。行くねぇ平岡。ストレス溜まってるねぇやっぱ。」
「いや、今日はキツかったです。部長、退社の時、俺の事完全無視でしたし。明日会社に行きたくないですよ。」
平岡は、ようやく弱音を吐く事が出来て、少し肩の力が抜けた気がした。
「そりゃそうだろうなー。精神的にキツイよな。てかお前、顔酷いぞ。」
そう言われて、平岡はキョトンとした。
「顔?顔ですか?どうかなってます?」
平岡の反応に、田島はこう続けた。
「そうか、自分じゃわからないよな。あまりのストレスのせいか酷い顔してるぞ。目の下クマすごいし、顔色も土みたいな色してる。店内入って来た時、ギョっとしたもん。まるで”死人”みたい。」
そう言われて、初めて自分が相当病んだ顔になっている事を知った。
しばらく間があったが、平岡は少しでも元気に振る舞おうと、無理矢理笑顔を浮かべこう言った。
「そんな、縁起でもない。酷い顔は産まれつきですよー。もっと男前なら、モテるんですけどねぇ。」
無理に笑う平岡の笑顔は痛々しかった。
だが、田島は意地悪そうな笑みを浮かべ、
「そりゃー言えてるわ。ま、俺も人の事は言えねーけど。」
落ち込んでいる自分に、いつも通り接してくれる先輩が、平岡はありがたかった。
「そうそう平岡。”死人”で思い出したけど………。」
先程まで意地悪そうな顔をしていた田島が、急に神妙な面持ちで語った。
「今日、熱中症で倒れて救急車で運ばれた第3工場の安田、お前と同期だったよな?」
「はい、そうですけど…。」
「ついさっき電話あったんだけど、どうやら安田………夕方息を引き取ったらしい。」
「!!!!?」
……予想もしなかった発言に平岡は愕然として、驚きのあまり言葉が出てこない。
しばらく二人の間に沈黙が流れたが、平岡はようやく口を開いた。
「な、な、ななっ…なっ…なん……何で…!?」
ようやく言葉が出て来た平岡は最初、上手く喋れなかったが、ある程度落ち着いてくると、早口でまくし立てた。
「なっ何で!??何でですか!?いくら救急搬送されたとは言え、ウチの工場、そこまで暑くは無いと思いますよ!?熱中症って、そんなに重症だったんですか!?」
「うん……俺も詳しくはまだ聞いてないんだけど、あいつ、元々心臓が弱かったんだろ?」
ひと呼吸置いて、田島は更に続けた。
「なんか、搬送先の病院で、突然容体が急変してさ、心停止したんだって。熱中症で体が衰弱していたせいもあって、蘇生措置の甲斐もなく亡くなったんだと。だから直接の死因は、心臓疾患になるのかなあ。」
何と言うことだろう。部署が違うとはいえ、それでも同期の突然死は受け入れ難い出来事であった。
「明日、会社は大変だぞ。社内での死者なんて問題だからな。部長あたりも、外部の対応に追われるだろうし。」
そう言いながらビールを飲み干した田島は、ジョッキを頭上でブラブラさせながら、顔馴染みの店員におかわりを要求した。
「ま、そういう訳で、明日から当分、社内は大変だろうし、お前も同期なら葬式くらい出ないといけないだろうし、色々あるから、今日はしっかり英気を養っておこうや。」
「はあ……。」
ホントに色々あり過ぎて、気が滅入る。そう思いながら平岡は二杯目のビールを飲み干すのだった。
………その夜は、ずいぶん深酒をしてしまったようだ。どうやって帰ったのか、平岡は覚えていなかった。
平岡は、再びバス停に立った。
あたりは真っ暗で、ここには街灯なども無い為周囲は見えにくかったが、バス待ちをしている人は平岡の他にどうやら二、三人いるようだ。
平岡はどうしても仕事のミスが頭から離れず、やはり上の空でバス停に立っていた。今後の仕事の事を考えると、頭がガンガンした。考えすぎて変な冷や汗が出てくる。汗を拭うと、汗は本当に冷たく感じた。
バス停は静まり返っていたが、よく聞くとあたりのバス待ちの人達が、何かボソボソ呟いている。
「……バス…は…ま…だか…。」
「………あ………つ…い。」
「…く………る…しい………。」
「……楽…になり…たい…。」
「……バスは…………まだか…。」
「…バ………ス………。」
「は………や…く…………。」
声は聞き取りにくく、途切れ途切れに聞こえた。全身黒づくめの衣装をまとい、うつむき加減で表情は読み取れない。平岡は仕事の事で頭が一杯で、周りの乗客は目に入っていなかった。
バスが遠くに見えてきた。まるで暗闇から現れたかのようだ。バスは弱い朧げな光を放ちながら、近づいて来る。辺りは真っ暗なので、バスの灯りはぼやっとした薄暗い光なのに良く目立った。
「…バ…ス………。」
「き………………た…。」
「………定……刻…ど…おり…。」
ボソボソと周りの乗客は呟く。
やがて、バスがゆっくりと近づき停車した。赤いバスだ。
静かに扉が開く。
周りにいた乗客たちは、音を立てずにスススっと乗り込んで行った。
無意識に平岡もバスに乗り込もうとする。以前のように後ろによろめかないように気をつけて一段ステップを登ると、以前とは逆で、バスの中に体が引っ張り込まれた。吸い込まれた感覚に近い。
平岡は整理券を取ろうとしたが、発券機がそもそも無かった。
バスの扉が、音も無く閉まった。
やがて、バスは走りだした。なんと無く違和感は感じたが、平岡は気にもしなかった。
車内には、数人の先客もいたようだ。車内のあちこちの席に人影がうごめいて見えるが、車内は薄暗く、モヤのようなものがかかっていて、車内全体を見通す事は出来ない。
平岡はバス前方の、運転席のすぐ後ろの、一人掛けの席に腰掛けた。
頭はまだガンガンする。気分転換に外の景色でも見ようかと思ったが、外は真っ暗闇で、何も見えなかった。
しかしこのバスの車内、すごく寒い。平岡は、あまりの寒さに身震いした。
しばらくして、平岡はふと、考えた。
俺って、今晩、バスで飲みに出たよなあ確か。先輩とけっこう沢山飲んで、それからどうしたっけ?ちゃんと家に帰れたっけ?何で俺は、またバスに乗ってんだ??
考えたが、わからない。
このバス、どこに行くんだ?
そう思うと、
「…どこに、行くんだろうねぇ。」
前方から、ボソっと、声が聞こえた。
?
運転手、何か言ったか?
平岡はそう思い、席から少し身を乗り出して、運転席のバックミラーで運転手を見ようとした。
……………。
運転手、いない。ミラーに写っていない。
目を擦り、もう一度ミラーをみたが、無人の運転席にハンドルだけが動いている。
肉眼で運転手を見ると……
運転手はちゃんと運転席に…………居る。
……ちゃんと、運転席に、居る。
運転手は確かに居る!!!
平岡は、少しずつ、身の毛がよだつのを感じた。
まさか、まさかまさか、まさか、このバスは一体!?一体何だ!?
顔面蒼白になり、恐怖から体がガタガタ震える。
……運転手は、ゆっくり振り向いた。
平岡は………目を疑った。見覚えのある顔だ。
…………………………この間亡くなった、中学時代の友人だった。
平岡は、直感的に悟った。
これは、乗ってはいけないバスだ……!!!
そう思うと同時に、急に目の前が真っ赤に染まった。目の中に真っ赤な液体を流し込まれたような感じと、真っ赤な電灯を付けたような車内。同乗している乗客達も、もうこの世の者では無いと言うことが、この瞬間に解った。
震えが止まらない。体どころか、歯もガタガタ震えた。恐怖で体が硬直して動かない。
涙をボロボロ流し、心の中で叫ぶ。
助け…助けて!!降りる!おっ降ろして!
「…平岡さん、……大丈夫…ですよ。お迎え……ですから。」
通路を挟んですぐ横の席から、ボソボソっと声がした。平岡は、自分の名前を呼ばれた事で更にパニックになった。こんなバスの乗客に、何故自分の名前を知った人がいる!?
「平岡さ…んも、………このバ…ス………でした…か…。」
視線の先にいたのは………
安田。
今日倒れて、帰らぬ人となったはずの、安田。
青白い顔をして白目を剥き、うっすらと笑みを浮かべていた。
「ウワッ!ウワッ!や、や、安田ッ!!ウギャァァァァァァァァァァァァー!!!」
平岡は悲鳴を上げながら、恐怖のあまり失禁した。
そして、平岡は正気を失い………発狂した。
「……………………ふふぇへへへへへ…….フフへへへへへへへへふへ…ファファファハハハハハハハハ、アーッハッハッ、アーッハッハッハッハッハッハッ、ヒヒッヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ…….…。」
平岡は悲鳴とも取れるような笑い声を上げ、それは延々続くかと思われた。
それから、どのくらいの時間が経ったのだろう。一秒なのか、一時間なのか、それは分からない。平岡は笑い続けていた。
バスは、ゆっくりと減速し始めた。
そして、音も無く止まった。
窓の外にはバス停が見える。そしてそこには、沢山の黒い人影=死者がうごめいており、悲痛な叫び声を上げながらバスを待っていた。
扉が開く。乗客がスススっと乗り込んで来る。
その時、発狂していた筈の平岡は、本能的に感じ取った。
逃げられるのは、今しかない!
恐怖のあまり硬直して動かなかった体は、発狂している今は動いた!正気を失いながらも無意識に平岡は扉の方へ一目散に走ったのである!乗り込んで来る乗客を掻き分け、必死でバスの外へ出ようとする。
途中、様々な乗客が、平岡の腕や足をものすごい力で掴んできた。逃がさまいとしている。平岡はそれらを力づくで振りほどいた。
扉に辿り着き、数段あるステップを駆け下りる!!
あと一段!!というところで、平岡は後ろから両手で首を締められた。
安田だった。
「ひ…ら………おか…さ…ん…。」
すごい力で、平岡を絞め上げる。
しかし平岡の執念は凄まじかった。平岡は安田の両腕を両手で掴むと、そのまま背中に乗せ、渾身の力を込めて安田を背負い投げのように投げて車外の地面に叩きつけた!
何とも言えない嫌な音がした。安田は頭から地面に落ちたようだ。その勢いで、平岡も車外に転がり落ちた。
平岡は、車外に転がったと同時に立ち上がり、暗闇の中を猛然と走った。
背後で声がする。
「ひ…ら…………お…かぁ…….。」
耳を塞いで、平岡は走った。
どうか、追いかけてこないでくれ。
平岡はいつの間にか正気に戻っていた。
ガムシャラに走った。バスが遠ざかっていく。どのくらい走っただろうか?しばらく全力で走っていると次第に足がもつれてきて、つまづいて転び頭を打った。
目の前が暗くなり、一瞬意識を失ったような気がした。逃げなければ、という思いからか、平岡は意識をすぐに取り戻した。
すぐさま起き上がると………。
そこは、自宅のベッドの上だった。
平岡は、呆然とした。
自宅のベッドの上だ。何がなんだか解らない。頭はボーッとしていた。
なんだこれは!?……………夢!?
あれは夢なのか?
あまりにも生々しい体験………夢だとは思えなかった。
まわりを見回すと、いつも通りの散らかった1DKのアパート。目覚まし時計に目をやると、午前2時半を少し回ったところだ。
平岡はまだ、あれが夢だとは思えず、うろたえてガタガタ震えていた。とにかく怖い。
怖さを紛らわす為にリモコンでテレビを付けると、深夜のテレビショッピングがいつものように流れていて、アメリカ製の小型ミキサーを外国人が大袈裟に紹介するという、いつもの内容だった。
テレビで人の声を聞いても恐怖は収まらず、布団にくるまってしばらく恐怖に耐えた。
震えながらも数十分ほど経つと少しずつ落ち着いてきた平岡は、布団から顔を出し、天井を見つめた。
恐怖の次は脱力感に襲われ何も出来なかったが、徐々に頭がハッキリしてくる。平岡は、”あれは夢だったのだ。”と思うようになってきた。
そう思うと、急に安堵感が平岡を包む。
その時に気がついた。布団の中がやけにしっとりしている。匂いを嗅ぐとやっと理解した。自分が失禁している事に。
「おいおい〜三十代にもなって、寝小便かよ。」
平岡は独り言を言いながら、夢だった事を心底喜んだ。
本当に怖かった………。
夢で良かった………。
電灯を付け、とりあえず失禁したものを洗い流そうと、浴室へ向かいシャワーを浴びる。
暖かいお湯が、平岡の体をほぐしていく。生き返った気分だった。シャワーがこんなに気持ちの良いものだったとは…。シャワーを浴びながら改めてあれが夢で良かったと思い、平岡は目に涙をにじませた。
体を洗い流し浴室を出た時、ふと、脱衣所の洗面台の鏡に目が行った。
平岡は、田島の言った通り酷く疲れた顔をしていた。そして、顔から首元に目をやると、よくよく見ると赤くなっている。その赤くなった部分をまじまじと見つめた。
赤くなった部分。
何だこれ。
何か形になってる。
何だろう?
まるで、首を絞められたような…。
平岡はハッとした。……鼓動が徐々に早くなる。
何度も確認する。恐怖で再び体がガタガタ震え始めた。
間違いない…。
……赤い部分は、手の形をしている!!
平岡は気が動転して、どんどん青ざめていく。
「あれは、夢だろ!!!?」
頭を抱えながら独り言で大声を上げた。
そして訳も分からず首をゴシゴシこすった。首元が、とにかく気持ち悪かった。
頭がグルグル回る。全身に鳥肌が立ち、また涙が溢れ出た。平岡はもはや、これが夢か現実か解らなかった。あるのはただ恐怖だけ。
「一体……何なんだ?……怖い…たっ……………たっ…たす……助け…て…助け…。」
平岡は押し寄せてくる恐怖に発狂しそうだったが、即座にある案が浮かんだ。
「そっ、そうだ!コンビニ!コンビニへ!」
平岡は、とにかく人の居る所へ行こうと思った。近くのコンビニなら走っても車でも数分で行ける。
濡れた体はそのままに、脱衣所に用意していたTシャツと短パンを身に纏い、すぐさま家を飛び出しコンビニに向かって走りだす………。筈だった。
しかし玄関のドアを開けた瞬間、平岡は目を疑う光景を目撃する。
駐車場を挟んで部屋から二十メートル程離れた所にあるアパートの前の道路。住宅街の為、道幅は広くなく、夜間は人通りも殆どないような道だ。
……その道に、見覚えのある四角くて大きいシルエット。
まさか…………!
まさか…………!
平岡は何度も目をこする。
…間違いない。
まぎれもなくあれは…………バス!
赤いバス!!!!
平岡は思わず、悲鳴を上げそうになる!しかし、とっさに両手で口を覆い、声を飲み込んだ!声を上げたら、ここに居るのがばれてしまう!!
平岡は扉を閉めた。慌てていた為バタンと音を立てて閉めてまった!
”やばい!バスに音が聞こえたか!?”
そう思いながら、震える手で鍵を掛けチェーンロックをし、更に平岡は冷蔵庫に手を伸ばした。一人暮らし向けの小型冷蔵庫を引きずりながらドアの前へ移動させ、続いてテーブル、ソファなどをドアに立てかける!!様々な物でドアを塞いだ。
あまりの恐怖に平岡は錯乱していた。何がなんだか分からない。
”これは現実か?夢か?俺は生きてるのか?死んでるのか?あのバスは俺を迎えに来たのか?そうだそうに違いない!あのバスは俺を探している!怖い!死にたくない!死にたくない!死にたくない!”
恐怖が頭の中をぐるぐる駆け巡る。そんな平岡の脳裏に外のバスの光景が浮かんだ。平岡は、外のバスのそばに人影を見たような気がしてならなかったのだ。
”嫌だ!嫌だ!俺を見つけないで!探さないでくれ!頼むから成仏してくれ!”
平岡は心の中で叫んだ。
外に気配を悟られまいと、明かりもTVも全て消した。布団にくるまって、目をつぶり震えながら恐怖に耐える。
平岡は信仰心ゼロなのに、人間はこんな時にだけは、不思議と念仏を唱える。平岡は小声で、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。」
と、何度も唱えた。
外は静かだったが、やがて、何やら音が聞こえて来た。
ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ……
片足を引きずるような音だったが、紛れもなくそれは足音だった。
足音を聞いてしまった平岡は耳を塞ぎ、更に念仏を唱え続ける。
”こっちに……来るな!ここには俺はいない!頼む来ないでくれ…!”
平岡は布団の中で丸まって、そう願い続けた。
ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ…。
しかし、平岡の思いは無情にも打ち砕かれる。足音は間違いなく平岡の部屋に近付いて来ており、ボソボソと声が聞こえて来た。
「…ひ……………さ……。」
「……………お…か……さ…ん。」
「ひ……………か………さん。」
小さく、か細い声だか、足音が徐々に平岡の部屋に近づいて来るにつれ、はっきりと聞き取れるようになっていく。
「ひら……おか………さ……ん。」
平岡はハッキリと、自分の名を呼ぶ声を聞いた。そしてその声の主は。
”………………安田!!!”
平岡は絶望の淵に立った。もう、どうしたら良いのか分からない。ただ布団の中で目を堅くつぶり、念仏を唱えるのもやめ、息を殺して気配を消すしか出来なかった。
ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。
……やがて足音は、平岡の部屋の前で止まった。
平岡は怯えながら心の中で祈る。
”ここに俺はいない!俺はいない!いない!頼む!気付かないで通り過ぎてくれ!頼む!頼む!”
延々、祈り続けた。
心臓はものすごい速さで鼓動を打った。その激しい鼓動音が外にまで聞こえてしまうのでは?と危惧し、平岡は胸を抑えて、
”鎮まれ!鎮まれ!”
と自分の胸に言い聞かせるのだが、その思いとは裏腹に、鼓動はますます速くなる。胸が痛くなるほど速い鼓動は、平岡を更に追い詰めた。
しかし…………その後、ピタリと物音はしなくなった。
平岡は見つかるまいと息を潜めてジッと耐えた。その状態が延々続き、平岡は発狂寸前の精神状態まで追い詰められていたが、それでも生き延びたいという一心で耐えた。
だが、扉の外からは一向に物音ひとつしない。平岡は、”気付かずに通り過ぎたのか?”と一瞬思ったが、外で待ち構えているかもしれないという恐怖から、全く動けなかった。
それから、永遠とも感じられる極限状態が続いた。時間の感覚が麻痺してしまっていて、どれほどの時間が経ったのかはまるで見当がつかない。相当長い時間、平岡はその状態で震えながら耐えた。
……………長い時間を、耐えて、耐え抜いて、もう恐怖すら麻痺してきた平岡。もはや廃人のようになっていたが、やがてうっすらと目を開けると、布団の隙間から、少し光が漏れている事に平岡は気付く。
”…………あさ….?”
平岡の心に、一筋の光が差し込む。
”…………………………………朝だ。”
平岡は勇気を振り絞り布団の隙間を少しだけ広げて布団の外を垣間見ると、間違いなく隙間の向こうはうっすらではあるが青白く明るくなり始めていた。
”朝……………だ……………。”
平岡はまだ布団の中から出られずにいたが、涙をボロボロ流して朝を喜んだ。まさか、朝を迎えられるなんて……!
かなりの時間が経った筈だ。しかし扉の外からはあれから一向に物音はしていない。気配も感じられない。そして今、朝を迎えようとしている。平岡は思った。
”気付かれなかったんだ!”と。
平岡はすごく誇らしい気持ちになった。
”あの長い時間をよくぞ耐えた俺!あんな恐怖に打ち勝つなんて、俺はなんて奴だ!”
平岡は、自分で自分を褒め称え、そして喜びの涙を流し嗚咽を漏らした。
しばらくの間布団の中で自画自賛をしていると、恐怖はすっかり消えて無くなっていった。むしろ、地獄から生還した自分を、英雄視していた。
布団の隙間から、かなりの明るさが感じられるようになった。日の出は近い。
平岡は確信する。
”……もう、大丈夫。日は昇った。もう大丈夫だ。俺は助かったんだ。この地獄のような夜を俺は乗り越えた。”
そして平岡は、うつ伏せの状態でようやく布団から顔を出した。あたりが明るくなっているのを再度確認すると、正に英雄気取りで、勢いよくベッドから降り立ち上がった。
住み慣れた部屋をぐるりと見回した次の瞬間。
「………ゥゥゥゥゥギギギャャャャャャャャァァァァァァァァァァァァァァ!!!!。」
………長い、とても長い悲鳴を上げて、平岡は気を失って倒れた。
青白い顔をして白目を剥き、平岡に先程投げられたせいか、首と右足があらぬ方向に曲がっている。
…………そう。
安田は、部屋の隅に立っていた。
「ひ…ら……おか…ぁ。」
小さく呟くと、安田は薄気味悪く笑みを浮かべた。
2. 暗闇
カーテンの隙間から光が差し込み、床で倒れこんでいる平岡の目元に光が当たると、平岡の体がピクンと動いた。平岡が再び意識を取り戻したのは、午前8時を過ぎた頃だった。
平岡は目を覚ましたのに、目を開けられずにいた。おそらく安田が部屋にまだ立っているに違いない。平岡はそう思い込み、目を閉じたまま、涙を流してガタガタと震えながら言った。
「……ご、ごめんなさい、ごめんん、なさい、ごめめめんなさいいい、ごめんなさい、お、お、お願いしぃます見逃して下さいい、ごめんなさい、ごめんなななさい……。」
そう震えた声でブツブツと懇願した。平岡は心身共に衰弱し、もはやまともに喋れていなかった。
ろれつが回っていないが、延々、呪文のように謝罪をし続ける平岡。しかし突然けたたましい音を立てて、枕元に置いてあったスマートフォンが鳴った。平岡は激しく驚いて、反射的に飛び起きてしまった。
追い詰められた子犬のように怯えながら窓際の壁に張り付き、恐る恐る部屋の中を見回す。
………先程安田が立っていた場所には、安田はいなかった。
部屋の中、バスルーム、キッチン、勇気を振り絞って確認して回るが、安田の姿は確認できない。
やがて、スマートフォンは鳴り止んだ。
…………全て、夢か??
そう思いたかったが、平岡はもうそうは思えなかった。何故なら、平岡の部屋の出口は冷蔵庫やソファーで塞がれていたからだ。平岡が昨夜、必死で恐怖に耐えた何よりの証拠だった。
そう、昨夜の出来事は、夢では無い。平岡は恐怖のあまり、頭を抱えて叫んだ。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!。うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……………」
叫んでいると、スマートフォンがもう一度鳴る。
電話をとるべきか一瞬迷ったが、平岡はよろめきながら、スマートフォンに手を伸ばす。あり得ない経験をし、もう何が起きてもおかしくないと感じた平岡はどんな行動を取るのも怖かったが、とにかく誰かと連絡を取りたかった。生きた人間の声を聞きたかった。
着信は田島となっている。平岡は今だに恐怖を拭えなかったが、電話に出た。
「…もし…も…し。」
怖々と声を出すと、電話の向こうからけたたましい声がした。
「もしもーし!平岡、お前、寝てんのか!?もう、8時回ってるぞ!?。」
田島の声だった。
平岡は、田島の声を聞き、安堵のあまり涙をながしてこう言った。
「…生きた人間の声だ!。」
それを聞いた田島は一瞬間を開けて、こう返した。
「……はあ!?お前、何言ってんの!?寝言言ってんじゃねーよ!!寝呆けてる場合か!?お前、遅刻だよ、ち・こ・く!!。」
けたたましい声を上げて、田島は更に続ける。
「8時回っても出社しないから、もしかして…と思って電話したら、お前案の定寝坊かよ!!二日酔いで遅刻なんて、ありえねーぞお前!!早く出て来い!いいか、くれぐれも昨晩俺と飲んだなんて言うなよ!!遅刻の原因が俺にも関係あるなんて部長に知れたら、俺も巻き添えを食うからな。勘弁してくれよ!じゃな!。」
田島はこうまくし立て、一方的に電話を切った。
田島の声を聞いた平岡は、ようやく落ち着きを取り戻した。どうやら今度こそ、助かったらしい。
しかし、心の奥底からこみ上げてくる不安は消えなかった。昼間だから分からないだけで、もしかしたら安田はまだこの部屋にいるかもしれない。そう考えると、次第に顔が青くなった。
平岡はもう、この部屋を早く離れたかった。一分一秒でも早く、この部屋を出たい。
平岡はとりあえず、出社する事にした。会社に行けば、沢山の人がいる。
着替えを手早く済ませ、その後、衣類などを収めていた収納ボックスをひっくり返し、大きめのバックに下着や着替え、その他衣類など目についたもの手当たり次第詰め込めるだけバックに詰め込んだ。もう、この部屋に帰って来ようとは思わなかったからだ。
その他にも部屋中を引っ掻き回し、最低限の荷物をまとめ、貴重品をバックのポケットにねじ込んだ。
色々な物をひっくり返した為、部屋は泥棒が物色したかのように酷く散らかってしまった。
玄関を塞いでいる家具家電は思ったより重く、深夜、凄まじい速さで玄関を塞いだ自分に感心した。人は追い込まれると、あり得ない力が出るのだと、身を持って感じた。
なんとか扉が開くくらいに家具家電を動かすと、平岡はそっと扉を開け、外の様子を伺った。
………バスは、いない。
安堵のため息をつくと、バックを持ち扉の鍵をかけ、急ぎ足で駐車場にある車に飛び乗った。恐怖の家からようやく離れられる。
ホラー映画だと、エンジンがかからない………なんて展開をよくみかける。平岡は、”もしかして車が動かないのでは?”と不安に思いながら、恐る恐るエンジン始動ボタンを押すと、拍子抜けするほどあっさりとエンジンはかかった。
平岡は冷や汗を拭うと、振り返る事なく一目散にアパートを離れた。
「平岡………お前一体、どういうつもりだ?。」
部長は怒りを通り越して、あきれかえっているようだ。
大幅に遅刻して出社した平岡は、即、部長のデスクに呼ばれたのだ。
昨日に引き続き部長のカミナリが落ちるのだろうと予想した平岡だったが、予想に反して部長は冷めた対応だった。
しばらく間を空けて、部長は口を開いた。
「……昨日の一件で反省したように見えたが………まさか、こんなに連続で失態を晒すとはな。」
部長は、平岡とはあまり目を合わさずに、パソコンの画面を見つめたまま無表情で淡々と話しを続けた。
「一応、理由は聞いてやる。何故遅くなった?。遅くなるのに何故連絡して来ない?」
平岡は、回答に困った。真実を話した所で、部長の神経を逆撫でするだけだ。
理由なんていくらでも作れるが、どんな理由を並べても嘘臭く聞こえるような気がした。
それでも平岡は、こう答えた。
「今朝、あまりにも体調が悪かったので、朝一番で病院に行ってきました。遅くなりまして申し訳ございません。」
言った平岡本人が一番、嘘臭く感じた。平岡は深々と頭を下げたが、部長はそれを見ていない。
「……どう調子が悪いんだ?。」
部長が聞くと、平岡は嘘をつくのに少しためらって、こう言ってしまった。
「えー…えーと………えー……さ、昨晩、あまりにも眠れなくって、えー、えーとですね、その、幻覚を見たと言うか、ベッドでうなされまして、えー、そ、それで、著しく体調を崩してしまって…。」
しどろもどろになりながら平岡は弁明した。
平岡は自分が苦しんだ事を少しでもアピールしたい思いで、わかってもらいたい思いで、このような事を口走ってしまった。だが、このような回答は、他人には戯言にしか聞こえなかった。
部長は大きくため息をついて、平岡の顔をチラっと見た。
「なるほど、な。お前の気持ちはよくわかった。」
部長は、平岡のふざけてるとも思える回答にしびれを切らしたらしい。
部長は諦めたような口調でこう言った。
「………ま、いいさ。俺も昨日はまだ、かばってやらなきゃって思ってたけど、お前もそんなだし、さすがに問題行動が続いたからな。昨日の件と今日の遅刻、ひっくるめて上へ上げさせてもらうぞ。後は、上がどう捉えるかだ。」
淡々と言うと部長は、手をヒラヒラさせて、”下がって良い”と言う合図を出した。”シッシッ”に近い合図だった。
「………申し訳ございませんでした。」
平岡はもう一度、深々と頭を下げ、自分のデスクに戻った。
デスクに座って、平岡は思った。
”怒られているうちが、華か……。”
今日の部長は、昨日とはうって変わって、実に静かに喋った。自分は見放されたのだと、肌で感じた。
必死で取り繕おうとも思ったが、平岡は心身衰弱していて、その気力も湧いて来なかった。
だが、そんな事は、平岡はもうどうでもよくなっていた。命があっただけでも有難いとすら思っている平岡に、仕事の遅刻や部長の態度などは小さい事だった。
それより、これから先どうするかを考えなければならない。今晩、もうあの家に帰るつもりは無い。では、どこに行けば?
そもそも、夜が来たらどうなるんだ?眠ってしまったら、あのバスに乗せられるのでは??
何故俺は、あのバスに乗せられたのだ?俺は死ぬ運命だったのか?
様々な憶測、妄想が膨らむ一方で仕事どころでは無い。しばらくの間、デスクに座って宙を見つめていた。
数十分ほど経った頃、部長が外出したのを見計らって、田島が近づいて来た。
「お前なにやってんだよ、全く!。部長に俺の事、言ってないだろうな!?。」
周りの目を気にして小声だったが、開口一番、田島は荒々しく言い放った。
「…すみませんでした。」
平岡はうつむいて答えた。
「…田島さんの事は話してません。大丈夫です。」
喋る気力すら無くなって来た平岡は、ボソボソと話した。
田島は平岡の陰湿な口調にイライラしたが、会社内であまり平岡と話していると自分の評価にも影響するのでは?との懸念から、手短に話を打ち切ろうとしてこう言った。
「まあいい。俺、外回り行くから、詳しくは後で話そう。昼飯、「エビス屋」で食おうぜ。13時頃行くから。いいか?。」
エビス屋は、田島がよく利用している昔ながらの大衆食堂だ。古い店舗だがボリュームがあり、更に会社からも離れた場所にあるので社内の人間と出くわす可能性がほとんどなく、誰にも気兼ねせずのんびり昼食を摂れるので田島のお気に入りだ。
平岡はコクコクと二度頷いた。
田島はそれを確認すると、そそくさと出て行った。
昨日に引き続き今日も気温はグングン上昇し、正午を回った現在の気温は31℃。車外は厳しい暑さだ。
平岡はエビス屋に向けて営業車を走らせていた。
これほどの暑さにも関わらず、平岡は鳥肌を立て、震えながら車を運転していた。途中、何度もバスとすれ違い、その度に体の震えが止まらなくなるのだ。
バスが”普通の”一般客を乗せているとわかるたび、安堵のため息をついた。
だが、すれ違うバスが赤いバスだと、平岡はバスから逃げるように突然左折をし、道を外れるのだった。赤いバスに対しては乗客を確認するどころでは無く、本能的に逃走を繰り返してしまうのだ。
そのような運転のせいでエビス屋のある町まで随分と時間がかかってしまい、待ち合わせの時間ギリギリになってしまった。
店に到着した頃には、平岡は半べそをかいているような状態で、もはや運転すらまともに出来ない事を物語っていた。
市内の南部のほうにあるこの地域は、昔ながらの佇まいで古い建物が多く残っており、ノスタルジックな雰囲気である。海が近いのもまた、街並みの哀愁を引き立たせていた。
その町の中にある、数えても7、8件しかないような小さな商店街。商店の半分くらいはシャッターが降り寂れてしまっている。その商店街の中にエビス屋はある。
他の寂れた店とは違い、エビス屋だけは活気に満ち溢れていた。昭和を感じさせる古い店構えだが安くてボリュームがあるので、地元の人だけでなく田島のような隠れファンがやってくるのだ。
田島が12時ではなく13時を指定したのも、恐らく満席である昼時を避けての事だった。
平岡が店内に入ったのは13時丁度。
店内は賑わっていたが客足はある程度落ち着いたようで、空席もいくつかあった。
田島は先に到着しており、どうやらオーダーを済ませているようだ。
「すみませんお疲れさまです。」
平岡は軽く頭を下げ、平岡の対面に座った。
田島は口を開くなり、
「お・ま・え・はー!!何で寝坊するかなぁ!!?」
きつめの口調で平岡に言った。
「……すみません。」
平岡は弱々しい声でつぶやくように謝った。
田島はあまりにも弱々しい平岡の反応に、改めて平岡を正面から見た。
昨夜も疲れた顔をしていたが、昨夜より更に平岡は憔悴し切っていて、目は焦点が合っておらず、唇は真っ青。よく見ると唇は微かに震えている。平岡に何かあったのは、田島の目から見てもあきらかだった。
少し間を置いて、田島は尋ねた。
「……お前、何かあったのか?。」
平岡はうわの空で、田島のその言葉を聞き流してしまった。
しばらく二人の間に沈黙が流れた。
「……平岡?。」
平岡の頭に自分の声が届いていないと察した田島は、もう一度、今度は声を張って尋ねた。
「平岡、おい、平岡!お前、何があった?。」
「………………安田…。」
平岡は無意識に安田の名前をポツリと口に出してしまった。だが口に出したと同時に、
「…いえ、何でもありません。」
と、言った。
平岡は田島に救いを求めたい思いで安田の名前を出してしまったのだが、こんな非現実的な事を話してしまえば、きっと変な目で見られるに違いないと思ってしまい、口を閉ざしてしまった。
「安田?安田がどうした?。」
田島が聞いても、平岡は反応が無い。田島は続けた。
「安田の通夜、今夜だよな。お前、もちろん行くんだろ?。」
平岡はそれを聞き、突然血相を変えて叫んだ。
「いっ、行きません!行きません!絶対行きません!!!行ける訳が無い!!!嫌だ!絶対行きません!!!!。」
声を震わせながら大声を上げて取り乱す平岡に、田島は驚いた。
「おいおいおい。突然どうした?お前、同期で親交もある程度あるんだろ??行かないっ…て、お前…。」
「おまたせしました。生姜焼き定食大盛ね!」
店のおばあさんが、会話を遮るようにこのタイミングで田島の注文を運んて来た。
「…………。」
二人の会話に、間が出来てしまった。目の前には美味しそうな生姜焼きが湯気を立てている。
「平岡、お前、注文どうすんだ?。」
田島が聞いて来たが、平岡は食欲などまるで無かった。しばらく考えたが、食べたいものなど浮かんで来ない。
「……………僕は、やめときます。烏龍茶か何か、もらいます。」
静かに平岡はそう答え、店のおばあさんに手を上げて、烏龍茶を注文した。
田島は少し荒っぽく聞いた。
「おいおいおいおいおい。飯食えよ!。お前体調悪いのか!?。」
「…まあ、そうです。きのう、うなされて、寝てないんです。」
平岡は完全に下を向いてしまい、黙り込んでしまった。田島と目が合わせられない。
田島に本当の事を言えば、理解してもらえるんだろうか?それとも怪訝な顔をされ、引かれるのだろうか?
平岡は葛藤に苦しんだ。だが結局、真実を切り出す勇気は、平岡には湧いて来なかった。
田島は何と無く不審な顔をしながら、生姜焼きと白飯をほうばっている。平岡の様子がおかしいのはあきらかだが、平岡の行動や態度を少し気味が悪いと思い始めていた。
平岡は田島に唐突に尋ねた。
「…田島さん、今晩、泊めてもらえませんか?。」
それを聞いた田島は、驚いて少しむせた。ゲホゲホと咳き込むと、口に入っていた白飯を改めて飲み込んだ。
「お前。何があったんだよ?自分のアパートに帰れないのか??うちに泊まった事なんて、無いじゃないか。俺んちに泊まる理由ってなんだ??帰れない理由ってなんだ?。」
平岡は問い詰められると、再び下を向いた。
「おい、平岡ぁ?。」
「お願いします。」
「平岡ぁー。」
「お願いです。」
田島は、理由を言わずに泊めろと言う平岡を心底不審に思ったが、とは言えある程度気心知れた仲だ。むげには断りにくかった。
「……………おい、平岡。何があったか知らないが、正直、お前がそこまで言うなら泊めてやらん事もな…」「本当ですか!!?。」
田島が喋り終わる前に平岡は歓喜の声を上げた。平岡はもう、一人で夜を迎える勇気は無かったのだ。平岡は今日初めて、笑顔を浮かべた。
「こらこらこら待て待て待て待て。」
田島は喜ぶ平岡を制止するように答えた。
「泊めてやる。ただし、今日は駄目だ。明日とかならOKだ。」
「……え…。」
平岡の表情が、一気に暗くなる。
「おいおい、そんな顔すんな。今夜は駄目なんだ。」
「田島さん。一生に一度のお願いです。もう、自分の部屋には帰りたくないんです。お願いします。お願いします。」
平岡は泣きそうな顔で懇願したが、
「平岡ぁ。頼むわ。察してくれ。今晩は駄目なん…」「お願いします!。」
田島の言葉を遮って平岡は更に懇願した。
田島は困った表情を浮かべたが、意を決したように答えた。
「………平岡、お前に言って無かったが………実は、今夜、経理課の真穂ちゃんが…うちに来るんだ。」
経理課の真穂ちゃんとは、会社の男性の中では「かわいい」ともっぱらの評判の女性社員だ。
「ようやく、ようやくここまでこぎつけたんだ!俺も三十代半ばだし、こんなチャンスを逃すわけにはいかないんだ!!頼む!今日は勘弁してくれ!。」
田島はテーブルに両手をつき、頭を下げた。
それを見た平岡は、真っ青な顔をして下を向いた。
少し間があったが、
「…………………………わかり………まし……た……。」
平岡はボソボソとそう言うと、再び憔悴した表情を浮かべてスッと立ち上がると、田島とは目を合わさずに店の出口へ向かった。
「ひっ平岡!?怒ったの?平岡!頼むぞ!明日ならいいからな!今晩は駄目だぞ!。」
平岡は田島の叫びを背中に聞きながら、絶望的な感情を胸に店を後にした。
会社に帰った平岡は、やはり仕事どころではなかった。
とにかく夜が来る恐怖に怯え、時間の経過ばかりが気になった。時計の針が進めば進むほど、平岡の心は押し潰されそうになるのだった。
そんな不安を掻き消す為に、社内の少しでも親交がある者には手当たり次第、今晩泊めてもらえるか否かを尋ねて回った。だが、平岡の唐突なお願いは常識的に考えても奇行であり、皆、怪訝な顔をして断るのだった。
そんな平岡の異常とも思える行動は、数時間後には社内で噂となっていた。
噂には尾ひれ背びれが付き、様々な憶測が一部の社員の中で飛び交っていったのである。
「平岡は大きな借金を抱えていて、借金取りが取り立てに来るので家に帰れない。」
「連日、何人もの女性を家に連れ込んだ結果、修羅場を迎えている。」
「犯罪に巻き込まれた。もしくは、加害者になった。」
……人の噂は怖いもので、全く根拠も無い噂が水面下で広がっていった。
その後も時間は刻々と過ぎ、平岡の恐怖はどんどん膨らんで行く。
そんな平岡を嘲笑うかのように、やがて無情にも夕刻を迎えた。
社内では、安田の通夜に行く者が多く、17時には半数の社員が退社していった。
家に帰りたくない平岡は、デスクにかじりついていた。だが、仕事をしている訳では無く、スマートフォンを操作していた。
平岡はこれまた手当たり次第に知り合いにメールを送り、今晩の宿泊先を探していたのだ。だが、やはり断りのメールが来るばかりだった。
途方にくれていると、突然部長から呼び出された。
「平岡、とっとと帰れ。」
部長のデスクに行くなり、部長は不躾にそう言い放った。
「…いえ、今日はもう少し…。」
平岡がそう言うと、
「お前、今日仕事してないよなあ?妙な噂も立ってるし……なんなんだお前?。」
部長の問いかけに、平岡は何も言えなかった。
部長は安田の通夜に出席するようで、黒色のネクタイを締めながらこう言った。
「安田の通夜に行くのかと思ったらずっと会社に残ってるし……お前、本当に訳が分からん。」
更に部長は続けた。
「迷惑なんだよ。他の社員にも色々と影響するし、通夜行かないんなら早く家に帰れば?。」
部長は、社内で立っている噂を知った上で、”家に帰れ”と嫌味を言ったようだ。
「…失礼します。」
平岡は、退社を余儀無くされた。
だが、どのみち会社にずっと居ても、夜遅くには無人になる。一人になるのは平岡には耐えられなかった。
タイムカードを押し屋外へ出ると、外は血を流したかのような真っ赤な夕焼けだった。平岡はその夕焼けの赤さに身震いした。昨夜のバスの車内を思い出すような、そんな色だったからだ。
じきに暗くなるだろう。恐怖と絶望感が平岡を襲う。
平岡は死刑台に上がるような気持ちで、自分の車に乗り込んだ。
会社を出た平岡は、今晩の滞在先を考えながら車を走らせた。暗くなる前に人の居る安全な場所に移動しておきたい。平岡はとにかく夜が怖かった。
実家まで帰れば両親もいるが、如何せん実家までは車で片道3時間だ。明日の出勤の事を考えると現実的ではない。何より、着くまでに暗くなってしまう。
昨夜行った居酒屋に行けば顔馴染みの店員もいるが、深夜には閉店してしまう。
ビジネスホテルは、やはり独りになる恐怖から気が進まなかった。
…しばらくあれやこれや考えてみたが、結局、朝まで人が居るような場所は、コンビニかファミレス、そしてネットカフェなどだろう。
コンビニやファミレスに居続けるのは不自然なので、平岡は自然と駐車場のあるネットカフェに向けて車を走らせていた。日没はもう目の前だ。悩んでいる暇などなかった。
とりあえず今晩を乗り切れば、明日は田島のアパートに転がり込める。
昨夜の出来事は全て自分が見た幻覚で、今夜は何も起こらない事を平岡は祈った。
ネットカフェに行く道中も、何台ものバスとすれ違う。その都度震え上がりながら右折左折を繰り返してバスから逃げ、やはりネットカフェまでなかなか真っ直ぐ辿り着けない。
そうこうしている内に、いよいよ辺りが暗くなって来た。
薄暗い夕暮れは、平岡の恐怖をより煽った。唇が、足が、ガタガタと震え始める。
自分の中の恐怖が、昨夜の出来事はやはり現実なのだということを物語っているかの様だった。
ネットカフェまでもう少しの距離だ。平岡は恐怖と戦いながら運転を続ける。
”大丈夫。大丈夫だ。店に入れば、安全だ。もうすぐ。もう少しだ。”
そう自分に言い聞かせながら恐怖に耐えた。
ネットカフェは、次の交差点を右折して国道に出れば、すぐ左手にある。
平岡は右折レーンに入り、赤信号で止まった。赤信号の待ち時間がもどかしい。平岡は、一刻も早く辿り着きたかった。恐怖がどんどん膨らんでいく。
昨夜から今朝の記憶が、鮮明に蘇ってきた。おぞましい光景が、その時の安田の顔が、フラッシュバックして、平岡の冷静さを奪って行く。
「怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い……….。」
恐怖に耐えられなくなってきた平岡は、ブツブツ呟きだした。
震えは止まらず、体をせわしなく動かして怯え、目が泳ぎ始める。
「変われ、変われ、変われ、
変われ、、し、しんご、信号、早く、早く、かわれ……。」
………平岡は、恐怖のあまり周りが見えなくなっていた。意識は全て、信号機に向いていた。
そして………平岡は気付いていなかった。
………いつの間にか、
………平岡の車の数百メートル後方に、
………夕闇に紛れて、赤い車体が不気味に浮かびあがった…。
…じわり、
…じわりと、
…近づいてくる…。
…じわり、
…じわり、
…静かに距離を縮めて、
…やがて、交差点に近づくと、
…ゆっくりと、平岡の居る右折レーンへと入り、
………平岡の車のすぐ後ろに、音も無く止まった……。
平岡は、正面の赤信号を注視していたが、やがて左右の歩行者信号が青く点滅し始めると、注意は歩行者信号へと移った。
青い点滅の時間が、平岡にはとてつもなく長く感じられた。
「もうすぐ、もうすぐ、もうすぐだ…!。」
…青い点滅を見つめていた平岡の視界に、ふと、赤い色が見えたような気がした。
赤信号の赤色ではない。
視界の端っこの方に、ふと、見えたような。平岡の視界に、赤信号以外の赤色はさっきまで見えなかった筈なのに。
平岡はその赤いイメージに違和感を覚え、自然と青い点滅から目を離し、なんとなく見えたような気がする赤い色を探し始めた。
左右、前方、見渡したが、赤信号以外の赤い色は見つからない。
平岡は首を傾げた。
歩行者信号の青い点滅に再び目を向けようとした瞬間、またしても視界の隅に赤い色が見えたような気がした。
平岡は何気にフロントガラスに目をやった。ここで初めて、赤い色がフロントガラス上部にあるバックミラーに写ったものだと気がついた………。
後方にあるそれは車体が大きい為、バックミラーの全面を赤色に染めていたのだ…。
平岡はその赤色を何とも思わずに再び青い点滅信号に目を向けようとしたが、次の瞬間ハッとした。
平岡の表情が徐々に凍りつく。
…今の…バックミラーの赤い色は………今の色は………今の色は…………!
平岡は震え上がった。たちまち鼓動が早くなり、胸が、心臓が、激しく痛みだす。まるで心臓が誰かに握り潰されているような感覚だった。
…………平岡は、恐る恐るバックミラーを再度、確認しようとする。
しかし、頭の中が、体が、目が、バックミラーを見るのを激しく拒絶して、バックミラーになかなか視点が合わせられない。
それでもちょっとずつ視点が、バックミラーの方へと移って行き、赤い色がじわじわと視界に入ってくる。
赤い…。
赤い…。
赤い…。
紛れもなく赤い…。
この赤い色は…。
バックミラーをようやく直視した平岡は、瞬時に絶望し地獄の底へと叩き落とされた。
「赤い…バス…………。」
ポツリと呟いた平岡は、ゆっくりと振り返り、ミラー越しではなく、直接自分の目で現認した。
平岡は硬直した。
一瞬、身動きが取れなくなったが、すぐに叫び声を上げた。
「………………バ、バ、バス、バス、バス!バス!バス!!赤い!!!赤い!!!赤い!赤い!赤い!バスッ!!!!。」
平岡は錯乱しながらそう叫ぶと、即、バスから逃げようとアクセルを踏み込んで急発進した!!信号はまだ赤信号のままなのに!
タイヤが激しく悲鳴を上げる!平岡はハンドルを右に切りながら、猛烈な勢いで交差点に進入する!
次の瞬間、
パアァァァァァァァァァァー!!
右手からけたたましいクラクションの音がした。そして、激しい激突音。
まるで雷でも落ちてきたかのような凄まじい音を立てて、平岡の車は、オモチャのように、二回、三回と転がりながら吹っ飛ばされていった。
平岡の車は、右手から国道を直進してきた大型トラックに真横から衝突されたのだ。
平岡の車はコンパクトカーだった為、ひとたまりもなかった。真横から、しかも運転席側から衝突され、車体はペッシャンコになり、吹っ飛ばされ転がり続けた車体は、道路脇にあった建物に激突して、ようやく止まった。
辺りは、騒然とした。
様々な人が、ざわめきながら集まってくる。
「おいおいおい…!」
「こりゃひでえ!」
「運転手、大丈夫なの!?」
「きゅ、救急車呼べ!」
あちこちから声が聞こえて来た。
そして、後方にいたバス…赤いバスからも人が降りてきた。
「なんで、なんで赤信号で突っ込んだんだ!!?」
その声は、赤いバスを運転していた運転手。
乗客も次々に降りて来て、心配そうな表情で状況をみつめていた。中には、助けに行こうと、平岡の車に駆け寄る人もいる。
……そう、平岡の車の後方にいた赤いバスは、”普通の”生きた人間を乗せた、ごく”普通の”路線バスだったのだ。
平岡は、夢を見た。
うっすらと白くモヤがかかった、何もない空間。
そこに、安田は立っていた。安田の背後には、例の赤いバスがある。
安田は、嬉しそうな顔をして、清々しい顔でこちらを見ている。見たこともないような、安らかな顔だ。
それを見ている平岡まで、清々しくなった。心が穏やかになった。今まで、安田に対して怯え切っていたのが、嘘のようだ。安田の顔は、本当に暖かかった。
これまで恐怖でしかなかった安田が急に親密に思え、安田の方へ歩み寄ろうとした。
その時、背後で、自分を呼ぶ声がした。
「…平岡さん。」
平岡は振り返る。
「…平岡さん。」
また聞こえてきた。
「…平岡さん。」
何度も呼ばれる。
「………………………平岡さん。」
「……平岡さん。」
「…平岡さん。」
「平岡さん!」
「平岡さん!!!!!!」
「平岡さん!しっかり!!」
「平岡さん!!!頑張れ!!」
「死ぬな平岡さん!」
……周りの男女の、平岡を呼ぶ叫び声で平岡は徐々に意識を取り戻した。
頭が破裂しそうな程痛く、体も、どこが痛いのか分からない位、全身に凄まじい痛みが走っていた。
意識は戻ったが、目を開けることができない。体も動かない。
平岡は、何がなんだか分からなかった。ここがどこかも、何が起こったのかも。
ただ分かる事は、自分が死の淵に立たされていると言う事。それだけは理解できた。
ここは、救急病院だった。大勢の医師や看護師が、懸命に平岡に処置を施している。
平岡は頭と体の激痛に、うめき声をあげようとしたが、声すら出ない。体の全ての器官が、動かないようだ。
平岡の目はいっこうに開かず、真っ暗闇の中にいる感覚だったが、痛みだけはリアルに自分に伝わってくる。その痛みを平岡は、暗闇の中で耐えるしかなく、とてつもない孤独感に襲われた。死ぬ時は人は独りなのだと言う事を、平岡は身を持って感じた。
孤独と激痛が支配する暗闇。あまりの痛みで、周りで慌ただしく動く医師や看護師の声も耳に届かなくなっていく。
意識が朦朧としてくる。
平岡は孤独と悲しみで押し潰されそうになった。真っ暗なこの世界で、俺は独り死ぬのだ。
しかし、そんな暗闇の中で……、どこかで聞いたことがある音が、…………平岡の耳に届いた。
ず………
ず…………ず…………
ず…。ずー…。
その音は、遠くから徐々に近づいてくる。
ず…。ず………。
ずっ。ず………。
ずっ。ずー……。
ずっ。ずーっ。
ずっ。ずーっ。
音は、ハッキリと聞こえるようになった。
ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ…………。
平岡は、その音を知っていた。
逃げたくても、平岡の体は全く動かない。
平岡は、自分の目を疑った。
目を閉じている筈なのに、目は開かないのに、真っ暗闇で見える筈がないのに。
ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ。…
…彼は、目を閉じた暗闇の世界の中に現れた。遠くから、少しずつ近づいて来る。見える筈が無いのに、彼は確かに見える。暗闇の中をただ一人、片足を引きずりながらこちらへ歩いて来るのだ。
ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ。…………
平岡は震え上がった。
”何故、何故、目を閉じているのにあいつが見えるんだ!?あいつに視覚など、関係ないのか…!?”
青白い顔をして白目を剥き、首と右足があらぬ方向に曲がっている。
”……………安田!!!”
安田はどんどん近づいて来る。
逃げたくても、もうどうしようも無い。体は動かず、目も開かず、声も出ないのだ。
暗闇の中近づいてくるその恐怖を、平岡は何も出来ずにただ怯えるしかなかった。
ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ………
怖い…。
ヤツが…。
ヤツが、すぐ目の前まで来た…。
青白い顔をして白目を剥き…。
首と右足があらぬ方向に曲がっている…。
ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ…。
来るな…。
来るな…。
誰か…。
たすけて…。
ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ。ずーっ。ずっ。
安田は、平岡の前まで来ると、ピタッと足を止め、こう呟いた。
「………バスが…来ま…すよ……ひ…ら…おか……さ…ん………。」
…逃げられない。
…もう、逃げられない。
…俺は……俺は死ぬ……?
…………死ぬのか……?
………死…………ぬ………?
…………死…………………。
恐怖と絶望が平岡にとどめを刺したようだ。
徐々に気が遠くなっていく平岡。
薄らいでいく意識の中で、ニタリと不気味に笑う安田の顔を、平岡は見た。
目を閉じた暗闇の世界。
その暗闇の彼方から、小さな光が見え始めた。
弱い朧げな光を不気味に放ちながら、少しずつ、じわり、じわりと近づいてくる。
それは、赤いバス。
時刻は午前2時ちょうど。
安田は呟いた。
「………定刻…どお…り…。」
終わり
読んでくださった皆様、誠にありがとうございました。
最近小説を書き始めました。今作は、私が初めて完成まで辿り着いたお話しです。文章を自ら創り上げる楽しさ、そして文章を創る難しさに一喜一憂しながら書きました。
なにぶん小説初心者ですので、誤字脱字、たどたどしい文章など、沢山あったかと存じます。読みにくい小説にお付き合い頂き、深く感謝致します。
本業の傍ら、合間を縫っての執筆ですので、次回作がいつ書き上がるかは分かりませんが、既に構想は出来ております。次回作も読んで頂ければ幸いです。
あとがきついでに、少しだけ語らせて下さい。ご迷惑でなければ、筆者の独り言にお付き合い頂けると嬉しいです。
私は子供の頃はとても怖がりで、毎日毎日、夜が来るのが怖いような臆病な子供でした。
怖くて眠れない夜なんてしょっちゅうで、夜中に目が覚めてしまうと最後、朝まで眠れずに怖くて震えながら布団の中で過ごしたものです。
そんな臆病者であったから、日が昇り朝を迎える度に生還した気分になった事を覚えています。作中の、朝を迎えた平岡の「英雄気取りで起き上がる」的なフレーズは、そんな所から来たのかもしれません。
また、そんな子供の頃に、夜中布団の中で恐怖に耐えていると、やはり不思議な音を聞いたりもしました。
私が寝ていた部屋のドア。勿論、就寝時は閉めてある。そのドアの向こうは玄関で、更にその向こうの台所まで2〜3m程の短い廊下があったのですが、その廊下をゆっくりパタパタと歩く足音を聞いたのです。
「ドアの向こうから足音がする。」と、母親に訴えましたが、母親にバカにされた記憶があります。(笑)
その足音が本当に心霊現象だったのか、子供が恐怖の余りに生み出した白日夢だったのかは、今となっては定かではありませんが、でもまあ、子供の妄想だったのでしょう。
安田の足音は、私の少年時代の体験を思い出して書いた訳ではなかったのですが、書き終えた今思うと、私の潜在意識に眠っていた「恐怖」が生み出したのかもしれませんね。
それから時は経ち、大人になり夜が大好きになりました。夜ふかしも毎日のようにしました。
ただ、大人になってから一度だけ不可思議な夢を見たのです。
そう、バスの夢。
今回書いたこのお話しは勿論フィクションですが、ある日私は深酒をして眠った夜、夢の中でバスに乗りました。作中の「同級生が運転手」とか、「安田」は作り話ですが、私が乗った夢の中のバスは乗ってはいけないバスだったのかもしれません。
夢の中で私は、平岡と同じように運転席のすぐ後ろに座りました。平岡の「このバス、どこへ行くんだ?」と言う台詞や、運転手の「どこへ行くんだろうねえ。」と言う台詞。そして真っ赤に染まるバスの車内。このあたりは全て、私の見た夢から引用しています。
あ、私は失禁はしていませんよ念の為。(笑)
その夢を見て夜中に目が覚めたのですが、「今のは、お迎えだったのか?」と鳥肌を立てた記憶があります。
だが、所詮夢です。
そんなバスは存在しないし、私は大人になってからは幽霊や霊界なんてあまり信じていないし、子供の頃ほど怖くもありません。
所詮夢ですが、それほど私の見た夢は生々しかったのです。
繰り返し言いますが、私は幽霊や霊界は信じていません。ましてや霊感などというものは持ってはおらず、そういった類のものが見えたりする人でもありません。この作品を書くまではオカルトには興味が無かったですし。
信じてはいませんが、あの夢で乗ったバスが本当にお迎えだったのかどうかは、私が本当に死期を迎えた時に判明するかなあと思っています。
お迎えが本当なら、出来れば死ぬ時くらいはバスではなく豪華客船とかに乗って、シャンパンを片手に三途の川を渡りたいものですねえ。
生きてる時には、そんな贅沢は私の経済力では無理ですから、せめて死ぬ時くらいは、ねえ。(笑)
ここまでお付き合い頂いた皆様。重ね重ね深く感謝致します。ありがとうございました。