勇者
場所は変わってテュルク公国。
『彼』は巨大な大剣を背中に背負い、小高い丘から遠くに見える敵の陣地を睨み付けていた。
クセのある硬そうな髪を乱暴にひとつに束ねたその髪の色は緋色。
その鋭い切れ長の双眸は鮮やかな碧。
左の頬から顎に掛けて走る醜い傷跡。
立派な体躯に身に着けるは剣を咥えた鷲の紋章が刻まれている鈍い銀色の鎧。
しかし、その鈍い銀色の鎧は頬から流れる血と、返り血によって真っ赤に染め上げられていた。
「…あそこに魔王がいるのか」
その声に応える者はいなかった。
周囲に視線を走らせるが、周りには誰もいない。
敵も、味方も。
あるのは夥しい数の魔物の死骸と、彼と同じ鎧を身に着けた死体だけだった。
彼─ヴァルゴ・サイラスはたった独りきりだった。
ここまで来るまでに立ち塞がる魔物どもは始末したが…同時に、共に来た騎士団の仲間も全て失ってしまった。
「城から脱出したリードは大公一家を守れているのか…?」
己の片腕である青年の名を呟き、ヴァルゴはゆっくりと背後を振り返る。
出て来た時と変わらず、城は煙を上げていた。
魔王軍に攻め込まれ、火を放たれたのだ。
城を出て来る時はまだ無事であった大公一家の顔を思い浮かべ、ヴァルゴはそっと息を吐く。
あのまま逃げ出した所ですぐに追い詰められ殺されてしまうと思い、彼は数十人の部下を連れて大公一家とは逆の方─魔王軍の陣地に向かい、魔物どもを始末していたのだ。
陽動だ。
彼の部下はしっかりとその役目を負い、ひとり…またひとりと命を散らせて逝ってしまった。
ヴァルゴはもう一度息を吐き出す。
─お前達の後を追うのは、魔王を倒してからだ。それまで待て。
散って逝った部下の顔を思い浮かべながら、彼は足を踏み出したのだった。
場所は変わって魔王城、玉座の間。
「なん…だと…? もう一度言ってみろ」
水と地の宝珠が祭られていた洞窟から帰って来たばかりの魔王は、怒りのあまりに全身から凶悪なまでの魔力を迸らせていた。
形の見えない魔力がゆらゆらと魔王の全身を陽炎のように包み込み、その美貌に浮かぶ怒りの形相も相俟ってまるで悪鬼のようだ。
「え…そ、その…」
「もう一度言ってみろと言っているのだ!」
「ひっ」
完全に魔王の力に中てられ、恐怖に顔を引き攣らせている人型の魔性に、玉座に座る魔王の左後方に立つタウルスが落ち着いた声音で問い掛ける。
「テュルク公国をあのまま攻め落とせと命じていた千もの軍勢が全滅したと言ったな? 何者の仕業だ?」
「テュ…テュルク公国の騎士団です。緋の髪の男が指揮していましたし、剣を咥えた鷲の紋章が入っていたので間違いないかと…」
「そうか」
そこで一度言葉を切ったタウルスは魔王をチラ見し、未だに怒りが覚め遣らぬ様子の魔王に内心溜息を吐いてから続けた。
「では敵の残りは分かるか?」
「わたしが最後に見た様子では5、6人でした。しかし、あちらもかなりの重症だったので今も生きているかは…」
「そうか。…どうやらテュルク公国は切り札でもある緋の勇者ヴァルゴを差し向けて来たようだな」
その言葉にようやく魔王は冷静さを取り戻して来たようだ。
考え込むように顎に手を当てて腕を組むその顔や、雰囲気はいつもの冷静沈着な美貌の魔王にしか見えない。
魔王はしばらく考え込んだ後、タウルスにくすんだ紫の双眸を向けて尋ねた。
「四天王はどこにいる?」
「リンダはテュルク公国に作った陣地の結界を物防メインで張り直している最中です。ユエインはこの城におり、陣地に連れて行く兵を選別中ですが…他に何かやらせますか?」
「そうか、いや良い」
「それでは…エルキシャースは逃げた大公一家を追っています。ファルフォッティーは現在緋の勇者ヴァルゴと戦うべく移動中です」
その言葉に頷いて、魔王は玉座から立ち上がり、玉座の階下にいる魔物達に向かってゆっくりと右手を一度だけ振った。
「もうよい、下がれ。己のやるべき事をして参れ」
『はっ』
魔物達はある者は石畳に潜り込むかのように、ある者は宙に掻き消えるかのように、ある者は歩いてと、それぞれの移動方法でその場から姿を消した。
そして、いつもならば魔王とタウルスのみが残るはずなのだが…たった一人…いや、一匹と言えばよいのか? が、残っていた。
「どうした?」
怪訝そうなタウルスの問い掛けに、甲冑を身に纏い、鉄仮面を被った己の首を小脇に抱えた魔族─デュラハンが片膝を付いたまま頭を床に置く。
「我が将エルキシャース様より伝言でございます」
「ふむ? …あぁ…そういえば、デュラハン同士では心話が出来るんだったな」
「左様にございます。…我が将エルキシャース様が大公一家を捕捉いたしました。しかし、問題が発生したとの事で殺害を断念、問題解決のため陣地に連れて行っても宜しいかとの事にございます」
その言葉に魔王は眉根を寄せ、四天王エルキシャースの部下を見る。
「問題とは何だ?」
低い声で尋ねる魔王に対し、デュラハンは怯える事無く対応する。
「はい。『大公一家が死ぬと魔法で世界中に死んだ事が伝わる』という内容の魔法を掛けられている、との事です。人間共に気付かれぬよう秘密裏に動いている今、それは避けた方が良いのでは? と我が将は申されておりますが…如何なさいますか?」
大公一家を連れて行く、と伝えてきたという事は、大公一家を守っていた護衛達はこの世から消えているはずである。
どれほど強い魔法を掛けられているのかは分からないが、連れて来るに越した事はない。
魔王は頷きかけ…そしてある事を思い出して首を横に振った。
「緋の勇者が向かっているから陣地には連れて行くな。ファルフォッティーが討伐に向かったがヤツの力は計り知れないし、大公一家を目の前にすれば助けようと余計な力を発揮するだろう。勇者とはそういう生き物だ。可能であれば城へ連れて来い」
その言葉に左手に抱えられた首が頷いた。
「御意。ではそのように我が将エルキシャース様に心話をお送り致します」
「任せる。何かあれば直ぐに知らせよ」
「御意。…御前失礼致します」
そう言ってデュラハンは黒い霧状に変化し、その場から姿を消し去ったのだった。
魔王はその様子に何ら関心を持つ事なく、腕を組んで背後のタウルスに問い掛ける。
「ここで緋の勇者を消せると思うか?」
「それは難しいでしょう。勇者とは人類最強と言われ、魔王とも互角の存在の者です。ファルフォッティーが四天王最強であっても、勝てる見込みは少ないでしょうね」
「だろうな。俺もまだ出る訳には行かないし…一度引かせるか」
「それが最善でしょうね」
そして魔王は思考を巡らせる。
何が最善で、何を切り捨てるべきかを。
時間を少し遡り、場所も変わってテュルク公国南部。
「た、助け、…」
「お前は不要だ」
そう、冷酷な一言と共に漆黒の鎧を身に着けた騎士が、漆黒の馬上から剣を咥えた鷲の紋章が刻まれている鈍い銀色の鎧を身に着けた男の首に槍を突き刺し、薙ぐ。
「ぎゃぁぁぁ…」
「リード!」
首を切断した男にも、悲鳴を上げた少女にもそれ以上興味を示す事なく漆黒の騎士は周りを見回し、護衛は男で最後だった事を確認した。
そして鉄仮面の下で口元を歪め、震えている男女6人を見る。
彼らは騎士や兵士ではなく、町民の服を身に着けてはいたが明らかに富裕層に属する存在だった。
馬首を巡らせ、漆黒の騎士は彼らに近付き馬上から声を発する。
「テュルク公国大公ウェルギッド一家とお見受けする」
「ち…」
「『違う』と言うのならばこの場で皆殺しにするのみ」
喉元に槍を突き付けられた金髪の男は小さくヒッと喉を鳴らした。
そんな男に、妻らしき女が縋り付く。
「あ、あなた…」
「もう一度問う。テュルク公国大公ウェルギッド・ヴォン・テュルス一家だな?」
槍を突き付けられた男は心底怯え、恐怖していた。
そんな父に痺れを切らしたハタチそこそこの息子らしき青年が、逆に漆黒の騎士に問い掛ける。
「そういう其方はどこの国の者だ? 今は戦時下ではないし、このような山奥の小国に攻め入る国もない。何故魔物共をけしかけてまで我々に危害を加える必要があったんだ?」
その問い掛けに、漆黒の騎士は彼等が自分の正体に全く気が付いていない事を知り、鉄仮面の下でますます笑みを深くした。
─なんて愚かな人間共!!
可笑しくて、可笑しくて、肩が小刻みに揺れる。
それに気が付いた十代後半の、少年に近い青年が眉根を寄せた。
「何が可笑しい」
「何が? そんなもの、全てがに決まっているだろう?」
肩を揺らす漆黒の騎士を睨み付けていた少年に近い青年が、何かに気が付いてハッと目を見開く。
その様子に漆黒の騎士は一瞬不機嫌になりかけたが、気を取り直して目を細め、言葉を待つ。
「く…首が、ない…? き、さまも…魔物の内の一匹か!」
漆黒の騎士の首の部分がなく、頭が宙に浮いている事にやっと彼らが気付いたのだ。
「魔物、ね…。俺は『不死者王』と呼ばれる存在だ」
『不死者王』といえば、魔王四天王の中で2番目に強いと言われている。
第一席に『竜王』二刀流剣士ファルフォッティー。
第二席に『不死者王』暗黒騎士エルキシャース。
第三席に『月影女王』魔法剣士ユエイン。
第四席に『魔女王』魔法使いリンダ。
この4名が魔王四天王と呼ばれる存在である。
ちなみに、魔王の右腕であるタウルスは四天王ではなく相談役か宰相のような存在だ。
「『不死者王』?! 魔王四天王の一人のか!」
他の5人と同じように町人の服に身を包んだ年長の青年が、何もない空中から1メートルほどの長さの杖を取り出し、彼等を守るかのように立ち塞がった。
「ルーイン!」
父である大公の声を無視し、ルーインと呼ばれた年長の青年は不死者王に杖を突き付けながら口早に言う。
「我らに害すれば全世界に我らの死が伝わるぞ」
その言葉に、馬上から槍でルーインを突き殺そうとした不死者王と名乗ったデュラハン─エルキシャースは動きを止めた。
そして徐に鉄仮面の目の部分を押し上げる。
そこから現れたのは、赤い前髪と鋭い赤い目。
「どういう事だ?」
「わたしが魔法を使ったからだ。元より逃げ切れれば御の字。逃げ切れずに死ねば全世界に注意を促せる。─それが一国を担う者の勤めだ」
エルキシャースは赤い目を細め、彼等をじっくりと観察する。
確かに魔力が彼等を包み込んでいるので嘘ではなさそうであった。
これが、先ほどの魔王と部下の会話の元となる出来事だった。
そして部下との心話のため、数秒無言であった『不死者王』エルキシャースは、徐に彼らに向かって言い放った。
「…お前達を連行する」
「なっ…!」
驚きに目を見開く父を尻目に、家族を守るかのようにエルキシャースに杖を向けているルーインが素早く小さく詠唱を唱えた。
『我、水の加護を求む者。目前の敵の目より我らの姿を隠し給え。アクア・ミスト』
その瞬間、辺りに霧が漂い始め、一気に深くなる。
「父上、母上、お早く! お前達も逸れずに付いて来い」
そんな彼等の様子に、エルキシャースは口元に笑みを刻む。
─なんて小癪な。しかし、これはこれで楽しめそうだ。
エルキシャースは愛馬コシュタ・バワーの背を軽く叩き、追撃を開始するのだった。
一方、緋の髪の勇者、ヴァルゴ・サイラスは魔王軍の陣地の前に巨大な大剣を両手で構えて立っていた。
頬から流れていた血も、剣を咥えた鷲の紋章が刻まれている鈍い銀色の鎧についていた返り血も、乾いてどす黒く変色しつつある。
魔王軍の陣地からは魔物達が飛び出して彼に容赦なく襲い掛かっていくが、一振り毎に複数の魔物達が両断されていく。
「うおおおーーーーーーー!!!!」
凶暴なまでのヴァルゴの雄叫びに、魔物達が怯む。
ヴァルゴはそんな魔物達をあっと言う間に切り伏せて、陣地内に進入しようと一歩踏み出した。
しかし、殺気を感じて跳び退る。
その直後にヴァルゴがいた地面が何の前触れもなく大きく抉れた。
「誰だ!」
厳しい誰何の声に、高くもなく、低くもない不思議な声音が応えた。
「私の剣を躱すとは…人間にしておくには惜しい逸材ですね」
姿を現したのは、真っ直ぐな長い漆黒の髪と背中に流し、濡れたような漆黒の瞳をした美しい人物。
女性にも見える。
男性にも見える。
不思議な魅力をその身に宿した美しい存在だった。
ヴァルゴも一瞬その美貌に息を呑んだが、直ぐに気を取り直して大剣を構える。
漆黒の存在も徐に両手に剣を構え、ほんのり紅い唇に笑みを浮かべた。
その様子は女性的で、戦場でありながらも見惚れてしまいそうなほど妖艶で、美しい。
ヴァルゴはそんな漆黒の存在の美貌に飲まれそうになりつつ、問う。
「お前は何者だ? 見た所魔物─とは格が違いそうだが」
「私は魔物でも、魔族でもありませんよ」
「では何者だ?」
「これから戦い、そして死する者に正体を明かした所で無意味では?」
にっこりと微笑んで答える漆黒の存在の答えに、ヴァルゴは一瞬呆気に取られ、それから眉根を寄せた。
「それは戦う者に失礼だと思うが?」
「弱者の言葉など聞くに値せず。私の名を知りたくば打ち負かすと良いですよ。…まぁ、無理だとは思いますが」
その美しい容貌と、容赦ない言葉のギャップにヴァルゴは表情を消した。
そして、これ以上の会話は無意味とばかりに、大剣を漆黒の存在に向かって振り下ろしたのだった。
5月25日誤字修正。