肆 緑光(リョクコウ)
あたしは、大声を上げてベッドから飛び起きた。
肩で荒く呼吸をしていて、パジャマの下には全身にびっしりと汗をかいている。下着も同様だ。。
八雲の持っていた刀が、あたしの胸を貫く…。パジャマの上から、その場所を見下ろす。その途端に再び吐き気をもよおして、あたしは口を押さえ、ベッドから降りると部屋を出て、トイレに駆け込んだ。便器にすがりつくように、胃の中の物をひとしきり吐き出す。
ドンドンと、トイレのドアを叩く音が聞こえる。
「比女ちゃん、どうしたの~?」
それは、お姉ちゃんの声だった。あたしの異変に気が付いて目が覚めたのだろう。あたしは相変わらず肩で息をしながら、呟いた。
「な…なんでもない…。ちょっと気分悪くなっただけ」
「なんか、叫び声も聞こえたよ?」
「うん、夢見が悪くて」
あたしが小さく呟く。
「体調悪いなら、明日学校お休みしてもいいのよ」
ドアの向こう側から、お姉ちゃんの心配そうな声が聞こえたが、あたしはとりあえず強がって見せた。
「大丈夫…。朝には治ってると思うから」
便器に手を付いて立ち上がる。
「…だったら、いいけど。無理しちゃダメよ」
お姉ちゃんの足音が遠ざかってゆき、ドアがばたんと閉まる音が聞こえた。あたしはそれを耳で確認した後、ゆっくりとトイレを出て、一階の洗面所へと向かう。コップを手に取り、蛇口から水を出してすくい、がらがらと口を濯いで吐き出す。
タオルで口を拭きながら、あたしはふっと目の前の鏡を見た。そして、写る自分の姿を見て仰天する。
…左肩の辺りに、うっすらと赤色の鈍い光が見えた。それはあたしの左肩を覆うようにして揺らめいている。
「なに、これ……」
あたしはその光に手を伸ばし、虫を追い払うかのように手を振った。しかし、鏡に映るその光は、その場所にとどまり続けている。ゆっくりと視線をずらし、左肩を直視すると、確かにそこにはほのかに赤い光が宿っていた。
頭の中に、夕方に言っていた八雲の言葉が響く。
"あんまり深入りするなよ。そういったオカルトな噂は、大概変な裏があるからな。"
これが、その"裏"なのだろうか。すなわちこの噂には、何らかの超常現象の要因があった…?
しかし、この歳になるまで幽霊とか無縁で来たのに、いきなりこのような事が起きるものだろうか。そして、この噂を実行した子たちとは明らかに違う、このあたしの経験はどういう説明がつく?
あたしの身体を刀で貫いた時の八雲の顔が脳裏を過ぎる。歓喜の気持ちを素直に表情に出した、あの八雲の顔。あたしは、頭を大きく振り、その記憶を打ち払おうとする。
あれが八雲の訳がない。八雲はえっちで、バカで、乱暴だけど、あたしにはすごく優しいから。ケンカをしても、必ず最初に謝ってくるのは八雲だもん。
だから、あれは八雲じゃない!
あたしは肩の赤い光を気にしつつ洗面所の照明を消して、自室へ戻った。今のところ、ちょっと左肩が重く感じるだけで、赤い光にそれ以上の害はないように思うけど、あたしにはどうしようもすることが出来ない。後ろ手でドアを閉め、大きく深呼吸をする。
ベッドにのそりと上り、横になろうとしたとき、机の上の緑色の光に気付く。四つん這いでベッドの上を移動し、机の上の光を覘いた。
淡い光を灯していたのは、亡きおばあちゃんの形見であるあの竹櫛だった。それは、現在あたしの左肩に灯る赤い光よりも、確実に強い光だ。あたしは、その光に惹かれるように右手を伸ばす。
指先が竹櫛に触れ、全身を弱い電流が貫いたかのような感覚がする。あたしは小さく呻いて、身体を震わせた。
"八雲、正面、来るよ!"
"おう!"
頭の中に、あたしと八雲であろう声のの短い会話が響いた。それはすぐに消えてしまったが、何故か懐かしい感じがする。
「なんなの、今の?」
呟いて自問自答するが、当然のことながらその答えが分かろうはずがない。
緑色の光を放つ竹櫛を右手に取る。すると、左肩の赤い光が揺らいで、一瞬小さくなったように見えた。あたしはその櫛を、左肩の赤い光に当ててみる。
パァン!
部屋の中に、まるでガラスが割れるような音が鳴った。その音と共に、赤い光は消えてなくなる。
「…消え…た?」
更に自問自答。まるで、赤い光が櫛の光に負けて消失したような…。その消失と同時に、左肩の重さも消える。
結局の所、なぜこんな現象が起きるのかが分からない。でも、夢の件といい、夕方の八雲の台詞といい、八雲がキーになっている気はする。
あたしは汗で濡れたパジャマと下着を脱いで、新しいパジャマをクローゼットから取り出し、着替えた。そして枕の下からベレー帽を取り出し、ベッドの下に放り投げた。あんな夢、二度と見るのはご免被るからだ。竹串を耳の後ろの髪に挿し、ベッドに横になる。
「明日、八雲に聞いてみよう…」
夢の世界に入る直前の、あたしの台詞だった。
翌朝、目覚ましが鳴る前にあたしはベッドから起きあがった。
当然、あまり寝られなかったのが理由だ。あの後も何度も目が覚め、結局眠ったのは総計して二時間ほどだろうか。
あたしは目をこすりながら一階へ降りてきて、キッチンにいるお母さんに挨拶をした。
「おはよう、お母さん」
「おはよう…って、どうしたのよ、その顔!」
振り返ったお母さんの目が丸くなる。そんなに、あたしは酷い顔をしてるんだろうか。
「顔…って?」
聞き返すと、お母さんはつかつかと近寄ってきてあたしの額に手を当てる。
「熱はない…ようね。酷いってもんじゃないわよ。目の下にクマがあるし、顔色は真っ青だし!」
「うん、ちょっと、眠れなくて。でも、体調が悪いわけじゃないから」
あたしは食卓の上に置いてあったマグカップに、牛乳を注いで一気に飲み干した。
「何だったら、今日休んでもいいのよ?」
「大丈夫。もうすぐ八雲も来るだろうし…行くよ、学校」
「そう、でも無理したらダメよ」
昨晩のお姉ちゃんと、ほぼ同じ台詞をお母さんは言い、コンロの前に戻っていった。あたしは、顔を洗うために洗面所に向かう。そして改めて鏡で自分の顔を見て、あまりの酷さに空笑いをしてしまう。
生まれてこの方、こんな酷い顔を自分で見たことはなかった。それほどに昨晩の夢がショックだったのだろうか。後ろ髪に挿してある竹櫛からは、相変わらず緑色の光…オーラとでも呼ぶのだろうか、それが優しく立ち上っていた。あたしは櫛を一旦髪から外し、ピンで前髪を留めると顔を湿らせ、洗顔フォームで洗う。そして両手で水をすくって、泡を洗い流した。
「おはようございます」
玄関のドアが開く音が鳴る。八雲が迎えに来たのだろう。ヘルメットを置く音と、彼が玄関に腰を下ろした音が小さく聞こえた。あたしはとりあえず無視しておいて、歯を磨き始める。
玄関から、お母さんと八雲が会話しているようだ。小さくて聞き取れないけど、その会話が終わると、廊下をどしどしと歩く足音が近づいてきた。
「比女、大丈夫か?」
八雲が洗面所に顔を出した。あたしは視線を鏡からずらさずに歯を磨きながら八雲の問いに返す。
「らいじょうぶ~。もうひょいまっへへ」
「…そうか…、お前が大丈夫って言うならいいが…」
横顔からあたしの顔の酷さを感じたのだろう。ちらりと横目で見ると、八雲の眉毛がハの字になっている。
口を濯ぎ、ポーチからファンデーションを取り出し、顔に薄く塗った。普段化粧はしないのだけれど、さすがに目の下のクマだけは誤魔化したかった。前髪のピンを外し、次は竹櫛で髪を梳かす。それを、八雲は黙って見つめていた。
「あんまりじろじろ見ないでよ、恥ずかしいじゃない」
「ああ、すまん」
言いながら、視線を逸らした。顔がちょっと赤くなっていたのは何故だろう。
「そういえば、あの噂、試したのか」
その台詞に、あたしはぴくりとちょっとだけ動きを止めた。
「……試した。後で話すよ」
素っ気なく返事をし、髪を結って竹櫛を挿した。その時、八雲の表情が少しだけ硬くなる。
…このタイミング、八雲にも櫛のオーラが見えているのかもしれない。現にあたしが髪に竹櫛を挿した途端に、櫛のオーラが強くなったのだから。
あたしは八雲の横をすり抜け、二階に上がって部屋で制服に着替える。鞄を担ぎ、すぐに来た道を戻る。
「お待たせ、いこっか」
相変わらず洗面所の脇に待機していた八雲に声を掛けた。
「おう、メシ食わないのか?」
「ん~、食欲あんまりないかも。でも、牛乳飲んだから大丈夫」
胸を張って強がる。
「何が大丈夫なのか意味分からんが…まあ、行くか」
あたしは、先陣を切って玄関へ歩き出し、その後ろを八雲が追う。キッチンからお母さんが顔を出す。
「ちょっとくらいは食べていきなさい。めずらしくまだ時間あるでしょ。八雲くんの分も用意したのに…」
「いや、オレは…」
「いいじゃないの。ウチのバカ娘を構ってくれるお礼だと思って頂戴。たまにはいいでしょう?」
…バカ娘って、酷くない?お母さんを冷ややかに睨むと、八雲の手を握り、引いてダイニングへ入った。食卓の上には、香ばしく焼けた食パンが三枚と、目玉焼き、ジャムとマーガリン、牛乳が置いてあった。
あたしは自分のいつも座る席に腰を下ろすと、正面、いつもお姉ちゃんが座る席を指さした。
「…座れば?」
「あ、ああ。じゃあ、遠慮なく頂きます、おばさん」
八雲がお母さんに頭を下げ、その席に着いた。
「お母さん、もう仕事行くから。お皿シンクに浸けておいてね。玄関の鍵も忘れずに」
エプロンを取りながら、お母さんが言う。
「わかってるよ。いってらっしゃい」
「はいはい、いってきます」
お母さんの姿が、ダイニングから消えた。
あたしは食パンにジャムを塗りながら、ちらりと八雲の顔を見た。八雲の視線は、やはりあたしの髪に挿した竹櫛に向いている。
「八雲、単刀直輸入に聞くけどさ…」
再びパンに視線を落として、あたしは呟いた。
「単刀直入な。なんだよ?」
きちんと突っ込みを返してくるところは評価するし、いつもならあたしが逆ギレるところだけど、今はそんな場合じゃない。
「あたしの竹櫛に、何か見えるの?もしかして、緑色の光だったりする?」
「…っ!?」
八雲の表情が、今までにないほどに強ばった。