弐 邂逅(カイコウ)
目を開けると、そこは見渡す限りの草原だった。遠くに山脈が連なり、頂上付近にはうっすらとではあるが白く雪を纏っている。木々の葉は真っ赤に色付き、季節が秋から冬に変わろうとしていることを教えてくれていた。
あたしはその風景に何か懐かしさを感じ、思わず涙腺が緩みそうになった。だけど、ほとんど新塔京から出たことのないあたしにとって、この風景に見覚えがあるはずはない。
そんな気分で草原の真ん中で一人たたずみながら、少し冷たい風に身を吹かれてみる。風に乗って流れてくる青草の薫りが鼻腔を擽った。
ふと見ると、その草原の先に、一軒の小さな小屋があった。小川のほとりに建つその小屋には衣服が干してあって、明らかに人が住んでいることを表していた。
これが八雲の見ている夢なんだろうか。きちんとあの噂話が効果を発揮しているのならば、この風景こそが八雲の夢のはず。
でも、なんだろうこの雰囲気。少なくとも現代の日本ではない。二〇六二年の日本では、こんなに広々とした草原は存在しないはずだ。その小屋を見る限り、木造…校倉造りだ。ということは、ここは古事記や日本書紀に見られる、神話時代なのだろうか。
しかし、八雲がこんな繊細で美しい風景の夢を見てるとは意外だった。あたしなら兎も角、八雲はがさつで乱暴で、まあ、優しいときもあるけど、繊細とはほど遠い性格なのに。もしかしたら、心の中はこんな感じなんだろうか。あたしに見せたことのない心の中は。
そんなことをぼんやりと考えながら風景を見渡していると、その小屋の扉がゆっくりと開いた。そして建物の中から、一人の美しい女性が手に桶を持って出てくる。質素な長衣を着てはいるが、何処と無く高貴な雰囲気を醸し出す女性だ。遠目でしか見えないが、桶の中には衣服が入っていて、恐らく小川で洗濯でもするつもりなのだろう。
その女性は視線を上げ、離れたところに立っているあたしに"気が付いた"。
……気が付いた?
なんで、八雲の夢を覘いていると思われるあたしに気が付くのだろう。でも、周囲を見る限り、今この草原にはあたしと、その女性しか存在していない。ということは、これは八雲の夢ではない…?
女性は小川の畔に桶を置くと、あたしに駆け寄ってくる。そして、肩で息をしながら、あたしに向かって微笑んだ。
「お久しぶりですね、比女さん!」
「は、はい…?」
ずいぶんと間抜けな返事を返してしまった。あたしのその素振りを見て、女性は少し表情を曇らせる。
「そう…でしたね。今の貴女に、わたしのことは…」
でも、すぐににこやかな表情に戻る。
「それでも構いませんわ。もう、お会い出来ないと思っておりました。とても嬉しく思います」
話を聞く限り、この女性はあたしを知っている?でも、あたしにその覚えはない。しかし、見れば見るほどにあたしに瓜二つな女性だ。
「ここは…夢の中、ですよね…。そして貴女は、どなた…」
「はい、夢の中です。比女さんが見ている夢であり、同時に八雲さんが見ている夢の中でもあります。眠るときに、何か神術的な呪いをしてから、床に入られたのではないですか。その呪いに、貴女の髪に挿す"湯津爪櫛"が反応して、この世界に誘われたのですわ」
あたしは自分の髪に手を添えると、祖母の形見の竹櫛が挿さっていた。寝るときに、必ず外して机の上に置くのに。でも、その櫛の名前には覚えがある。最近読んでいる古事記に、その名前が登場していた。
「湯津爪櫛…素戔嗚尊が稲田姫の姿を変えて八岐大蛇と戦ったという…」
その呟きに、女性は頷いた。
「そうです。その竹櫛は貴女の物であり、わたしでもあります」
わたしでもある…ということは、あたしの目の前にいる女性、この人は稲田姫と言うことになるのかな。
「間もなく夫も狩りから帰ってきます。本来なら我が家にお迎えして、夫とも会って頂きたかったのですが…どうやら、それほど時はないようです」
稲田姫が空を見上げる。
そうか、これがあたしと八雲の共有夢だというのなら……八雲は今日、大学へ行くと言っていた。バイトが終わって夜中に自宅へ戻ったとしても、ほとんど睡眠時間はないに違いない。八雲が目覚めようとしている、そういうことなのだろう。
稲田姫が目を伏せ、無理をするように微笑む。
「お別れするのは残念ですが、比女さんが再び、わたしと共に歩んで下さる時が来るまで、耐えることにいたしますわ」
「え…、それって、どういう…」
「言葉通りの意味です。おそらく貴女は、目が覚めた後にこの夢の事を覚えていないでしょう。ですが、わたしはずっとお待ちしています。比女さんは、わたしなのだから」
ちょ、ちょっと待って。この人、今なんて言った?あたしが稲田姫?稲田姫があたし?これは、何かの禅問答なの?でも、この例え難い懐かしい感じ、あたしは何かでここに関わった事がある…?
目の前の空間が揺らぎ始めた。八雲が目を覚ましつつある。あたしは、遠ざかってゆく稲田姫に目一杯手を伸ばした。
「稲田姫、もう少し…!」
稲田姫は、あたしに向かって叫ぶ。
「比女さん、どうしようもなく困ったときは、詠いなさい!わたしと、夫が共に詠んだ歌を!間もなくやってくる、次の試練の……!」
その声が暗闇に掻き消される。
稲田姫が、素戔嗚尊と共に詠んだ歌。それは、知る限りひとつしかない。あたしの愛する人の名前を持つ、日本最古の和歌…。
暗闇の中で、あたしはその歌を口ずさんだ。
「八雲立つ…出雲八重垣、妻籠みに…八重垣造る、其の八重垣を…」
毎朝恒例の、目覚まし時計のアラームが聞こえる。
あたしは目覚まし時計をむずっと掴むと、ベッドの上から投げ落とす。それはフローリングの床に弾み、バッテリーを落として静かになった。
ゆっくり上半身を起こし、寝ぼけた目で床に投げた時計を見る。動きを止めているその針は、六時五分を指していた。どうやら、六時ジャストに鳴る一回目のアラームは無視したらしい。
大あくびをすると、ベッドから降りて机の上の竹櫛を持ち、髪に挿した。そしてその足で、部屋を出て、一階の洗面所へと階段を下りてゆく。
普段なら、既に玄関で八雲があたしを待ちわびているはずだけど、今日はお迎えはナシだ。ちょっと寂しい。
洗面所で身だしなみを整えると、ダイニングキッチンに入っていく。そこにはお母さんとお姉ちゃんが朝食を取っていた。
「おはよう~」
あたしが挨拶すると、お母さんがちょっと毒を含みながら言う。
「おはよう。ようやく一人で起きてきたわね」
「おはよう、比女ちゃん。ご飯食べなさい~」
お姉ちゃんの言葉だ。食卓には、あたしの分の食パン二枚と目玉焼き、牛乳が置いてある。あたしは椅子に座ると、何もつけずにもそもそとパンをかじる。
「で、比女ちゃん。昨日の噂話は上手くいったのぉ?」
お姉ちゃんが、耳打ちをしてきた。
目覚めきってない頭を、無理矢理フル回転させたけど、イマイチ靄がかかっていて夢の内容は思い出せなかった。
「う~ん…良く覚えてない…。やっぱり、あの噂はデマなのかなぁ」
「まあ、噂なんてそんなものよ。ほら、早く食べちゃいなさい。遅刻するわよ」
あれ、なんでお母さんが知ってるんだろう。お姉ちゃんが話したんだろうか。あたしは目玉焼きに醤油をかけて口の中にねじ込み、もぐもぐと動かした。
「今夜も試してみようかなぁ。八雲を一三〇匹くらいまで数えたんだけど、もっとたくさん数えないといけないのかな」
その言葉に、お母さんが反応して笑った。
「なによ、その数え方。一三〇匹だなんて、八雲くんに失礼だわ」
「いいのよ、八雲なんて"匹"で。まるで動物みたいなんだから」
二枚目のパンに取り掛かる。今度はバターナイフで、マーマレードジャムを塗りたくる。
「ほんと、失礼ねぇ…。八雲くんも、なんでこんな娘を好きになったのかしら。我が娘ながら、ガサツでおバカで、運動しか取り柄がないのに…」
「八雲に聞いてみれば?」
牛乳を喉に流し込み、手を合わせて席を立つ。
「気をつけて行きなさいよ。電車で登校するのは久しぶりなんだから」
「わかってるわよぅ」
ダイニングキッチンを出ながら、お母さんに返事をする。確かに、新学期に入ってからはずっと八雲が送り迎えしてくれていたので、電車とバスで通学するのはホームステイの期間を含めると実に一ヶ月ぶりくらいだ。
あたしは部屋に戻り、制服に着替えるとお財布の中を確認した。ちょっとだけ心許ない。ポケットにお財布を突っ込み、鞄を持って再びダイニングキッチンへ向かう。
「お母さん、交通費ちょうだい!」
ドアから顔だけを出して、声を掛ける。
「机の上に置いてあるでしょ。持って行きなさい」
見ると、千円札が二枚置いてあった。そのお札を掴み、折りたたんでお財布の中に入れる。
「いってきま~す」
言って、あたしは家を出た。
学校に着き、教室に入ると、もうほとんどのクラスメイトが揃っていた。
クラスメイトたちの会話に聞き耳を立てると、あの噂話のネタがかなり飛び交っている。あたしは自分の席に座ると、机の横に鞄を掛けて一息ついた。
「おはよう、名椎さん!」
声を掛けてきたのは、噂の出所である相田さんだった。次に続く言葉を予想出来たので、あたしは先手を打って言う。
「夢、見られなかったよ。覚えていないだけかもしれないけど」
「あらら…」
あからさまに残念そうな顔をする相田さん。
「でも、さっき情報収集してきたんだけど、ウチのクラスでもかなり成功してるみたいよ?昨日話した隣のクラスの子も、また同じ夢見たって」
「逆に失敗した子もいるってことでしょ。だったら、あたしが失敗しててもいいよね」
一人で勝手に納得し、首を何度も縦に振る。
「でもね、その隣のクラスの子、見た夢の内容が、前日に見た内容と全く同じだったんだって。そんなことあると思う?彼氏がそんなに性欲旺盛なのか、それとも別の理由があるのか…」
「ふ~ん…。全く同じっておかしいよね。あたし、覚えてる限りでは一〇〇%同じ内容の夢なんて、見たことないよ?」
「それはわたしもなんだけどさ。わたしが試してみようにも、肝心のオトコいないしなぁ」
そう言って、腕を組んでみせる。
へぇ、そうなんだ。相田さんかなり可愛いから、彼氏くらいいると思ってたのに。
「こうなったら、何が何でも、名椎さんに成功してもらわないとね。実験実験!」
「え~…」
…とは言ってみるものの、実はあたしも気になり始めている。オカルトは嫌いだけど、昨晩の夢を思い出せないのが何となく腑に落ちないし、二日連続で同じ夢を見るってことも確かめてみたい。それに、こういう共通の話題を持つことで、相田さんともっと仲良くなれるかも知れない。
「まあ、やってみるけど…あんまり期待しないでよ。あたし、記憶力は皆無に等しいんだから」
「大丈夫!数撃てばいずれ当たるって!」
親指を立て、ウインクする相田さん。それは、あたしにこれを毎日試せって事なのかな?
あたしはわざとらしくため息をつくと、頷いて見せた。