漆黒の美人
緋の勇者ヴァルゴ・サイラスは、目の前に漆黒の妖麗な美人に苛立っていた。
まるで彼が、この漆黒の美人よりも弱いとでも言いたげな態度に心底腹が立ったのだ。
これでも、彼はテュルク公国一と自他共に認めるほどの腕を持つ騎士である。
いつの間にかその髪の色から『緋の勇者』と呼ばれるまでになったが、その二つ名に慢心する事無く精進し続けている。
「俺はこの国を守らねばならない」
その呟きに、漆黒の美人は可憐に小首を傾げた。
「守る? 誰から?」
「お前達、魔物共からだ!」
ヴァルゴの大剣が鋭く空気を切る。
ゴウウゥゥーーーン!
それを紙一重に躱し、漆黒の美人が両手の剣をヴァルゴに向けた。
「ですから、私は魔物ではありません」
左の剣が袈裟懸けに切り落とすが、ヴァルゴはそれを大剣の背で弾き、返す刃で切り上げる。
しかし、またもや漆黒の美人は軽々と躱して右の剣でヴァルゴの胴を鋭く薙ぐ。
ヴァルゴはその剣の速さに翻弄されつつ、バックステップで躱した。
そんな彼を追い、漆黒の美人が身を低くしてヴァルゴの懐に入り込む。
漆黒の美人のほんのり紅い唇に、艶めいた笑みが浮かんだ。
「!」
ヴァルゴはその笑みに大きく目を見開き、突き出された左の剣を躱したが下から切り上げられた右の剣を躱し切れずに鎧を掠められた。
「ちっ」
「私の剣を躱し続けるなんて出来ませんよ」
「ぬかせ…!」
ゴオオゥゥーーーン!
先ほどよりも更に早く、鋭く、ヴァルゴの大剣が漆黒の美人を襲う。
ガキキーーーン!
漆黒の美人が両手の剣をクロスさせてヴァルゴの大剣を受け止め…弾かれた。
胴や心臓ががら空きになり、そこを目掛けてヴァルゴが腰のナイフを2本投げる。
「くっ…」
漆黒の美人の妖麗な顔が初めて焦りによって歪んだ。
しかし、体勢を崩しながらも左に身体を捻って長い漆黒の髪を舞わせながら躱し切り、遠心力を利用してバットを振るかのように両方に持つ剣でヴァルゴの胴を薙ぐ。
それを大剣で受けたヴァルゴは気が付いた。
─力は俺よりも弱い、か…?
試しに大きく一歩踏み出し、漆黒の美人の剣に当たるよう片手で大剣を振るいながら、体当たりを食らわせる。
「うわぁ!」
漆黒の美人は軽々と飛ばされた。
─体重も軽いな。
よくよく観察してみると、最初にこの漆黒の美人の美貌に気を取られて気付けなかったが漆黒の美人は細身で、身長もヴァルゴよりも20センチほど小さいようだった。
着ている鎧もスピード重視であろう軽鎧。
両手にある剣は幅は広く長さも長めで若干重そうに見えるが…ヴァルゴの大剣よりは随分と軽そうである。
そう、女性が装備していてもおかしくない装備だ。
─こいつは女、か…? その割に胸が平たいな。
何とも女性に対してであれば失礼極まりない事を思いつつ、ヴァルゴは漆黒の美人の剣を大剣で受け止めた。
そして、鍔迫り合いをしながら漆黒の美人が嬉しそうな笑みを浮かべる。
「…今までここまで梃子摺った相手はいませんでした」
「そうか」
ヒュッ
漆黒の美人が素早く後ろに下がり、一閃。
鋭い風切り音がヴァルゴの首に向かって放たれたが、それを身を屈めて躱し、ヴァルゴは右手に大剣を持って漆黒の美人との間合いを一気に詰め、左手で漆黒の美人の腰を攫った。
「なっ! なにをする!」
「あんたみたいな美人が剣を持つ必要なんてあるのか?」
─鎧の上からじゃやっぱり分からんなぁ。
そしてそのまま体重を乗せて漆黒の美人を地面に叩き付ける!
「おらぁっ!!」
ドゴォン!
「か、はぁ…!」
受身を取る事も出来ずに、漆黒の美人は背中から地面が窪むほど叩き付けられ、バウンドをしながら苦痛に顔を歪めて口から血を吐き出した。
ヴァルゴはそんな漆黒の美人に追い討ちを掛けるかのように右手の大剣を振り上げ、その身体に向かって叩き付けた。
しかし─
ガキンッ
漆黒の美人は痛みを感じていないのかと疑いたくなるほど素早く身を翻してそれを躱し、膝を付いたまま右の剣を逆手に取ってヴァルゴの左足目掛けて薙いだ。
反射的にバックステップで避けるが…。
「くっ」
微かに掠ったが、動ける。
視界の隅に赤が見えるが気にせずに、ヴァルゴは一歩踏み込んで漆黒の美人に大剣を叩き込んだ。
ガンッ
大剣が地面に食い込む。
漆黒の美人はそのまま転がって大剣を躱し、間合いを取る。
「…ふぅぅ…」
口元の血を乱暴に左手の甲で拭いながら細く息を吐き出した漆黒の美人は、ゆっくりと立ち上がり、両手に持つ剣の切っ先を下げて妖艶な笑みを浮かべながら口を開いた。
その間にヴァルゴは地面に食い込んだ大剣を抜き、隙もなく構える。
「貴方、本当に人間にしておくには惜しい逸材ですよね…。私と番う(・・)気はありませんか?」
は?
つがう?
これでもかと言わんばかりに碧の双眸を大きく見開き、ヴァルゴは漆黒の美人を凝視してしまった。
そんなヴァルゴに妖艶な笑みを向けたまま、クスクスと笑う。
「私の名はファルフォッティーと申します」
「ファ…?」
不用意に名前を叫びそうになったヴァルゴは慌てて左手で自らの口を押さえた。
そんな彼を、漆黒の美人─ファルフォッティーは可笑しそうに見詰めながらクスクスと笑っている。
その視線は柔らかく艶めいていて、先程まであった殺意は霧散してのが分かった。
しかし、魔物や魔族というものは自分よりも弱い者や気に入らない者に真名を呼ばれる事を嫌うと聞いた事があったため、漆黒の美人の名を呼びそうになったが堪えたのだ。
たまに底意地の悪い魔物や魔族がいて、わざと真名を告げて名を呼んだ者を食い殺す者がいる。
そんなヴァルゴの様子に、漆黒の美人は彼が何を考えているのかを読み取ったのか、小首を傾げる。
「私自らが名乗ったのだから、呼んでも構いませんよ?」
「…先程は、弱者の言葉など聞くに値せず、とか、死する者に正体を明かした所で無意味とか、言っていたと思ったが?」
ファルフォッティーの言葉には答えず眉根を寄せて言うヴァルゴに対し、ファルフォッティーは何の躊躇もなく頷いて見せる。
「ええ、言いました。ですが…貴方は強いし、貴方を殺すにはこの脆弱な人型では無理そうですので本体に戻らねばならないでしょうね」
「人型? 本体?」
怪訝そうなヴァルゴの様子に、これまた怪訝そうな表情を浮かべたファルフォッティーは一瞬考えた後、一人で納得して答えた。
「…あぁ…そう言えばちゃんと名乗りませんでしたね。私は魔王四天王が第一席『竜王』ファルフォッティーと申します、以後お見知りおきを。我々竜族は本体の色を纏い人型にもなれるのです。その竜の中でも、私は始祖に連なる古竜種です」
妖艶な笑みを浮かべる漆黒の美人に対し、ヴァルゴは顔を引き攣らせていた。
─り、竜王ファルフォッティーって…四天王最強の、か…? あ、それで魔物でも魔族でもないって答えていたのか。
竜は魔ではなく、一個の種族─『竜族』だ。
個体別に見れば地竜、水竜、火竜、風竜がいるが、古竜種はそれ以外にも存在する。
古竜種というのは読んで字の如くいにしえの竜の血を引く、竜族の中でも格上の存在だ。
それも、始祖の血を引くと言うのならば王族か、それに連なる者だろう。
ファルフォッティーは自身が古竜種と答えた。
その漆黒の容姿から地竜か…考えたくはないが…始祖と同じ、竜種最強と言われている黒竜のどちらかだろう。
「それで、貴方の名前はなんと?」
ヴァルゴの心の内など気に留める事無く、ファルフォッティーが両手の剣を腰の鞘に収めてわくわくした様子で問い掛けて来た。
その様子から、すでにファルフォッティーが敵意も害意もないのが分かる。
ヴァルゴは諦め気味に大剣を肩に担ぎ上げ、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「…テュルク公国第一騎士団長ヴァルゴだ」
姓を名乗らないのは支配されないための予防だ。
漆黒の美人が本当に竜族であると確認された訳ではないし、もしも竜族ではなく魔族であれば名を取られ、支配される可能性がある。
ファルフォッティーもそれに気付いて少し悲しげな表情を浮かべたが、気を取り直して濡れたような漆黒の瞳をヴァルゴに向け、口の中でヴァルゴの名前を愛しげにも見える表情で転がした。
「ヴァルゴ…ヴァルゴ、ね…」
そして、
そして─
にぃぃっと残虐な笑みを浮かべる。
その笑みに一瞬固まり、ヴァルゴは慌てて大剣を構えた。
そんな彼の目の前で漆黒の美人の姿が歪む。
「私と番う(・・)のなら、殺さないで一生可愛がって差し上げますよ」
「ーっ!!」
姿形は美しい存在だったが、やはり人間ではないその思考にヴァルゴは顔を顰めた。
そして、思わず根本的な問題を叫んでしまった。
「そもそも俺は人間で、あんたは竜族なんだろ?! 混血児を産むつもりか! ついでにあんたが女なのか男なのかも分からんぞ!」
ヴァルゴの叫びに、ファルフォッティーから歪みが消え、その場に5メートルほどの漆黒の優美な竜が姿を現した。
背中にはこうもりの皮膜を思わせる翼、頭は少し小さめだが鋭い牙が口から見え、ほっそりとしていながら強靭な筋肉を持つ四肢にはこれまた鋭い爪が生えている。
その姿は空を飛ぶ事に適した体型に見えた。
しかし、ヴァルゴは何度か竜と戦った事があるのだが、目の前に佇む優美な漆黒の竜は今まで見た中でも小柄に見える。
─これが、『竜王』?
確かに今まで対峙してきた竜よりも強い気配を感じるのだが、絶望を感じない程度の気配だった。
命の危機を感じられないくらいの強さ、と言えば良いのだろうか…?
今まで対峙して来た竜より少しばかり強い程度、なのだろうか?
それとも、気配を抑えているだけという事も考えられるが…。
僅かに考えつつ、ヴァルゴは注意深く漆黒の優美な竜に変化したファルフォッティーを観察する。
そんな彼に対し、漆黒の竜がゆっくりと口を開いた。
『竜族同士では妊娠する率が下がるので、強い他族と番う竜族は多いのです。それに、雌竜は長い一生涯において子を為すのは精々4,5人が良い方ですが、雄竜は他族であれば比較的容易に孕ませる事が出来ます』
「つまり、よく見る竜は雄竜が他族に孕ませた混血なのか?」
『そうでしょうね。竜族の血を引く全ての者が竜になる訳ではありませんが。竜族が他族に孕ませる場合、竜族は竜族として、他族は他族として生まれて来ます。なので、混血児と言っても混ざった姿ではありません。遠い未来にその子供に先祖返りとして竜が生まれる程度です』
「ふーん」
思わず話を聞いて納得してしまったが、ヴァルゴは首を傾げる。
「─じゃあ、何故、本体である竜に変化する必要があったんだ? それに…あんた、人型は綺麗な顔をしていたけど女って感じじゃなかったんだが…それに関して何かあるのか?」
その言葉に漆黒の竜は獰猛な笑みを浮かべた。
本人は微笑んでいるつもりなようだが…喰われそうで怖い。
『本気で相手をして頂こうと思い本体に戻りました。それから─私は両性具有なので、性別というものはありません。なので、相手によって男性化も女性化も出来るので、孕ませる事も孕む事も可能です』
あっさりと答えた漆黒の竜の言葉にヴァルゴは顔を引き攣らせた。
─おいおい、マジかよ…。
その表情と沈黙に、ファルフォッティーが漆黒の竜の姿で小首を傾げつつ口を開く。
『古竜は皆両性具有なのです。ただ、人型の容姿は男性的な者もいれば女性的な者もおりますし、本体の大きさも私よりも大きな固体も強い固体も多数おります』
「…それなのにあんたが『竜王』なのか?」
『あぁ…竜族の王は他の方ですよ。私は魔王四天王の中で二つ名が竜王なだけです』
「竜族を裏切って魔王軍にいるのか?」
彼は己が忠誠を誓った主がいる騎士だ。
裏切る者など言語道断。
問答無用で切り捨てるのみ。
そんな彼の思いに気付いているのかいないのか、眉根を寄せてぼそりと尋ねたヴァルゴに対して、ファルフォッティーはゆっくりと漆黒の頭を振る。
『いいえ? 我々竜族にも里はありますが成体になれば独り立ちします。そのまま里に残って一生を終える者もいれば、他に縄張りを持ちそこに住み着く者もおりますし、他族と共に生きる者もいれば、人間に紛れて生きる者もいます。そして私我が王の願いのために魔王軍に入りました。その事は魔王様も承知しております』
「…我が王って…竜王の事か?」
『ええ。…この世界の問題を解決するためには、魔王様の力が必要です。そして─』
そこで一旦言葉を切ったファルフォッティーは、ゆっくり視線を空へ向けて低く唸る。
グルル…
『貴方と、他の人間の力も必要になります』
「どういう事だ?」
『…時間切れです。もう少しお相手をしたかったのですが…貴方にはここで退散して頂きますね』
そう言うなり、ファルフォッティーはヴァルゴに視線を向けて口を大きく開け、力を込め出す。
チリチリ…
かつて竜と対峙した時に聞いた竜が灼熱の炎を吐く時に発生する音を耳が拾った瞬間、ヴァルゴは大きく目を見開いて腰から下げていた袋から青と黒い石を取り出し、両手を前に突き出して素早く詠唱を唱えた。
「クソッ! 我、水と大地の加護を求む。我を迫り来る脅威より守り給え!」
二つの石から出現した結界に、漆黒の竜から放たれた白い灼熱の炎がぶつかる。
「ぐ、あ…ぁぁ…!」
二つの結界でも防ぎ切れない高温と衝撃に耐え切れず、ヴァルゴは片膝を付いた。
ジュゥゥ…
「ぐ、ぅ…」
石を掴んでいる両手から煙が上がり始める。
漆黒の竜から放たれた灼熱の炎が結界を突き抜け、ヴァルゴの手を焼いているのだ。
そして、数秒とも、数分とも感じられた灼熱の炎が止まった。
「あ…が…ぁ…」
ヴァルゴは自分の両手を見た。
結界を作り出した二つの石を握り締めていたその手は無残に焼け焦げ、肉が焼け爛れた匂いが当たりに充満していた。
「大丈夫ですか?」
不意に届いた初めて聞く声に、ヴァルゴは肉を焼かれた痛みに耐えながら顔を上げた。
白の世界の中で彼の目に映ったのは、彼を守るように立ち、古びた杖をファルフォッティーに向けている真青の長い髪をした白の様な淡い紫のローブ姿の女性の後ろ姿。
未だに灼熱の炎を吐き続けているファルフォッティーの灼熱の炎の高温も衝撃も、その女が張り巡らせたらしい巨大で強力な結界で完璧に防ぎ切っている。
しかし、ゆらゆらと輪郭が揺れて見えるのはこの高温の中にいるからだろうか?
「だれ、だ…?」
「話は後で。─竜王の系譜たる古竜よ、そろそろ炎を止めて下さいませんか?」
平然と巨大で強力な結界を張り続けてそう言う青い髪の女に、ファルフォッティーが言われるがままに灼熱の炎を吐くのを止めた。
そして、ゆっくりと瞬いてから頭を微かに振り、口の中で何かを呟いてから彼女を見る。
『これは賢者殿、ようやくお出ましですか』
「隠し身とは言えども、私が出なければならない状況を作ったのは貴方ではないですか。手加減はされていたようですが、私の代役の少年では貴方の炎を防ぐ事は無理でしたし、何よりも、今、この方を死なせる訳には参りませんもの」
『…我が王が何度も呼んでいたのに狭間より出ていらっしゃらない貴女が悪いのです。それに、私にはヴァルゴを死なせる気は更々ありませんよ。漸く見つけた私の番いですから』
その返答に、真青の髪の女はちらりと肩越しにヴァルゴの方に視線を向けた。
その双眸は深紅。
彼の緋の髪よりもずっと深い赤い色をしていた。
その色に軽く驚きつつ、ヴァルゴは焼け爛れている両手の痛みに歯を食い縛る。
青い髪の女はそっと吐息を洩らすと、ファルフォッティーに背を向け、ヴァルゴに近付いて行った。
無防備ににも見えるその姿にヴァルゴは一瞬痛みを忘れて立ち上がろうとした。
「おい、危な…」
「心配は無用です。竜王の系譜の方は既に戦意を収めていらっしゃいます。それよりもその手の火傷と全身の切り傷を治してしまいましょう」
簡単そうに言う真青の髪の女を訝しげに見るヴァルゴだったが、女は優しく微笑むばかりだった。
そして、ゆっくりと細い手をヴァルゴに翳す。
それだけだった。
それだけで、傷が治る痒みが出て、慌てて両手を見たが既に骨まで見えていた両手の重度の火傷は綺麗に治り、全身に負っていた切り傷や魔物による掻き傷も消えていたのだった。