神様の悪戯
五月十二日
今朝も、彼女の家の郵便受けに新聞を入れた。他の家々のポストに入れるような無造作で機械的な作業ではなくて、少しばかり丁寧に。
いつも彼女に会えることを期待していたが、当然新聞を配っている時間帯に彼女が起きているわけもなく、新聞を丁寧に入れたからといって何が起きるわけでもなかった。
自分でもよく分かっていることではあったけれど。
僕たちは今年、同じ中学を卒業して同じ高校に入学した。彼女とは家も近所(自転車で五分くらいだ)で、小学校も同じで何度も同じクラスになったことがある。それに、僕の両親と彼女の両親は親交があって、僕は彼女のことを小さい頃から知っていた。
彼女はいつも学級委員をやっていた。とても可愛くて人気があった。たまに世間知らずなことを言って周りを驚かせた。彼女の父親はある大企業の重役を勤めていて、いわゆるお嬢様だったのでそれも当然のことではあった。それでも、彼女には裕福な家の子供にありがちな高慢なところがなく皆に優しかった。
まるきり家庭環境の違う僕にも優しくしてくれていた。
僕はいくつものアルバイトを掛け持っている。朝は新聞配達をし、放課後は飲食店で皿洗いやウェイターの真似事をしている。兄も似たようなものだ。
僕らには両親はなく、施設に入らずに生活していくには働くしかなかった。親類から援助の申し出はあったが、逆に負担に感じるので丁重にお断わりしていた。高校へ進学できたのは奨学金を受けられたからで、それがなければ高校へ通うにはもう一つくらいアルバイトをしないと駄目だったろう。
僕よりも勉強のできる彼女が志望校を同じ公立高校にしたと聞いた時、違和感が拭えないのと同時に期待で胸が膨らんだ。
僕は幼い頃(何歳の頃か覚えてない)に交通事故に遭って、後遺症で左足をうまく動かすことができない。いつも跛を引いて歩いている。
左耳も難聴でほとんど聞こえない、でも何も聞こえてないわけじゃない。ゆっくり喋ってくれれば会話だって十分聴き取れるし、音楽だって楽しんでる。補聴器は仰々しくて嫌いなので普段は着けてない。
あれは小学六年生の時だったと思う。体育の授業で五十メートル走があった。足に障害があるからといって免除されることはなく、僕も走らされた。
結果は当然ビリで、タイムも学年中でビリだった。走り終わってから、同級生に「変な足」とか「火星人」とかわけの分からないことを言われた。
その頃から、僕の上履きはよくゴミ箱の中に隠されるようになり、運動靴には画鋲が入れられるようになった。休み時間には耳のことをからかわれ、皆がわざわざ僕の左側に立ってなにか酷いことを早口で言っているようだった。
自分が虐められていることに十分気づいてはいたけれど、障害があるから仕方のないことだと諦めていた。
上履きがなくなっていれば何も言わずに探し、運動靴に画鋲が入っていれば何も言わずに画鋲を捨て、何を言われても殆ど聞き取れないから何も言い返さなかった。
僕が虐められているのを見かねたのか、虐めを止めさせるのが学級委員の仕事と思ったのか、彼女が連中にこう言ったらしい。
「あんたたち、虐められてる皆藤君の気持ちを考えなさいよ。自分が同じことされたらどうするの? とにかく、これ以上皆藤君を虐めたら先生とあんたたちの親に言うわ」
暫くして僕への虐めは下火になった。学級委員として人望のある、しかも可愛い彼女から言われたということもあるだろう。抵抗しなかったから、もしかしたら面白くなくて飽きたのかもしれない。
彼女は僕に向かってこう言った。
「なんで虐められてるって誰かに言わなかったの? 言わなきゃいつまでも虐められるのよ、皆藤君それでもいいの?」
「僕は別に気にしてないし仕方ないんだ」
そう言ったら彼女は何故か泣き出してしまった。僕はうろたえるばかりで何もできなかった。
「今度からは虐められたら真っ先に神田さんに言うよ」
その一言で漸く泣き止んでくれた。
毎朝、念を押すように『神田』の表札を確かめ、慎重に新聞を新聞受けに入れる。中学一年生から始めた新聞配達はとてもきつくて辛い。そして彼女の家に来るとなぜだかいつも落ち着かなくて困る。
五月二十五日
「皆藤君、おはよう」
「あ、ああ、神田さんおはよう」
神田薫とは同じクラスでもあるし幼馴染でもあるから、挨拶をしないわけにはいかない。彼女が「カイトウ」と僕の苗字を口にするたびに、なぜだかそれがいつも辛い。
彼女はいつも明るく言葉をかけてくる、僕はなぜだか緊張しながら言葉を返す。そんなやり取りがここ数年続いている。気が付くとなぜか彼女のことを考えている。これもここ数年続いている。
ところで、小学校の時は給食があるのに中学校高校になるとなくなるのはどうしてだろう、今でも給食があれば良いのに。もちろん給食費が不要なら言うことはない。給食があれば昼飯の確保なんて苦労はしなくて済む。小学校の頃が懐かしい。
昼休みにはすることもなく、誰もいない屋上に寝転んで音楽を聴きながら本を読む。昼食抜きが多いのでその分時間が余るからだ。弁当を作ってくる時間的な余裕もなく、学食で食べたり購買でパンを買って食べたりするほど金が余っているわけでもなかった。それに学食や購買はいつも混雑していて、それを見るたびに食欲を失くしてしまう。
バイト代が入るといつも気に入りそうなCDを探しにCDショップへ行き、気に入りそうな本を探しに本屋に行く。だからアルバイトの掛け持ちで収入はある程度あるが、いつも財布の中は寂しい。
何人かの女の子の声がドアのほうから聞こえてきた。聞き覚えのある声が混じっている。彼女が友人たちと屋上で弁当を食べようと上がってきたらしい。
「あれ、皆藤君。もうお昼ご飯食べたの?」
邪気のない笑顔で聞いてきた。相変わらず可愛いかった、見惚れてしまうくらいに。
黙って首を横に振った。
「なんで? お弁当忘れたの? お財布も? じゃあ私のお弁当半分あげるから一緒に食べよう?」
矢継ぎ早に言われて、何と言われたのかよく分からず困惑している間にもう彼女は自分の弁当を僕の目の前に突きつけてきた。
彩りも良くて栄養バランスも考慮されていそうな美味しそうな弁当。だけど、いくらなんでも彼女の弁当を貰うわけにはいかない。誰かが何かをくれると言うなら大概は有難く頂くが、他人の分を横取りするほど厚かましくはない。
彼女の周りで女の子たちが囃し立てるように言った。
「薫は皆藤君に気があるんじゃないー? なんだか怪しいなー?」
「そういうわけじゃないわよ。ただ、お昼ごはん食べないのは体に良くないから」
昼食を食べない人間全てに自分の弁当を分け与えるのが自分の仕事だとでも言うような態度だった。
「気持ちは嬉しいけど貰えない。神田さんの分がなくなっちゃうし半分ずつでもお箸はどうするのさ、割り箸でも持ってるの?」
そう言うのがやっとだ。
「あら、そうね。ごめんね、今度から割り箸を持ってくるわ」
可愛い笑顔を僕に向けて彼女はそう言った。どういう意味なんだろう?
結局今日は気力がなくなって午後の授業をサボってしまった。空はよく晴れていて気持ち良かった。ウォークマンから流れてくるマーラーの交響曲第一番がなんだか眠気を誘った。
六月一日
今日もいつものように屋上で寝転んで本を読んでいた。
静かで、気持ちの良い風が吹いていた。梅雨の気配はまだ欠片もない。
屋上のドアが開くこともなくいつもの生活に戻っていた。僕は誕生日がきて十六歳になっていた。
大抵気分の良い日はお気に入りの音楽を口ずさんだりしている。僕の好みの音楽はどれも古臭くて土臭い。
自分の生まれる遥か昔に流行った音楽。今となっては博物館に展示されていそうなジャズやブルース、ロックンロール、リズム&ブルースの数々。宗教や土地に根ざした音楽、例えばゴスペルやフラメンコ。もちろんクラシックも聴く。
僕の聴覚はいい加減だから音楽を聴くにはヘッドフォンをして、ミニコンポかウォークマンのヴォリュームをかなり大きくしないと駄目だ。それでも音楽が大好きだ。愛用の昔懐かしいCDウォークマンはフリーマーケットで買い叩いたものだが。
流行の音楽はあまり聴かないけれど、とにかくいつも音楽に飢えている。
「お母さんが、お昼抜いちゃだめよって皆藤君のお弁当作ってくれたの。よかったら食べてね」
何回か、彼女がそう言いながら弁当の包みを持ってきた。なんだか彼女の一家が揃って僕に同情しているような気がした。泣きたくなるくらい哀しかったが、弁当はありがたく頂いた。
彼女はいつも優しくしてくれた。遠足の時はいつもお菓子を少しずつ分け合った。学校で山登りがあれば近くで励ましてくれた。修学旅行の時はわざわざ同じ班に入れてくれて僕の足に負担のかからないようにコースの配慮をしてくれた。マラソン大会の時も、彼女は自分の順位なんか気にしないで同じペースで走ってくれた。
それが同情からではないことを期待していた。
中学の時、彼女が野球部のエースと付き合っていると噂が流れた。その噂が非常に癪にさわった、噂を口にする人間全員をバットで殴り殺したいくらいだった。彼らが本当に付き合っているのかどうかは分からなかった。
六月九日
今日もまた、僕は屋上にいた。吹く風が湿気を帯びていて蒸し暑い昼休みだった。
機嫌が良くなかった、何かに八つ当たりしたくなるくらいに。自分の境遇が悲しくて、自分の散財のせいで空腹なことが面白くなくて、彼女のことばかり考えている自分がなんだか情けなくて。
ウォークマンにドアーズのCDが入っていたのも不機嫌の原因かもしれない。神経がやられた気分だ。何でこんなCDを持ってきたんだろう?
何人かの女の子の気配がドアのほうからしてきた。ヘッドフォンを外すと、また聞き覚えのある声が混じっている。彼女が友人たちと屋上で弁当を食べようと上がってきたのか。
「あれ、皆藤君。今日もお昼食べないの?」
思わず見つめてしまうような笑顔でまた聞いてきた。
また自分の弁当を僕の目の前に突きつけてきた。今日も美味しそうな弁当だ。
「お弁当一緒に食べよう?」
「やっぱり薫は皆藤君に気があるんじゃないー? 皆藤君、嬉しいでしょー?」
彼女の周りで女の子たちが僕をからかうように言った。(どうして女の子はそう他人を冷やかすのが好きなんだ?)
僕はその雑音に気が立って、自分でも感心するくらい冷たい口調で言い放っていた。
「悪いんだけどこういうの困る。変な誤解を受けるし昼飯を食えないほど貧乏なわけじゃない。施しを受けるのはごめんだ、それに僕に同情してのことなら尚更願い下げだ、放っておいてくれ」
そう、僕が昼飯を食う金に困っているのは金をレコードや本に注ぎ込んでいるからであって、別に貧乏だからというわけではないのだ。
それに、彼女には同情なんてして欲しくない、同情で親切にしないでくれと思っている。
それでも言った後でとても後悔した。彼女が目に涙を溜めて今にも泣き出しそうだったから。
「えー、酷ーい! 薫がせっかく一緒に食べようって言ってるのにー!」
取り巻き連中が僕を非難するのを無視して屋上から降りた。その足で教室に戻り鞄を取って、自転車置き場から自分の自転車を出して、暗い気持ちのまま自宅へ戻った。
今日は散々だった。放課後のアルバイト(レストランだ)では皿とグラスをいくつも割り、ホールに出ればオーダーを間違えた。予定の時間よりも早く帰らされ、その分給料が減ることになってしまった。
六月十日
彼女に冷たく言い放った次の日、休むわけにもいかずに暗い気持ちのまま新聞を配り(もちろん彼女の家を抜かすわけにはいかない)、いつものように登校した。
下駄箱で彼女と鉢合わせしたが、謝ることもできず、無視するような形になってしまった。彼女の悲しそうな表情が心に突き刺さった。
もう今までのようには話せなくなるな。まあ自業自得、仕方ないか。授業中に外をぼんやりと眺めながらそう考えていた。彼女と初めて会ってからのことを思い出しながら。あの、今にも泣き出しそうな顔を思い出しながら。
もう彼女は僕に近づこうとはしないだろう、僕も彼女に近づこうとはしないだろう。はっきりとそれが分かるくらい気まずさの残る朝だった。
「おい、皆藤!」
遠くで誰かの声がしていた。
「聞こえんのか! 皆藤っ!」
後ろから突付かれてようやく気がついた。英語の松本が顔を真っ赤にして睨んでいた。彼は怒るとすぐに顔を真っ赤にするので、生徒たちからは『ウッキー』と呼ばれている。
「何ですか?」
「授業中に何をボーっとしてる! 罰として五十四ページから五十六ページまで訳してみろ!」
え。まじかよ。周りを見たらクスクス笑ってやがる。「いい気味だ」とか思われているのだろうか。仕方なく指定された箇所がどこなのか親切な隣人に教えてもらい、訳し始めた。
彼女をチラッと見たら、なぜか朝と同じような悲しそうな顔をしていた。つらかった。
訳せと言われたところは量は多いが簡単なところだったので、ウッキーの攻撃は比較的軽くて済んだ。でも終わって座り際に言われた一言がはっきり聞こえた。
僕の神経を衰弱させるような一言だった。
「女のことばっかり考えてないで授業に集中しろ」
なんてこった。
昼休みになった。今日は屋上に行くのを止めて図書館へ行くことにした。
図書館は良い。何が良いって、静かだし本がたくさんあってしかもタダ、良いことづくめだ。多少埃臭いのを我慢すれば何時間でもいられる場所、いかにも知識が詰まっているって雰囲気を感じる。それに昼寝をしていても鼾がうるさくなければ叩き出されることもない。
学校の図書館は、月面のように静かだった。
どうしても本を読む気になれず昼寝を決め込んだ。
疲れがたまっていたのか、寝過ごして午後の授業はさぼってしまった。目が覚めた時には既に全部の授業が終わっていた。大慌てでバイト先へ向かった。
六月二十八日
あれから何週間か過ぎた。相変わらず彼女とは顔を合わせても一言の挨拶も会話もせず、昼になれば雨が降ってなければ屋上に行き、雨が降れば図書館に行って過ごしている。
彼女は顔をあわせるといつも悲しそうな目で見てくる。僕はそれがいたたまれなくていつも彼女の前から逃げ出す。
夏休みが近づいて期末試験が近い今になっても状況は同じだった。
毎朝(彼女の家を含めて)新聞を配り、授業を受け、昼休みには本を読んだり昼寝をしたりして過ごし、放課後にはレストランで皿を洗い、そして眠った。極力誰とも話さないようにしていた、話したくもなかった。
単調で静かな毎日だった。
僕は彼女のことを忘れようとしていた。正確に言えば彼女に惹かれていた自分の気持ちを忘れようとしていた。
もともと経済的環境からして釣り合わないし、容姿も釣り合わない。学力だって向こうが上だ。それに、今まで僕に優しかったのは『僕』だから優しかったんじゃなくて、『同情するに値する同級生』だからだ。だから彼女が優しいのを誤解してはいけないんだと、何度も自分に言い聞かせた。
教室で、三列右に座っている坂本がわざわざ話しかけてきた。
「おい皆藤、知ってるか?」
「知らない」
「まだ何も言ってないだろうが。ま、聞けよ。ここ一週間で、あの神田に七人が連続で告白したらしいぞ」
「そう」
一週間で七人か、それも当然の話だな。彼女は他の誰よりも可愛くそして綺麗だから。心惹かれている男共は掃いて捨てるほどいるに違いない。
「で、結果はどうだったと思う?」
「さあ?」
「何だよ、張り合いのないやつだな。全員断わられたらしいぞ、告白した奴の中にテニス部のキャプテンもいたってよ、あの女子から人気のな」
「ふうん」
「その理由ってのが、好きな人がいるから付き合えませんだってさ」
「へー」
「気のない返事をするなよ。お前あいつとは付き合い長いだろ、誰が好きなのか聞いてないのかよ、どんなやつがタイプで好きな人って誰だ?」
「さあ?」
「本当に知らないのか?」
「ああ、悪いな、役に立たなくて」
「いや、いいさ」
坂本は呆れた顔をして立ち去っていった。こいつは今の僕らの関係を知らないのか? それに、わざわざ普段付き合いのない僕に言うことでもないだろうに。
わざと気のない返事をしたけど心臓は早鐘のようにドキドキしていた。『好きな人』って誰だろう、僕じゃないだろうけど誰なんだろう。すごく気になった。
そして無性に腹が立った。未だに彼女に惹かれているってことを認めたくない。
九月一日
そして夏休みが過ぎた。夏休み中も謎は謎のままで、一度も会うことなく二学期を迎えることになった。
二学期になっても僕と彼女の関係は変わらなかった。
十一月三日
僕のクラスは文化祭で焼きそばを売ることになっていた。
いつの間にか焼きそばを焼く係にされ、運悪く(誰も交代してくれなかった)ほとんど一日中鉄板の前にいた。汗だくになって焼きそばをつくった。ようやく材料がなくなったので他を見て回れるようになった。
ちょうど同じクラスの女子連中が他校の生徒(これまた女の子だ)と喋っているところを通りかかった。会話が途切れ途切れに聞こえてきた。
「皆……君……ち……と良……な……?」
「そう……放……に……車で帰……るところ良……るの。結構か……こ良いいよねー」
「彼・だ・よ・、もの・ごく冷・い・から。薫な・てひど・と言・れて・傷・いた・だ・ら」
なんだかさっぱり分からん。合っているか分からないが、僕のことを格好良いと言う女の子(相手が誰でもそう言われるのは正直嬉しい)に、僕が彼女のことを傷つけたといって「冷たいやつだからやめとけ」と言っているみたいだ。
まあ、彼女たちの言うとおりだ。あの子を傷つけたことに間違いはないし、僕がひどい人間であることも疑う余地はない。
彼女はどこを見に行っているのかな、ふとそう思った自分に気がついて無性に悲しくなった。
悲しくなったり自分に腹が立ったりするのがわかっているのに、僕は彼女のことを見ていた。でも目を合わせたくなかったから、ほんの少ししか見られなかった。
いつの間にかいつも授業中に窓の外を見るようになっていた。そして時々彼女を見ては自分の愚かさを呪った。
もう正直に認めよう、彼女が好きだ。
ところで、二学期の初め頃から、時々誰かが僕を見ているような気がしていた。
視線を感じるとでも言うんだろうか、廊下を歩いている時、自転車置き場にいる時、そして授業中。周りを見回してもわからなかった。
視線を感じる時、僕の周りにはいつも何人かがいた。だから、たまたま自分の近くにいる人を見ている人がいるのだろう。授業中に感じるのは後ろの席の奴が黒板を見ているからだと思った。
十一月六日
僕と彼女の関係がぎごちなくなっていることと、その経緯はいつの間にかクラスの全員が知っていた。
どうやら文化祭の打ち上げの時に、例の取り巻き連中が酔った勢いで「皆藤はひどい奴だ」と大声で叫んでいたらしい。「あんな奴とは絶交しろ」ってからんでもいたらしい。もう絶交しているのに。
なぜ「らしい」と言っているのか、当然その日にはアルバイトがあって打ち上げには参加していなかったから。
自称親切な坂本君が寄ってきて、聞きもしないのにそのことを教えてくれた。
「皆藤よー、そういう事情があったなら親友の俺に相談くらいしろよー」
こんな奴と親友になった覚えはない。
「で、なんて答えてた?」
「悪い、そこは聞いてねぇんだ」
やれやれ。
十一月十五日
昼休みになって、いつものように屋上へ向かおうとした。柔らかい手が僕の肩を後ろから叩いた。
「ん?」
「皆藤君、ちょっと話があるの、時間いいかしら?」
名前は知らなかったが彼女を取り巻いている女の子の中の一人だった。その子が彼女と二人で話しているところを何度も見た。
早口で言われたから聞き取れなかった。そのことを伝え、ゆっくり喋ってもらえないかと頼んだ。
「これから屋上へ行くんでしょ? 薫のことで話があるのよ」
その表情から察するにどうやら拒否権はないらしい。仕方なくその女の子の後について屋上へ向かった。
「あなたのせいで薫はとても悩んでいるわ、なんであの子に謝らないのよ」
屋上のドアが閉まると彼女の友人(彼女は井上と名乗った)はそう言った。
「機嫌の悪い時だったから言い方も悪かったし、言いすぎたことは自分でも分かってる。でも、今更どう謝れって言うんだ? それに同情なんかして欲しくないってのは本当のことだ」
井上さんは僕の言い分を聞いてからしばらく黙っていた。数分にも思えた沈黙の後、こう言った。
「皆藤君、あなた、薫のこと好き?」
ずいぶんと唐突な質問だ。心臓の鼓動が速くなり唇が乾いていくのが自分でも分かったが、なんとか口を開くことができた。
「前みたいな関係に戻りたいさ、ぎくしゃくしているのは落ち着かないから。でもいきなり好きかと聞かれても答えられないよ、そんなの、言えるわけないだろ」
井上さんは少し考えていたようだったが、なぜだか満足したらしくにっこり笑って屋上から出て行った。
僕はため息を一つついて、屋上に人がいないのを確認してから煙草を出して火を点けた。
夏休みの間に煙草を吸うようになった。高い煙草は買えないからいつも安い銘柄を吸っている。
なぜだかこんなため息が出るような時には無性に煙草が吸いたくなる。
十二月五日
屋上で井上さんとのやり取りがあってからも、僕の生活はあまり変わらなかった。
もちろん彼女との関係も。
ただ、CDと本をあまり買わなくなった。昼休みにいつも一人で屋上に行き、昼飯を食べるようになった。少し煙草の本数が増えた。
そんなことをぼんやりと考えていたら、いつの間にか昼休みになっていた。登校途中に寄ったパン屋の紙袋と読みかけの本、そしてウォークマンを持って屋上へ向かった。
教室ではみんな試験勉強をしながら昼食といった雰囲気で、落ち着かなかった。来週の期末試験自体が別世界での行事のような、そんな気がしていた。
屋上に着くとロバート・ジョンソンのCDをウォークマンに入れ、いつもの場所に腰かけた。そしてパンが入っている紙袋を開けて早速食べることにした。
今日は焼きそばパンとツナサンド。それに紙パックのオレンジジュース。
焼きそばパンを平らげオレンジジュースを飲んでいる時に、屋上のドアが開いた。 女の子だった。井上さんだとわかりため息をついた。
「やあ」
こっちを見ているから、仕方なくヘッドフォンを外してそう言ってみた。
「こんにちは、皆藤君。最近はちゃんとお昼ごはん食べてるそうじゃない、どうした風の吹き回し?」
「別に理由なんかないさ、食べたいから食べてる。ただそれだけさ」
「ふーん」
「それにしてもなんでそんなことを知ってるんだ?」
「いいじゃない、別に」
僕は言葉を失って、苦し紛れに残っているツナサンドに口をつけた。味が良く分からなかった。
「まだ薫に謝る気にはならない?」
「くどいな、謝るにしても既にそのタイミングを失ってるんだ。今更謝ったところでどうにもならないさ」
そう、あの坂本九が唄ったように、この世界は全てタイミングなのだ。
「そうかしら?」
そんなことないわよ、といった表情で井上さんは僕の顔を覗き込んできた。
「何が言いたいんだ?」
井上さんの真意を測りかねていた。僕の顔を覗き込んだままで、しばらく見つめあうような状態になっていた。彼女までとはいかないが十分かわいくて、ちょっぴりドキドキした。
口内に残ったツナサンドを飲み込もうとすると、井上さんは突然言った。
「で、皆藤君、あなた、薫のこと好きなんでしょ?」
のどにツナサンドが詰まった。慌ててオレンジジュースで胃に流し込んだ。
「突然何を言うんだ? その話も前にしたはずだ、答える義務なんてない。仮に答えたとして井上さんはどうするんだよ、答えてどうなるって言うのさ、どうにもならないだろ。人をおもちゃにするのもいい加減にしてくれ」
ツナサンドがまだのどに詰まっていて苦しかったが、何とか言うことができた。
「素直じゃないなぁ、薫も大変だわ」
井上さんが呟いた。
「何だって?」
「ううん、何でもない、独り言。気にしないで」
僕は食事を諦め、ため息をついた。そして煙草に火を点けた。井上さんは煙草については何も言わなかった。
「何で僕らの関係に口を挟んでくるのか判らないな、それこそ余計なお世話ってやつじゃないのか? 関係がこじれたのは僕の自業自得さ、もう放っといてくれよ」
「でもこの前聞いた時はもとのような関係に戻りたいって言ってたよね?」
「できれば、の話さ。もう無理なことは判り切ってる。無理なことを望んでも望むだけ労力の無駄だ」
「やってみなくちゃわからないわ」
井上さんには何を言っても無駄らしい。僕は肩をすくめて煙を吐き出した。
「あれからもう何ヶ月も経ってるんだ」
「そんなの関係ないわ、あなたが一言ごめんって言うだけでいいのよ」
他人事だと思ってそんな無茶苦茶な、そう思っていたらいつの間にか独りになっていた。
十二月八日
今日最後の授業が終わってから教室に残っていたら、三列右に座っている坂本がニヤニヤしながら寄ってきた。
「おい皆藤、知ってるか?」
「知らない」
「そうつれなくするなよ。ま、聞け。昨日、神田にまたテニス部のキャプテンが告白したらしい。期末試験前に大胆な奴だよな、まあ、クリスマスも近いし焦っているのかもな」
「そう」
「で、結果はどうだったと思う?」
「さあ?」
「何だよ、相変わらず冷たい奴だな。また断られたらしいぞ、気の毒にな」
「ふうん」
「今度の理由は、すごく好きな人がいるから付き合えませんだってさ」
「へー」
「お前、思ったとおりの反応するから面白いな」
「そうか?」
「テニス部のキャプテン、かなり頭にきてたな。女で苦労したことがないって豪語してるから、力づくでも自分の女にするつもりじゃないのか? なにしろ神田は頭もスタイルもよくて学校で一番の美人だからな、男なら誰でも自分の女にしたいタイプだろ」
「そうなのか?」
テニス部のキャプテンの顔が頭をよぎる。こんな僕のところにも彼の女関係の噂はよく聞こえてきていた。
「お前、気をつけないと彼女を奴に持っていかれちゃうぜ、良いのかよ。少なくとも奴より前に自分のものにしちまわねぇと、後悔するんじゃねぇか?」
「どういう意味だ?」
「言ったとおりの意味さ、じゃあな」
なんだか大変なことになってきたな、かなり信じられないけど。
十二月十六日
今日で期末試験も終わりだ。手応えはいつもと変わらず、良くて「中の上」から「上の下」といったところだろうか。
試験が終わってから、屋上にある給水塔の上で煙草を吸っていた。ボブ・マーリーのCDの入ったウォークマンは電池切れで動かず、静かな一服だった。
屋上のドアが開く気配がしたので、何の気もなしに気配がするほうを覗いてみた。
彼女がテニス部のキャプテンと何か話していた。彼女は何回も彼に頭を下げていた。男の方は「向こうへ行こう」みたいな仕草をしていた。
彼らは話しながらドアから離れていったので、今のうちに居場所を変えようと思った。なんだか複雑な心境だった。彼らが何を話しているのか判らなかった。彼らが一緒にいるところを見たくなかったけれど、坂本の言葉も頭の中で鳴り響いていた。
見ていると、こちらから見えないところに移動していた。僕がそっと給水塔の梯子に手をかけた時、思いがけない言葉がぼんやりと聞こえてきた。
「何するんですか! やめてください!」
「いいじゃねぇか! 諦めて俺の女になれよ!」
慌てて梯子を滑り降りて彼らを見たら、坂本が予想していたことが現実に起こっていた。しかも僕の目の前で。
この寒い中、いったい何を考えているんだ? しかも学校内だぞ、ここは。
やれやれ。僕は大きくため息をついて、吸いかけの煙草を投げ捨てた。
坂本から話を聞いた後、何回も今みたいな最悪の状況をシミュレーションした。でもいくら考えても、現実にテニス部のキャプテンがそうした行動に出るとは思えなかった。
普通こうしたことは考えても実行しないものだろ。
とりあえず頭に血が上っていて周囲の状況がわかっていない男の後ろにゆっくりと近づいた。そして、奴の左肩に右手を掛けこちらに振り向かせながら、黙って左拳(僕は左利きなんだ)を顎に叩き込んだ。少し力を入れ過ぎただろうか、左手は鈍く痛みテニス部のキャプテンは気絶した。
本当に気絶ってするんだ、なんて妙なことに感心しながら彼女を見た。
半べそをかきながら僕を見ていた。制服は乱れ、髪もぼさぼさになっていた。そんなひどい状態にもかかわらずとても綺麗だった。
怪我をしている様子はなかったが念のため聞いてみた。
「怪我はない?」
「う、うん、あ、ありがとう」
やっぱりなんかぎごちないな。
「か、皆藤君はなんでこんなところにいたの?」
「まあ、なんとなく」
どうしたってぎごちないな。
「じゃあ、僕はこれで」
この場から逃げ出そうと思ってそう言った。そうしたらなぜだか悲しい顔をされた。悲しい顔もやっぱり綺麗だった。そして僕は心臓を鷲掴みにされたようになって動けなくなってしまった。
ふと井上さんが一言謝るだけで良いって言っていたのを思い出した。今がその時か判らないけど、思い切って謝ることにした。
「あのさ……もうずいぶん前だけど、ひどい事言ってごめん、今まで無視してごめん。許して欲しいとは言わない、だけどごめん。ごめんとしか言えなくて申し訳ないけれど」
ちゃんと謝れたのだろうか。
「私こそ皆藤君の気持ち全然考えてなかったわ、ごめんなさい」
なぜか謝られた。
そして彼女は安心したような表情を作った。見ているこちらが思わず引き込まれてしまう、そんな表情だった。ひどいことが起きたけどそのパニックもようやく落ち着いたのだろう。僕らは寒かったけれどそのまま屋上で話した。話をしなくなってから今日までに起こったことや期末試験のこと、いつの間にか昔話もしていた。
どうやらタイミングを誤らなくて済んだらしい。以前の関係に戻れたみたいだ。
そして、テニス部のキャプテンは気がついたら消えていた。
その日のアルバイトは、なぜだかいつもより楽に感じた。
十二月二十四日
今日はクリスマスイブ、僕がアルバイトしているレストランも予約で一杯だ。
いわゆる高級店と呼ばれるこの店は駅前の華やかな商店街からは少し離れたところにあるのだけれど、名店とか呼ばれていて何回も雑誌とかに紹介されていた。
僕はいつも他のギャルソン(ウェイターのことだ)と同じ服装だけど、皿洗いにまわされている。
高校に受かってからすぐ面接に行った。しばらく考えた後、支配人が言った。
「皆と同じように接客させたいけど、君は耳が悪いからオーダーも取れないしお客様に呼ばれてもすぐには気が付かないだろ。悪いがどうしても手が足りない時以外は皿洗いに専念してくれ」
雇ってもらえるだけで有難かった。
店のスタッフはキッチンに八人とホールに六人くらい(支配人とソムリエ、あとギャルソン)だ。キッチンはいつも人手不足みたいでよく手伝わされる。
僕をいじめるような人はいないし、いつも忙しい。洗う皿の数もとても多く、洗うのが追いつかずキッチンから怒鳴られることさえある。
チーン!
僕の後ろに置いてある呼び出し用のベルが鳴った。
「おい、皆藤。手伝え。三番と十五番にデセールの用意だ」
チーン!
また鳴った。
「皆藤! 七番と十一番、テーブル片付けてくれ」
チーン!
またかよ、皿がどんどん溜まっていく。そろそろキッチンから怒鳴られるぞ。
「おい、皆藤。五番のお客様がお呼びだ」
「シェフをですか?」
「お前だよ、お前。早く行って来い、お客様がお待ちだ。」
「え? 分かりました、行きます」
「おい、皆藤」
「まだ何か?」
「早く皿洗えよ」
「……はい」
僕は皿を洗う手を止め、タオルで手をよく拭いてからユニフォームが濡れたり汚れたりしていないか確かめた。それを怠るとどんなに忙しくても、どこで見ているのか支配人が飛んできて怒り出す。
どこにも異状がないことを確かめると、僕は五番テーブルへと出て行った。
一瞬、何がなんだか判らなかった。食事に来ているお客さんみんなが楽しそうではあったけれど、五番テーブルを皆がチラチラと見ていた。他のテーブルより華やいでいるから。
そこには、彼女が両親と一緒に笑顔で座っていた。いつも僕が困惑してしまうくらいに、思わず見とれてしまうくらいに笑顔がとても綺麗だ。
「創君、こんばんは」
彼女は僕の姿を見つけると嬉しそうにそう言った。淡いピンクのワンピースがよく似合う。とても美しい、まるでクリスマスの妖精みたい、そう思わずにはいられなかった。
「こんばんは。おじ様もおば様もご無沙汰しております。」
お辞儀をしながらそう言った。かなり緊張していたので高級店の従業員らしい挨拶ができただろうかと不安になった。
彼女の両親は優しく微笑んできた。僕の幼い頃に僕の両親と親交があり、僕ら兄弟のことをよく知っている。昔から僕のことを「創」、兄貴のことを「岳」と呼ぶ。
「創君も元気そうで何よりだ、だいぶ大人っぽくなったな。クリスマスイブにはどうしてもここで食事がしたいと薫が珍しく駄々をこねたのでね、席を取るのが一苦労だったよ。まあ、無理を承知で支配人に頼み込んだのだが何とかしてくれたよ、とにかく薫に喜んでもらえて良かった。しかし、まさかこの店で君が働いているとは思わなかったな。何回もここに来ていたのだがね。いつからここで働いてる?」
彼女の父親は、僕に聞こえるように、でも静かにそう言った。
駄々をこねた、っていう表現が彼女にはとても可愛らしく、よく似合っている気がした。でも、なぜここで食事をしたいって思ったんだろう、どうして僕を呼び出したんだろう、僕がいることを知っていたんだろうか?
ちなみに、おじさんが来ているのは見たことがない。
「この春から働いています。今日までお会いできなかったのは偶々だと思います。大変申し訳ないのですが、今たてこんでおりますのでこれで失礼します。ごゆっくりお食事をお楽しみください」
美しい彼女をずっと見ていたかったけれど、裏で増殖を続けている皿やグラスのことを考えてあっさりと引き下がることにした。
「え、もう行っちゃうの? せっかく会えたのに」
そう言われても。ますます増殖していく皿やグラスのイメージが膨らんでいく。
「ねぇ、お正月は何か予定あるの?」
彼女はそう囁いてきた。自分の耳を疑った。
「お正月はどこか行くの?」
もう一度囁いてきた。彼女の両親はこちらを見て微笑みながら二人で何か話をしていた。
「新聞配る以外に予定はないよ、恥ずかしながら寝正月」
そう答えると、彼女はなぜかまた飛び切りの笑顔を作った。
「そう、引き止めてごめんね」
「いや、こっちこそいい休憩になったよ。ありがとう」
後ろ髪を引かれる思いで、だけど今度こそ彼女のテーブルから立ち去った。
イメージした以上に洗われるのを待っている皿やグラスは増殖していた。しかもキッチンからの怒声も待っていた。
一月一日
元旦の新聞というのはどうしてこうまでかさばるのだろう、記事も多いのか本紙は厚いし、広告がまた通常の何倍も入っていて毎年配るのが大変だ。まあ、明日は休刊日で休みだからよしとするか。
配達を終えて、いつものようにシャワーを浴びてから炬燵にもぐりこんだ。いつも正月には炬燵で転寝しながらテレビを見るのが習慣のようになっている。しかも今日はとても寒い。
炬燵は日本人の偉大な発明の一つなんじゃないだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたら、珍しく電話が鳴った。兄貴は友人たちとどこだかに遊びに行って僕一人だ。
僕は電話が苦手なのでよっぽど放って置こうかと思った。だけど電話は無遠慮に鳴り続けている。仕方がないので、僕は受話器を取った。
「はい、皆藤」
「坂本だー、聞こえるかー?」
「聞こえてる」
「どうせ暇なんだろ、今から神社に来い。鳥居のところで待ってるぜ、絶対に来いよ、来ないとひどい目に遭わすぞ」
「ちょっと待て。僕は別にお前と初詣する趣味はないぞ、行きたくない」
「いいから来いよ、来たら良いことが待ってるぞ。じゃあな」
言うだけ言って切りやがった。
少し考えてから、僕は神社へ行くことにした。別に坂本の言うことが気になったわけじゃない、たまには初詣もいいかと思ったからだ。坂本がいたってどうせ二人なんだし、適当にごまかして帰ってくるとしよう。
鳥居までたどり着くと、確かに良い事が待っていた。
彼女が立っていた、とても綺麗な晴れ着をまとって。おまけつきだったけれど。しばらく呆けたように見惚れてしまった。
神様にも惚れられてしまうんじゃないか、そう思えるほどに美しかった。
近くを通る男たちは皆、彼女を見て振り返った。あまり何回も見るから連れの女の子に怒られている男もいたくらいだ。まあ当然、彼女を見てもしも何とも思わない男がいたとしたらそいつはゲイか、美的センスに大きな問題を抱えているに違いない。
彼女は少しうつむき加減で、寒さのせいか少し頬を赤く染めて立っていた。
「創君、あけましておめでとう。この着物どうかな?」
「あけましておめでとう。よく似合っているよ、とても綺麗だ」
歯の浮くような台詞が自然と出てきた。彼女は僕の言葉を聞いてなぜだか顔を真っ赤にした。
「な、良いことがあっただろ。人の言うことは聞くもんだぜ」
ドヤ顔で坂本が囁いてきた。
そして僕は生まれて初めて一人じゃない初詣をした。四人でお参りをし、おみくじを引いた。僕と彼女は中吉だった。
「あら、二人とも同じなんて幸先いいわね。ねぇ、薫」
井上さんがそう言った。確かに彼女と同じだと思うとたかがおみくじでも嬉しい。
彼女は顔を真っ赤にして井上さんに何か言っていた。
「もう、からかわないでよー、恥ずかしいじゃない」
どうやらそんなことを言っているようだ。確かにからかわれているな、それもなぜだか今日は心地良く感じる。
それから僕らは縁日を見て回り、そして別れた。
最高の正月だった。
一月十一日
今日はパン屋に寄ることができなかった。配達の途中で自転車のチェーンが外れて、予想外に終わる時間が遅かったからだ。今日も学食と購買は混雑していて、そんな中に紛れ込んでまで食事をしようとは思えなかった。
だからウォークマンと読みかけの本だけを持って屋上へ向かった。風は冷たいが日向にいると日差しが暖かくて気持ちよかった。
パコ・デ・ルシアのCDを入れたウォークマンの再生ボタンを押し、煙草に火をつけようとしたらドアの開く気配がした。僕は一応煙草を隠した。
人影が三つ、男の影が一つと女の子の影が二つ、僕のほうへ近づいてきた。
坂本、それになぜか彼女と井上さんが一緒だった。
坂本が横へ来て言った。
「やっぱりここにいたか」
ヘッドフォンをしたままだったが唇の動きで坂本がそう言っているのが判った。パコの流麗なフラメンコギターを聴きながら、無愛想な声で言った。
「何か用?」
何か用があるなら聞かなければなるまい。仕方なくヘッドフォンを外し、坂本を見た。
「何か用かってずいぶんな挨拶だな、せっかく一緒に昼飯を食おうと思ってわざわざ探してやったんだぞ」
「別にそんなこと頼んでない」
「いいじゃねぇか、人の好意はありがたく受けるべきだぜ」
「生憎と今日は昼飯を食う気分じゃない。読書の邪魔になるからどこかへ行ってくれないかな」
「相変わらずだな、お前も。お前の元気の素を連れてきてやったのによ」
「どういう意味?」
「言葉どおりさ、ほら」
坂本の後ろで彼女が何やら井上さんと話している。ああ、やっぱり綺麗だ。そんなことを思っていたら、彼女がおずおずと、思い切ったよう近づいてきた。
「あのね、今日は皆で一緒にお昼を食べようと思って、たくさん作ってきたの。よかったら一緒に食べない?」
困惑に固まっていると、井上さんが追い討ちをかけるように言った。
「皆藤君、薫のせっかくの申し出を断ったらひどい目に遭わせるわよ」
どういうことだろう、思考が一瞬止まった。
返事をする前に彼女が言った。
「今日は創君の分もあるの。ね、一緒に食べよう、創君のお箸もちゃんと用意してるの」
そして僕は彼女の手料理を食べることになった。相変わらず僕に優しくて、彼女の弁当はとても美味しかった。
「味付けはどうかな、気に入ってくれると嬉しいんだけど」
「とても美味しいよ」
そんなやり取りをした。横でおまけがニヤニヤしているのが気になったが。
でも、僕に同情して弁当を用意してくれたことは判っていた。だから井上さんと坂本が意味深に笑いながら僕らを見るのは少し面白くなかった。
僕は彼女が好きだけれど、向こうはそういう感情を抱いていないんだ。二人にそう言いたかった。そして、今の状況が僕にとって良いのか悪いのかよく解らなくなった。
一月三十一日
彼女はそれから時々僕と昼食を一緒にするようになった。僕の分の弁当を用意してくれていることもあれば、そうでないこともあった。いつもおまけが一緒で、二人きりじゃないのが気に入らなかったが。
僕のことを非難していた連中はいつの間にかおとなしくなっていた。
今日は一人で屋上に来ていた。こんな寒空の中わざわざ屋上に来る馬鹿もいない。もちろん彼女も来ていなかった。スライ&ザ・ファミリーストーンのCDを聴きながら昼飯用に買ってきたパンを食べ終え、煙草に火を点けた。
テニス部のキャプテンを殴ってから仕返しとかがあるかと思っていたが、どうやらずいぶんとおとなしくしているらしい。彼女にも言い寄らなくなったそうで、なんにせよ良い傾向だ。
そんなことをぼんやりと考えていたら、突然ヘッドフォンが外された。
いつの間にか坂本が横に座っていた。
「無用心だな、俺が先生だったらどうするんだ」
指に挟まっている吸い終わりに近い煙草を見てそう言った。
「別にどうともしないさ。ところで何の用?」
「お前、知ってるか?」
「何を?」
「神田の恋の相手」
心臓が止まるかと思った。教えて欲しいのは僕のほうだ。
「僕が知ってるわけないだろ」
声が上ずっていないだろうかと心配になった。
「そうか?」
「そうさ」
「お前、相変わらず面白い奴だな」
「お前に言われたくないな」
「お前、彼女のことどう思ってる?」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
きわめて冷たい口調で言えた。
坂本はため息をつきながら呟いた。
「本当に素直じゃないなぁ」
よく聞こえなかった。
「何か言った?」
「いや、独り言だ」
「そう」
「ところで、運命の日までもう二週間ほどだな」
「何だそりゃ?」
運命の日って何だ? ああ、バレンタイン・デーのことか。こいつも世間に踊らされている口か、でも期待する気持ちはわかる。僕は煙草をもみ消した。
「気にしても仕方ないだろ、なるようにしかならないよ」
「俺はお前ほど達観してないんだ、それにな」
坂本はそう言って、また僕に聞こえないような声で呟いた。
「お前はもしもらえるとしたら確実に本命チョコだもんな」
「何か言った?」
「いや、独り言だ」
「今日は独り言が多いな、何かあった?」
「何もないさ。ただな、俺もお前も彼女も素直じゃないってのがよく解ったよ」
彼女って誰だ? まさか、いや、そうじゃないだろう、違うに決まっている。
「じゃあな、邪魔して済まなかったな」
そう言って坂本は屋上から出て行った。どうしたんだろう?
二月九日
ポリスのCDを聴きながら、いつものように屋上で煙草を吸っていた。ドアの開く気配がしたので、一応煙草を隠した。
井上さんだった。少し思いつめたような表情で僕のほうに歩いてきた。
「やあ」
とりあえずそう言ってみた。
「こんにちは、相変わらず独りなのね」
「まあね、ところで何かあったの?」
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく。何か思いつめているみたいだし」
「聞きたいことがあるのよ」
「僕でよければ何でもどうぞ、質問によっては答えないけど」
「意地悪ね、前に聞いたことじゃないわ」
井上さんはそう言って、しばらく黙った。そしてこう言った。
「坂本君って、誰か好きな人いるのかな?」
驚いた、井上さんは坂本のことが好きなのか。
「坂本のこと、好きなの?」
「そうよ、悪い?」
別に悪いとは言ってないだろ、苦笑して井上さんを見た。
「参考までに聞くけどいつからの付き合い?」
「同じ中学だったの」
「ちなみに好きだと思ったのはいつ?」
「どうでもいいでしょ、そんなこと」
踏み込みすぎたか。別に隠すことでもないので、僕は知っていることを正直に話した。
「誰かは知らないけど好きな人がいるみたいだな、自分は素直じゃないって言ってた」
「そう」
なんかすごくがっかりしてるな。
「でも、バレンタインデーをすごく期待してた。チョコがもらえるかどうか気にしていたな」
「そう」
今度は嬉しそうだ。
「チョコあげて告白してみたら? ずいぶん前に『やってみなくちゃわからない』って僕に言ったよね。井上さんのその言葉がなかったら今でも彼女とは昔のように話せなかったよ、そういう意味では感謝してる」
あいつは井上さんのことをいつも見つめていた。一緒に食事していた時、坂本はこの子が好きなんじゃないかって思わせる雰囲気だったから多分そうなのだろうと思う。でも、そこまでは言わなかった。もし違っていたら嫌だから。
井上さんは何か決心したように頷いて去っていった。
坂本の好きな人が井上さんだったら良いな、本心からそう思えた。
彼女の好きな人が僕だったら良いのに。
二月十二日
「おい、皆藤、聞いたか?」
「おい、顔をあわせるなりいきなりそれか?」
僕の言い分を無視して、坂本は話を続けた。
「また昨日、神田に告白した奴がいたそうだ。今度は五組の進藤だって」
「そう」
「あいつも頭がよくて顔がよくて運動もできる。女の子の人気は抜群だ」
「そうだね」
「どうだったか知りたくないか?」
「何が?」
「何がってお前、本当に面白い奴だな。お前の好きな女の子が何人もの男に告白されてるんだぜ、しかもどいつもお前よりは数段上等な奴ばかりだ。何とも思わないのかよ」
「僕が彼女のことを好きだなんて、何を根拠にそういうことを言うのさ」
「何を今更。まあ、とにかく教えてやる。また断わってるぞ、彼女。今度もすごく好きな人がいるから付き合えませんって言ったそうだ。進藤も泣いてたぞ」
「ふーん」
「良かったな、希望が持てるだろ」
「どういう意味?」
「言ったとおりの意味さ」
確かに希望は持てる、確率的には分が悪すぎて賭けにもならないが。
「ところで坂本」
「あ?」
「お前はどうなんだよ」
「何が?」
「好きな人いるだろ」
「どうでも良いだろ、そんなこと」
「まあそれはそうなんだけど、ある女の子が『お前に好きな人がいるか知っていたら教えろ』って訊きに来た。ずいぶんと気にして僕のところにまで来るぐらいだからな、かなり慕われてるね」
「ある女の子って、誰だよ」
「さあね」
「教えろ」
「自分の胸に聞いてみなよ」
「そうか……」
坂本はしばらく考えていた。なんだか嬉しそうだぞ、こいつ。顔がにやけてきてる。やっぱり井上さんのことを好きなのかな。
坂本と井上さんがうまくいくと良いな。
だけど、恋の話題に事欠かないな、しょっちゅう誰かが誰かに告白している。
僕にできないことをなぜ皆そんな簡単にできるんだろう?
二月十四日
今日はセント・ヴァレンタインズ・デーだ。そのせいか昨日も僕のアルバイト先では予約が一杯で、開店から閉店までてんてこ舞いだった。今日もどうやら予約で一杯らしい。
学校では男子も女子も朝からそわそわして落ち着かない、だからといってケチをつけるつもりなんてないけど。
登校して席に着くと、坂本がこれ以上ないくらいの幸せ一杯といった笑顔で教室に入ってきた。どうやら朝一番でチョコをもらえたらしい。井上さんはどうしただろう、冷やかし半分で訊いてみた。
「チョコをもらえたみたいだね」
「ああ、世界は全て俺の味方だ。俺は今日ほど生きていて良かったと思ったことはない」
ずいぶんと大げさな奴だな。
「でも、義理でしょ」
「ふふん、大はずれ、本命さ」
ずいぶんと勝ち誇ったような返事だった。
「そうか、大好きな井上さんからもらえたのか、良かったね」
「なぜそれを知ってる?」
世界の幸せを独り占めしているといった表情が一転した。驚愕しているといったところだろうか、ちょっと探りを入れただけなんだけれど大当たりだったらしい。
「見ればわかるさ。好きな女の子からチョコレートをもらってしかも愛の告白をされました、って顔に書いてあるよ」
奴は顔を撫で回している。本当に顔に書いてあるとでも思ったのだろうか。
「なぜ井上だってわかった?」
「前から顔に書いてあったよ、『僕は井上さんのことが好きで好きでたまりません』てね。それに僕に相談してきたのは井上さんだもの」
いつもの仕返しにからかってやった。
「鈍感を絵に描いたようなお前にそんなこと言われるとは思わなかったぜ」
「その言い方はひどいな、これでも祝福してるんだよ」
「そうか?」
「そうさ、おめでとう」
今度は冷やかしじゃなく、本気で言った。
「次はお前の番だな」
「そう言われてもね、向こうにその気がなければうまくいかないって」
もう坂本には好きな女の子が誰なのか知られているのが判っていたので、素直にそう言った。
「俺はうまくいくと思うがな、皆藤」
坂本が言った言葉は教室の騒がしさにまぎれて、僕の耳に届かなかった。
自慢じゃないが生まれてから一度もバレンタインにチョコなんてもらったことはない。もちろん義理チョコすらもらったことはない。
その時彼女が教室に入ってきた。なにやら思いつめた表情をしている。具合でも悪いのだろうかと少し心配になった。彼女のところに朝の挨拶をしに行こうとしたら先生が入ってきて、授業が始まった。
午前中、彼女はずっと思いつめたような表情だった。僕はどうすることもできず、ただあの綺麗な横顔を見ていた。
昼休みになった。彼女のところに行こうかと思ったが、気がついたら姿が見えなくなっていた。仕方なくいつものように登校途中に寄ったパン屋の紙袋と読みかけの本、そしてウォークマンを持って屋上へ行った。
ピアノトリオのジャズを聴きながら、独りの食事を終えた。僕は煙草に火をつけて、読みかけの本を読み始めた。だいぶ読み進んだところで屋上のドアの開く気配がした。
誰かが僕のほうへやってくるのがわかった。だけど本から顔を上げることもせずヘッドフォンを外すこともしなかった。突然目の前で手がひらひらと舞い、用事があることを示した。ヘッドフォンを外し手の持ち主を見ると、井上さんだった。
「やあ」
とりあえず、そう言ってみた。
「今日の放課後は時間ある?」
そう聞いてきた。ずいぶんと唐突だけど少し困ったような表情が見えた。坂本とうまくいったんじゃないのか。
「少しなら。坂本と何かあったの?」
思わずそう答えていた。
「私と坂本君のことじゃないのよ。私たちのことは感謝してるわ、あの時後押ししてくれなかったら両想いだったなんてずっとわからないままだった」
「おめでとうと言わせてもらうよ」
「ありがとう」
井上さんは照れて頬を赤く染めているようだ。
「とにかく、放課後にここに来てもらえないかしら。来ないとひどい目に遭わせるわよ、そのかわり、来たら良いことが待ってるから」
井上さんは脅しだか何だかわからない言葉を残して行ってしまった。
どこかで聞いた台詞だ。
放課後になった。午後の授業中も彼女はずっと何かを考えていたように見えた。
僕は井上さんに指定されたとおり、帰り支度をして屋上で待っていた。行かなかった時に坂本と井上さんからセットでひどい目に合わされるのは嫌だと思う気持ちが半分、良いことが待っていると言われて期待した気持ちが半分。
誰も来ないので手持ち無沙汰で煙草に火を点けた。
三十分待っても誰も屋上に来なかった。僕は時計を見て、もう学校を出ないと仕事に遅刻することを知った。仕方ない。後で何を言われるかわからないがこっちにだって都合ってものがあるのだ。
屋上からそのまま下駄箱へ向かった。ちょうど靴を履き替えているところに例の二人が走ってきた。
「悪いけどもう時間がないんだよね。何の用か知らないけど明日にしてくれないかな。もう行かないと遅刻するから」
「ごめんなさい、こんなはずじゃなかったのよ」
よくわからない言い訳をされた。坂本が後ろから口を挟んできた。
「まあ今日が終わるまでまだ時間はあるさ。ところで今日は何時まで仕事なんだ?」
「十一時半か十二時ごろまでかな、今日も忙しくなりそうだから」
「そうか」
二人でぼそぼそと話し始めたぞ。こっちは時間がないっていうのに。
「まったくあの子ったらここまできて渡さないなんて、信じられないわ」
「まあまあ、こんな奴じゃ迷っても仕方ないだろ。彼女を責めるなよ」
話の内容はつかめないが少しは聴こえてるぞ、こんな奴って言うのはひどいだろ。
「他に用がないならもう行くよ」
「ああ、引き止めて悪かったな」
時間ぎりぎりで店に着いた。予想通り、開店から閉店まで忙しかった。僕は洗い場とキッチンとホールを足を引きずりながら駆け回り、全ての洗い物と掃除を済ませ、へとへとになって店を出た。
時計を見たら十一時四十五分だった。
僕は自販機でホットミルクティーを買い、公園で一服することにした。その公園は比較的広くて、公園からは店が見える。缶のふたを開け一口すすってから煙草に火を点けた。ほっとして煙を吐き出した時、人影に気がついた。だけど公園を通り抜ける人をいちいち見たりはしない。そのまま気にも留めずにミルクティーを飲み、煙草を吸った。だから、その人影がすぐ横に立ったことに気がつくまでに何秒もかかってしまった。
「こ、こんばんは」
声のした方を見ると、なぜか彼女がそこにいた。
「やあ、こんな遅くにどうしたの、おじさんたちが心配してるんじゃない?」
「パパとママにはちゃんと話してきたから。それに、どうしても今日中に渡したい物があったから創君が出てくるのを待っていたの」
渡したい物、しかも今日中? 僕の心臓は期待で破裂しそうなくらいになった。
「あの……」
「……な、何?」
「あ、あの……これ、もらって欲しいの」
彼女は葉書くらいの大きさの箱を僕に向かって差し出した。
「これって、もしかして……」
「う、うん、チョコレートなの。バレンタインデーに創君に食べてもらいたくて、作ったの」
いきなり手作りですか、そんなことされると僕は誤解してしまうよ、期待しても信じても良いのかな、君は僕のことが好きだって。
「ありがとう。その……なんて言ったら良いかよくわからないけどとにかく嬉しいよ。バレンタインデーにチョコをもらうなんて生まれて初めてだ」
ふと公園の時計を見た。十一時五十八分。彼女も公園の時計を見ていた。
「良かった、今日中に受け取ってもらえて。本当に嬉しいわ」
彼女は何だか泣きそうな、でも本当に嬉しそうに笑いながら言った。
「夜道は危ないから送っていくよ、途中までは同じ道だしね」
「ありがとう、創君。相変わらず優しいのね」
僕が? 優しい? 冷たいと言われることは多くても優しいなんて言われたことはないぞ、優しいのは君のほうじゃないか。
困惑を抱える破目になったが一緒に帰った。途中ほとんど会話らしい会話もなかったけれど、彼女はとても嬉しそうだったので僕はその困惑を抑えこんだ。
でもチョコはもらえたけれど告白はなかった、そこが坂本とは違うところだ。
二月十五日
「俺の言ったとおりになっただろ?」
相変わらず唐突に坂本が話しかけてきた。
「何が?」
「昨日もらえたんだろ、チョコ。」
「ああ」
「相変わらずそっけないな。大親友の坂本君のおかげだ、とか言えないのかよ」
「言いたくはないな」
「おいおい、昨夜彼女はお前のバイトが終わるのを待ってただろ」
「なぜ知ってるのさ」
「この俺がお前が出てきそうな時間を親切に教えてあげたのさ、感謝しろよ」
なんで昨日こいつがバイトの終わる時間を聞いてきたのか、ようやく納得できた。
「で、告白されたか告白したか?」
「へ?」
「彼女から、好きですって言われなかったのか? 彼女に、好きですって言わなかったのか?」
「言われなかったし、言ってない。ただ、手作りのチョコをもらった」
「やれやれ、それだけかよ」
「チョコをもらえただけましだよ、しかも手作り」
「本気で言ってるのか?」
「それ以外に何の言いようがあるのさ、少なくともこちらから言う雰囲気じゃなかったし」
坂本は僕に聴こえないように呟いた。
「二人とも臆病すぎるのか?」
「何か言った? 言いたいことがあれば聞こえるように言えよ、僕の耳のことは知っているだろ」
「いや、たいしたことじゃない。悪かったな」
そして坂本はそそくさと出て行った。井上さんに会いに行ったんだろう。うらやましいな。
昼休みになった。僕はパンを買ってきていなかった。今日は昼食抜きだな、と思いながら屋上へ行こうとした。彼女の姿は見えなかった。坂本は井上さんと約束でもしているのだろう。チャイムが鳴ると同時に弁当箱を持って飛び出して行った。
屋上では、坂本が独りで弁当を広げていた。井上さんと一緒じゃなかったのか。
「今日は独り?」
坂本の横に座って聞いてみた。
「まあな」
「寂しいだろ」
「馬鹿言え」
「素直じゃないなぁ」
僕がそう言ったら、坂本は口に弁当を頬張りながら聞き取れないことを言った。
「素直じゃないのはお前らのほうだ」
「食べるか喋るかどっちかにしなよ、ただでさえ聞き取りにくいんだから」
お茶で胃に流し込んだのだろうか、奴は今度は僕にわかるように言った。
「お前らを見ているとイライラするよ」
「どういう意味?」
「皆藤、お前もういい加減に告白しちまえ」
「え……」
「結果はどうあれ、今よりも状況は良くなるはずだと思うぜ」
「そうかな、状況は結果次第だと思うけれど」
「いや、絶対良くなる。だから断わられたらどうしようとか思わないで思い切って告白しちまえ」
ここまではっきり言われるとは思ってもいなかった。僕は言葉を失って、しばらく考え込んでしまった。黙り込んでいたら井上さんが屋上へやってきた。
「あら、なにかあった?」
「今こいつに『断わられたらどうしようとか思わないで思い切って告白しろ』って言ったところさ。そしたらこいつ、この状態で固まってる」
「あら、竜太もたまには良いこと言うじゃない」
竜太は坂本の名前だ、坂本竜太。ちなみに井上さんは久美子という名前だそうだ。
それはともかく、僕は彼女のことがずっと好きだった、もちろん今でも好きだ。だけど、自分の気持ちを伝えるなんてできなかった。
僕が好きだと思うのと同じように、彼女にも好きだと思って欲しかった。愛していた、愛している、愛されたかった、愛されたい、僕にできるのはそう思うことだけだった。
それだけで僕は今まで生きることができたのだと信じている。でも、この二人はそれでは駄目だと言う。その先へ進むべきだと、思うだけでは駄目なのだと。
二人の言うように告白してもし断わられたらどうする、その恐怖を正直に言った。
「告白するのは簡単かもしれない、でも行動には必ず結果が伴う。もし断わられてしまったら僕の全てがなくなってしまうよ、今まで積み重ねてきた自分自身の全てが」
井上さんが何か言ったみたいだ。坂本がムッとした表情で何か言っている。
「薫がうらやましいなぁ」
「何だよ、俺じゃ駄目なのか?」
よく聞こえなかったので、彼らのやり取りを無視して言葉を続けた。
「もちろん、彼女が僕を好きだという可能性を全然期待していないわけじゃない、だけどあまりにも分が悪すぎて賭けにもなりゃしない」
「それでも賭けなきゃいけないんじゃないか?」
坂本が僕にはっきりと聴こえるように言った。彼の横で井上さんが「そのとおりよ」とでも言うように頷いていた。
「あまりにもハイリスクすぐる」
「でもハイリターンだろ」
坂本がにやっと笑って囁いた。
確かに、彼らの言うことも一理ある。またしばらく考えてから僕は言った。
「告白しようと思う。だけど君らに言われたからじゃない、ここらで僕の人生にけじめをつけるつもりになったからだ。だからいつ言うかはこれから決める。仮に僕の全てが失われることになったとしても、今までの人生が無駄だと決まったとしても、それは全て僕自身の責任で彼女のせいじゃない。結果がどう出たとしても今まで以上に好きになることはあっても、嫌いになったり恨んだり憎んだりはしない。僕にはそんなことはできない。天地神明に誓って言うよ」
井上さんがまた僕に聞こえない声で坂本に言った。
「良いなぁ、今の言葉、薫に聞かせてあげたい」
「なんかすっげームカつくほどキザなんですけど」
「そこが良いんじゃない、あの子なら泣いて喜ぶわ」
「教えてあげたらどーよ」
「終わってからね」
僕のそばで何だか聴こえないやり取りをされていると気になるな。
「さっきから二人で何を話してるんだよ、言いたいことがあったら僕に聴こえるように喋ってくれってば」
「ごめんね、もう終わったわ」
軽くあしらわれてしまった。
三月九日
告白すると二人に宣言はしたが、全然実行できなかった。いろんな事情があったのだけれど、意気地がないと言われれば確かにその通りだった。
期末試験も終わり、僕はいつものように屋上で煙草を吸っていた。今日はウォークマンにショパンのピアノ曲集のCDを入れている。
坂本がいつの間にか僕の横に来ていた。
「まだ彼女に言えないのか?」
「ああ」
「……はぁ」
どうやら呆れているらしい。沈黙が僕らを支配した。
「ところで皆藤」
「ん?」
「ホワイトデーが近いな、何をあげるんだ?」
「そうだな、全然考えてなかったよ」
呆れ果てているらしい。怒ったような口調で言った。
「チャンスじゃないかよ、彼女の好きなものをあげて告白しろ」
「そうしようと思ってはいたんだ」
「で、何をあげるんだ?」
「さっき言ったろ、何も考えてない」
正直なところ、僕は今、彼女のことを考えている余裕がなかった。
「いったいどうした、何かあったのか?」
「……学校を辞めなきゃいけないかもしれないんだ」
「どういうことだよ」
「言葉どおりさ。経済的な理由で、情けないけど辞めなきゃいけないかもしれないんだ。もっとバイトしないと飯が食えなくなる」
坂本はセメントで固められたように動かなくなった。
「理由を話してくれ」
「話したところでどうにもできないさ。それに、これは僕の問題だ。これ以上言うと自分が情けなるから聞かないでくれよ」
「……う」
坂本は黙ってしまった。別に言いたくないわけじゃなかった。誰かに愚痴を聞いて欲しかった。だけど、言ったからといってどうなるものでもないのだ。それでも、口から勝手に言葉が出てきた。
「兄貴が倒れた」
「何だって?」
「甘えて家賃や食費のほとんどを出させてたつけが回ってきた。先週倒れてさ、過労が原因で内臓がぼろぼろだって」
話していて涙が出そうになった。
「今朝の段階だとどの程度の治療が必要でいつまで療養が必要か、まだ医者にもわからないらしい。精密検査の結果を待っているって言ってた。意識ははっきりしててさ、今朝も病院へ寄ってみたら『早く学校へ行け、試験はちゃんと受けろ』って、そう言って病室から追い出された」
「そうか……」
「兄貴は連鎖するのを恐れてる、次は僕じゃないかって。確かに、治療費やいろんな費用を稼ぎ出すには兄貴の分以上に働かなきゃならない、もう一つ二つバイトを増やさなきゃならないのは事実なんだ。学校に通いながらなんてそんな器用な真似が僕にできると思う?」
「そうだったのか……」
聞いてはいけないことを聞いたと思ってるだろう。
「悪いけど今話したことは忘れてくれ、誰にも言わないでくれ。僕自身がどうするかを決めて、行動した結果が出るまでは誰にも言わないでくれ。特に井上さんと彼女には黙っていて欲しいんだ、勝手な言い方で申し訳ないんだけど」
「……わかった」
そう言ってくれた。
三月十四日
この二日ばかり学校を休んでいる。
兄貴が倒れてから新聞配達のアルバイトは辞めた。そのかわりにつてを頼って時給の高い水商売のバイトを増やした。レストランの仕事が終わる時間からでも雇ってくれるキャバクラだ。嫌いだった補聴器もつけた。毎日夕方から朝まで働いて昼間に眠る習慣になりつつある。
ガンガン、ガンガン。ガンガンガンガン、ガンガンガンガン。
その時も出しっぱなしの炬燵にもぐりこんで浅い眠りに就いていた。このへたれた耳にドアを乱暴に叩く音が聞こえてきていた。僕の住んでいる公営住宅のドアは薄い鉄製で、ノックをするといつもガンガンと響く。
ぼんやりとした脳を無理やり揺さぶり起こして、来客が誰なのか見に行くことにした。
井上さんと坂本がドアの前に立っていた。
「やあ」
「いったいどうしたっていうのよ?」
井上さんが怒ったように言った。脳が半分眠っているまま僕は答えた。
「どうもしないさ、ただ寝坊しただけだよ」
時計を見たら昼の一時を過ぎたあたりだ。学校は短縮授業とやらで午前中だけのはずだ。僕は授業が始まる頃に帰ってきたのでまだ四時間程度しか眠っていなかった。
「今日が何の日か解っているんでしょうね?」
「何だっけ?」
「呆れた。もう知らない!」
井上さんは寝ぼけた僕の答えに激怒したらしく、そのまま出て行った。坂本は置いてけぼりを食らっている。
「すまん、お前がどういう状態か話してないんだ。だから悪気があって怒ってるわけじゃない、許してやってくれ」
「いや、気にしてないから。それよりも黙っていてくれてありがとう」
「で、どうするんだ?」
「今月一杯にした」
もう決心していた。そして既にレストランの支配人に事情を話して、いつでもランチタイムから働けるようにしてもらっていた。
「そうか」
「明日には担任に話すつもりさ。いろいろと世話になって……もう話すこともないだろうから、先にお礼を言っておくよ。今までありがとう」
「礼なんていいさ。でも、このままでいいのか?」
「何を?」
「彼女のことさ、何も言わずに辞めちゃうのかよ、最後に一言くらい言ってやれって」
「そうだね」
僕は久しぶりに彼女の綺麗な横顔を思い出した。そして呟くように言った。
「明日も授業は午前中だけ?」
「そうだ」
「明日、職員室に顔を出してから……やっぱり彼女に言うことにするよ。前に話してた内容とはずいぶん違うことになったけど」
「そうか。じゃあ、待ってるぜ」
三月十五日
キャバクラの仕事が終わったのは朝の八時近くだった。僕はそのまま眠らずに制服に着替え、学校へ向かった。朝のホーム・ルームが始まる前に担任には話しておくしかないと思っていた。
学校に着いてその足で職員室へ向かった。担任は親切に他の手段がないのか考えてくれて、学校を辞めないように言った。でも他に方法がないことを説明して退学届けを出した。担任はせめて今日の授業までは受けるようにと、一緒に教室に行こうと言ってくれた。僕はそれを丁重に断わり、クラスの連中にも話さないでくれと頼んだ。教師は渋ったが、頭を下げて頼み込んだら最後には納得してくれた。
僕にとっての最後の授業が終わり、彼女の席に近づいた。近づいてきたのが僕だとわかって、とても悲しいような複雑な表情をした。
「神田さん、少し話があるんだ、屋上まで来てくれないかな。僕は先に行ってるから」
「何かあったの?」
その問いかけには何も言わずに首をかしげて答え、そのまま屋上へ行った。
すぐに彼女は屋上へ上がってきた。相変わらず屋上には誰もいない。
「昨日はごめん、チョコのお返しをしたかったんだけれど結局できなかった。寝過ごした、いや、その前にお返しする物すら用意しなかった。本当にごめん」
「やっぱり何かあったのね?」
彼女は相変わらず勘が鋭い、そして綺麗だ。
「今日で学校を辞めることにしたんだ」
「え、嘘?」
「いや、本当。退学届けは今朝提出した」
「なんで、どうして?」
「理由は聞かないでくれないかな。もしどうしても気になるんだったら坂本に聞いてくれ。あいつには嫌な役目を押し付けることになるけど」
「嫌よ! 創君から何も聞かないで別れたくない!」
彼女が叫ぶところなんて初めて見た。仕方ないので言うことにした。
「先々週、兄貴が倒れてさ、もっと働かなきゃダメなんだ。学校に通う余裕なんてなくて」
彼女は言葉を失って、呆然と僕を見つめた。
「ずっとこのままでいられると思ってた。だけど今日でお別れだよ、今まで長い間いろいろと親切にしてくれてありがとう、感謝してる……」
そこまで言った時に、目から熱い水が流れ出し頬を伝った。そして思いがけない言葉が口から出てきた。
「ずっと君のことが好きだった、こんな僕にいつも優しくしてくれる君が好きだった。いつも君を見ていた、ずっと見ていられると思ってた。最後にこんなことを言うのは卑怯かもしれないけれど、でも、もう終わり。さよならを言わなきゃ」
彼女は泣きながら僕を見つめていた。こっちはもう冷静さを取り戻していた。
「じゃ、元気でね」
最後に僕はそう言って立ち去ろうとした。バッドエンド、選択肢を間違えたのではなくて、状況が僕の恋を許さなかった。
「待って!」
彼女がまた叫んだ。
「私も創君のことがずっと好きだったの! でもずっと言えなかった……最初は同情だったかも知れないわ、でもいつも私に優しくしてくれて、いつの間にか創君のことばかり考えるようになったの。私はいつも創君を見ていたわ! ようやく願いが叶ったのに! こんなに急にお別れだなんてひどすぎよ! もう会えないなんて私、どうしたら良いのかわからないわ!」
皮肉なものだ、最後の最後に分の悪すぎる賭けに勝ったなんて。もし神様がいるのだとしたら、そいつはきっととびきりのサディストに違いない。
それでも、状況はバッドエンド、これ以上何もできない。僕にも、もちろん彼女にも。
「気持ちが通じて嬉しいけど僕はもう学校に来ない、そして君に会うこともない。これは変えられないんだ。だから、君にはこれから素敵な恋をして欲しい、そして幸せになって欲しい。今はそれだけが、僕に許されているたった一つの願いごとなんだ」
彼女は泣き続けていた。真っ赤な目で僕を見つめながら、僕の言葉を聞いていた。
「嫌よ嫌! 創君と離れるなんて絶対に嫌! この学校に来たのだって創君がいたからなのよ! 嫌よ嫌よ嫌! 離れたくない!」
彼女は泣きながら、そう叫びながら抱きついてきた。今までの悩みはなんだったんだろうかと思いながら、努めて冷静に言った。
「僕だって離れたくない、だけどそんな状況じゃない。だからさよならなんだ」
抱き続けていたかったけれど我慢した。そして最後に万感の思いを込めて強く抱きしめた。そして引き離して屋上から立ち去った。
振り返りたくなるのを我慢するのが大変だった。
それでも、彼女が泣き崩れるところが目に入った。
三月三十一日
彼女と学校に別れを告げてから、毎朝十時過ぎにレストランに行き、レストランが閉まってからキャバクラで朝方の閉店まで働いている。
精密検査の結果、兄貴は二ヶ月の入院安静、三ヶ月の自宅療養が必要と診断された。兄貴は、その後も仕事の量を減らすように指示されていた。兄貴は何だかほっとしたような、とんでもないことになったとでも言うような、何だか複雑な顔で医者の話を聞いていた。
そして僕は退学した翌日にとんでもなく怒られた。退学することを相談もせずに決めたからだ。死んだほうがましなんじゃないかと思うくらいの罵声を浴びた。僕のことを思って言うのだと思うと何も言い返すことができなかった。どんなに罵声を浴びても、彼女と別れた時よりつらくはなかった。
ちなみに今も顔を合わすたびに馬鹿呼ばわりされている。
チーン!
僕の後ろに置いてある呼び出し用のベルが鳴った。
「おい、三番のお客様がお前をお呼びだ」
支配人が僕にそう言った。
「……すぐ行きます」
僕は身だしなみを整え、ホールとキッチンの間にある大きな鏡でおかしな所がないことを確認してホールに出て行った。
僕を呼び出した三番テーブルには、彼女の両親が難しい表情をして座っていた。
「いらっしゃいませ。ご無沙汰しております」
「挨拶はいい、だいぶやつれたな。薫から聞いたが学校を辞めたそうだな。支配人からも聞いたが朝から晩まで働いているそうじゃないか、ここが閉まってからもどこかで朝方まで働いているとも聞いたぞ」
彼女の父親は息も継がずに言った。
「なぜ頼ってくれないんだ、昔からの付き合いじゃないか。しかも私は君のご両親とは学生時代からの友人だ。なぜ一言の相談もなしに退学届けを出すなんて真似をしたんだ?」
「申し訳ありません。おじ様にご相談すれば助けて頂けることはわかっていたのですが」
確かにおじさんに相談すれば金の苦労なんて感じなくても済んだはずだ。でも僕らは今まで一回も金の相談をしなかった、何の相談もしなかった。彼は僕らにとても親切だったし、裕福な家柄だから金なら何とかしてやるとすぐに言いそうだった。
「なぜしなかった?」
「仮におじ様から援助していただくとしても、僕ら兄弟がそれを諾々と受け入れる性格ではないことはご承知頂いていると思います」
「む……」
「僕ら兄弟が公的な援助以外を受けずにいたのは自立した人間となることを目指したからです。経済的な自立が必要な理由はお分かりいただけると思いますが。経済的な自立なくして精神的な自立もありえないのでは?」
僕ら兄弟は間違っていたのだろうか? 僕は間違っているのだろうか?
「君の言いたいこともわかる。しかし私たちは薫の気持ちも考えてやらねばならんのだ。君が学校を辞めてから薫は部屋に閉じこもったまま出てこないのだよ、泣き続けているらしく、食事もろくにしていない。今は春休みで学校に行く必要がないからまだ良いが、このままでは薫の将来が心配でならん」
それまで黙っていた彼女の母親が静かにこう言った。
「一言で良いから声を掛けてあげて。休みはあるでしょ、その時は薫と遊んでもらえないかしら」
「冷たい言い方で申し訳ありませんが、残念ながらご要望にはお応えできかねます」
「なぜだ」
「休日はほとんどありませんし、それに退学した日に薫さんとは別れを済ませています。これ以上どうこう思うのはただの未練でしかないと思っています」
僕だって彼女の顔が見たい、声が聞きたい、愛したい、そして愛されたい。
「そうか、よくわかった。君が信頼するに足る人物であることはよく判っている、可愛い娘の好きな男が君で良かったと思っている。恋人同士になってくれればとも思っている。何しろ私たちは君たちをずっと応援していたのだよ。しかし、状況が二人を引き裂いて、そしてそれを甘んじて受け入れるというなら、君の思うとおりにするしかないだろう」
告白する前から親公認だったなんて、この世の中はなんて皮肉にできているんだろう。
彼女の母親は夫が僕に示した理解について反対した。あくまでも娘に会わせたい、そして僕らを恋人として交際させたいのだと、両想いの二人を添い遂げさせてあげたいのだと。誰よりも僕がそうしたかった、そう、他の誰よりも。
だけど世界は不条理で満ちていて誰にもどうすることもできない。
彼はしばらく黙って考えて、悲しそうな、沈痛な面持ちで言った。
「これ以上は何も言うまい。しかし、最後にこれだけは言っておこう、私たち二人はいつまでも君と薫の味方だ。もし気が変わったらいつでも来たまえ、歓迎するよ」
彼女の母親は大きく頷いて、彼の言葉に同意を示した。
四月十六日
「おい、皆藤」
支配人が僕を呼んだ。
「今日の七時からの予約客な、六番は全部お前が担当しろ」
「なぜですか?」
「お前をご指名だ」
予約リストを見ると、「六番 坂本様 二名 サービス皆藤指名」と書いてあった。
「僕ぐらいのお客様では?」
「そうだな、電話の声はお前ぐらいの年頃だったな」
多分あの坂本だろう。井上さんと来る気なんだろうか。
「誰か別の人にしてください」
「なぜだ」
「高校の同級生だと思うんです。今の僕には彼らに会う資格なんてないです」
支配人はしばらく考えてから言った。
「わかった、俺が代わってやる」
「よろしくお願いします」
坂本よ、気持ちはありがたいが、僕にとっては何もかも過去の存在なんだよ。今しなければいけないのは何も考えずに働くこと、ただそれだけなんだ。
彼らは予約した時間通りにやってきたようだ。予想通り、坂本と井上さんだった。僕が担当すると思い込んでいたらしく、支配人に文句を言ったらしい。
「納得してもらうのにずいぶんと骨が折れたぞ、特にあの女の子のほうにいろいろ言われた」
「申し訳ありません」
「まあ良い、それよりも今日はホールに出るなよ」
「わかりました」
今日は井上さんの誕生日らしいが坂本もずいぶんと張りこんだもんだ、食事だけでも客単価が一万円以上のこの店で。それだけ坂本が井上さんのことを好きだってことか。
陰から覗いてみた。二人の幸せそうな笑顔が見えた。
良かったな、二人とも。心からそう思えた。
四月二十三日
兄貴はまだ入院している。もう少しかかるらしい。
今朝はキャバクラの仕事で帰ってくるのが遅くなった。結局家にたどり着いたのは朝の八時少し前だった。玄関の前に誰かがいた。
井上さんだった。少し怒ったような表情をしていた。
「やあ、久しぶり」
とりあえずそう言ってみた。
「久しぶりね。おはよう、と言うよりお帰りなさいって言ったほうが良いのかしら。いつもこんな時間に帰ってくるの? レストランには何時に行くのよ」
相変わらず矢継ぎ早に言う人だ。
「いつもはもう少し早く帰ってくるかな、今日はたまたまだよ。レストランには十時には行ってる」
「それじゃ全然眠る時間なんてないじゃない」
「眠れないからちょうど良いんだ」
そう、いつの間にかほとんど眠れなくなっていた。眠っても一時間か二時間、その程度で十分な体になっていた。
「そういえばこの前レストランに坂本と来たみたいだね」
「竜太がせっかくの私の誕生日だからって奮発してくれたわ」
「それは良かった」
「それよりもどうしてあの日いなかったのよ」
「たまたまだよ」
「あなたに言いたいことがあったのよ、だから竜太が食事に行こうって言ってくれたから無理を言ってあなたのレストランにしたの」
言いたいことって何だろう。
「薫のことよ、わかるでしょ。あの子、あなたが学校に来なくなってから一度も登校してないのよ、二年生になってからも来てないの。家に行っても部屋の中で泣いたままで出てこないのよ」
何だって? 僕はいイカれている自分の耳を疑った。
部屋に閉じこもって泣いているとは聞いていたが、いまだに続いているとは。
「あなたのせいよ、いいえ、あなたを責めちゃいけないのかもしれないわ。でもあんな薫を見て放っておくこともできないの、お願いだからあの子の家に行って。行って声を掛けてあげて、お願い」
井上さんは涙声で訴えてきた。
「悪いけどそれはできないよ。おじさんたちにも同じことを言われたけど、それは未練を残すことになる。彼女にとって何のプラスにもならないよ」
「どうして?」
井上さんは泣き出してしまった。
「彼女は新しい恋を探すべきなんだよ、幸せにならなきゃいけない。今は辛くてもそのうちに僕とのことは良い思い出になるはず。こっちは何の感情も持っちゃいけない、何も考えずに休まず働かなきゃいけないんだ。そんな不人情な奴のことは忘れろって伝えといてよ」
「そんなことできるわけないでしょ!」
叫ばれてしまった。
「あの子はね、あんたじゃなきゃだめなのよ! いつも部屋に閉じこもってあんたの名前を呼んでるのよ! 寂しい寂しいって泣いてるのよ!」
そこまで想ってくれていたとは。だけど彼女は先に進まなければいけないんだ。
「どうしたら良いんだ」
そう呟いてしまった。
「決まっているでしょ、今からあの子の部屋に行って! 今でも愛してるって、そう言って!」
「だけどその後はどうしたら良いのさ、交際するって言っても休みなんかないんだ。ぬか喜びさせるくらいなら言わないほうが良いよ」
「相変わらず臆病ねぇ」
井上さんは僕に聴こえないくらいの小さい声で何か言ったらしい。
「何だって?」
「独り言よ!」
怒られてしまった。
「とにかく、まだあの子のこと好きなんでしょ! 言ってしまえば何とかなるの! やってみなくちゃわからないでしょ!」
そういえば前にも同じこと言われたな。
「悪いけど、今日のところは帰ってくれないかな、いくらなんでも少し体を休めたい。井上さんが言った事も考えてみるよ」
「そう、わかったわ」
井上さんはそれだけ言うと駆け出していった。
五月十日
兄貴が退院してきた。仕事はしていないと言うが、毎日どこかへ出かけているらしい。少し心配だ。でも、学校へ行っているのかもしれない。兄貴は僕と違って休学届を提出していたからだ。それを考えると、心がチクチクと痛む。
今朝も帰ってくるのが遅かった。家にたどり着いたのは朝の八時三十分を少し過ぎていた。玄関の前に誰かがいた。
井上さんだった。今回は困った表情をしていた。
「まだ出てこないのよ、彼女。相変わらずあなたの名前を呼んでる。おじ様もおば様もとても心配しているわ」
まだ続いていたのか。何だか悲しくなった。
もうレストランに行く支度をしなければならなかった。シャワーを浴び身支度を整える間、井上さんは何も言わず何か思いつめたように玄関に立っていた。
本当に彼女の家に僕を連れて行く気なのか、今日の井上さんなら首に縄をつけてでも連れて行くだろう。
オーケー、わかった、一緒に行くよ。結果がどう出たとしても、状況が僕らの恋を許してないことには変わりないんだ。
やってみなくちゃわからない、か。ふとそんなことを思った。前回はうまくいった。今回はどうだろう、先へ進めるんだろうか? 僕はともかくとして彼女は?
やっぱり、とでも言うのだろうか。井上さんは僕の手を引いて(連行される気分だった)、彼女の家に行った。玄関を開け僕を見つけた時のおばさんの嬉しそうな顔が朝日で眩しかった。
そして彼女の部屋の前へ行き、思い切ってドアをノックした。
「久美子でしょ? いつもごめんなさい、でも創君のいない学校になんて行きたくないの。私のことは放っておいて、お願いだから。ママ、わがまま言ってごめんなさい」
くぐもった声でそう聞こえてきた。
「違うよ、僕だ、創だよ。僕の声を忘れたの?」
「え、嘘、嘘でしょ?」
僕に負けずに疑り深いな。僕はもう一度言った。
「創だよ、ドアを開けてよ、開けて顔を見せてよ」
何だか天岩戸のようだ、天照大神が天岩戸に閉じこもり世界が闇に包まれた神話。確かに世界は闇に包まれている。彼女の世界、彼女の家族の世界。井上さんの世界。そして何よりも僕の世界が闇に包まれている。
僕が来たことで彼女の世界に光が戻るだろうか? いや、置かれている状況が同じだから闇のままかもしれない、そしてさらに漆黒の闇に包まれるかもしれない。
それでも僕は来た、来てしまったんだ。
なにやら中でばたばたと騒がしい。井上さんを見たら頷いてこう囁いてきた。
「恥ずかしいから身支度してるのよ、しばらく待ってあげて」
騒がしい気配がやんで、ようやく天岩戸が開いた。世界は再び光に包まれた。
二ヶ月ぶりに見る顔は少しやつれていて、ずっと泣いていたのか目が腫れぼったくしかも充血していた。それでも彼女は綺麗だった。
何も言わずに泣きながらしがみついてきた。
どうしたら良いのかわからなくなって井上さんとおばさんのほうを見たら、いつの間にか二人ともいなかった。
彼女に抱きつかれたまま部屋に入り、ドアを後ろ手に閉めた。そして、抱きしめられたままで泣き止むのを待っていた。彼女の涙がシャツににじんだ。僕のシャツは涙が染みて暖かくなって、そして冷たくなっていった。
しばらくしてようやく泣き止んだので、とりあえずこう言ってみた。
「やあ、久しぶり、会えて嬉しいよ」
「ずっと会いたかった。毎日、創君のことを考えて泣いてたわ、ようやく会えたのね、大好き、もう離したくない」
そして僕の顔を、見られている僕が恥ずかしくなるほど見つめて言った。
「ずいぶんとやつれちゃったのね、お仕事大変なんでしょ、体は大丈夫?」
何でこんな時にまで優しいんだろうか。時計を見たらレストランの出勤時間を過ぎていた。電話を入れなきゃ、そう思った。
「僕は大丈夫。ごめん、ちょっと待っててもらえるかな、電話をしなきゃならないんだ」
「ええ、待ってる」
優しい笑顔だった。ずっと見たかった、あの美しくて優しい笑顔だった。
支配人に今日はディナーからにしてもらえないかと尋ねたら、珍しく優しい声音で言って寄こした。
「わかってる、今日は有給をやるから休め」
急に休みになってしまった。しかも有給休暇だ。
まだ嬉しそうな顔をしていたおばさんに電話を借りたお礼を言った。何もかもわかっているというような笑顔がくすぐったく感じた。
そして急いで彼女の部屋に戻った。戻った途端に、彼女は離すものかと言わんばかりに抱きついてきた。
「ごめんね、支配人に遅れるって電話してたんだ」
「私のせいで、ごめんなさい」
「いや、君のせいじゃないよ、ここに来たのは僕の意思だ。休みがもらえたのは予想外だったけど」
「じゃあ、今日は一緒にいてくれる?」
「もちろん」
僕は抱きしめられながら彼女の髪を撫でた。彼女の顔は、あっという間に今まで見た中でも最高の部類に入る笑顔になった。
そして思い切って言ってみた。「やってみなくちゃわからないでしょ」と井上さんの声が頭の中で響いていた。
「神田さん」
「薫って呼んで」
「薫さん、あんな別れ方をしてごめん。今でも君のことが好きだよ、別れた時以上に好きになってる。だけど、好きだからこそ君には先へ進んで欲しいんだ、僕のことを忘れて新しい恋をして欲しいんだ、幸せになって欲しいんだ」
「相変わらず優しいのね」
優しいって、僕が? これだけひどいことをしたのに?
「でもね、創君、私はあなたでなければ駄目なの。あなたが学校からいなくなって、はっきりとわかったの、今まであなたがいたから生きることができたんだって、はっきりわかったの」
何も言えなかった、言葉が出てこなかった。同じことを思ってくれていたなんて。思考がループした。それでも、無理やりに言葉を吐き出した。
「気持ちは嬉しいけど、状況が僕らを祝福していないのは変わっていないんだ。君のいる学校にはもう戻れない、休みもほとんどない、眠る時間だって少ない。状況を司る神様に恨まれているみたいに環境は最悪で、どうしたら良いのかわからないよ。それでも君のことが好きだ、大好きだ、愛してるって言いたいんだ。でもどう対処して良いのかわからないんだ」
「パパにお願いしてみるわ、なんとかならないかって」
彼女は無邪気にそう言った。
「おじさんには何とかしてやると言われたよ」
「え、そうなの?」
「でも断わった」
「なぜ? 私と一緒にいるのが嫌なの?」
発想が飛躍しすぎだよ。
「僕が他人からの援助を甘んじて受けるような性格かどうか、君が一番良く知っているんじゃなかったの?」
「そうね、ごめんなさい」
そんなに悲しい顔をしないで、お願いだから。
「でも、私は創君の彼女になりたいの、恋人になりたい、お嫁さんになりたい。私を離さないで、会えなくっても我慢するから。一ヶ月に一度でもあなたの顔が見たいの、大好きって言いたいの、好きって言って欲しいの」
心の中で何かが弾けた。彼女を抱きしめて僕は言った。
「僕も君の恋人になりたい、恋人は君だって世界中に言ってまわりたい、離したくない、愛してるって言いたい、そして君に愛してるって言って欲しい」
そして僕らは強く抱きあった、息ができないくらいに。自然と唇を合わせていた。それは永遠に続くように思えた。
帰り際に部屋の前で、彼女が照れくさそうな顔をして言った。
「明日から学校に行くわ。私は創君の恋人なんだもの、もう迷わない」
「それは良かった。おじさんもおばさんも井上さんも喜ぶよ、もちろん僕も。僕の分まで学校を楽しんでさ、会った時にその話を聞かせてよ」
「うん、楽しみにしててね」
そう言って飛び切りの笑顔を見せてくれた。
そして僕と彼女の世界は再び光に包まれた。
結局、夜までいろいろ話をしていて、帰る時には既におじさんは帰宅していた。そして僕を呼び止めて言った。
「創君、今までの経緯がどうであれ、そして今後がどうなるかわからないとしても、私たちは君たちの出した結論に満足している。まだつらいことも多いだろうが、娘のことをよろしく頼む」
「創君、ありがとう。何時でも構わないから家に来てあの子に会って頂戴ね、あの子の幸せは貴方のところにしかないのよ。薫のことお願いね、私たちの気持ちはわかってもらえたかしら」
なんだかもう結婚するみたいな言い方だな、したいけど。それくらい彼女のことが好きなんだ。
僕は押さえ込もうとしていた自分の感情に負けた。だけど、ずいぶん前から願っていたように彼女とは恋人になれた。僕を取り巻く状況はまだ最悪だが、とても幸せな気分になれた。
キャバクラの仕事は休みじゃなかったから、一旦家に帰って行くことにした。帰ったら兄貴がいて、彼女と『恋人として』付き合うことになったと話したら、やれやれといった表情を作ってこう言った。
「今まで長かった、やっと肩の荷が一つ降りたぜ」
六月十九日
ずっと休みは取れなかった。だから忙しい合間を縫って電話をかけた。電話だとよく聞こえないから嫌いなんだけどそうも言えない。何より彼女の声が聞きたいんだ。彼女に好きだと言いたかい、好きだといってもらいたい。だから、公衆電話からでも構わず電話をかけている。
朝方に帰ってみると早い時間にもかかわらず兄貴が起きていた。兄貴は頭が良かったので高校生のくせに塾の講師のアルバイトを見つけていた。かなり時給も良いらしく、これ以上は増やさないと言い切った。
体に負担がないのなら問題ない。僕も同じくらい頭が良ければきつくて非合法なキャバクラで働くことなんてしないのに(風俗営業法とやらで十八歳未満の人間は働いてはいけないことになっているそうだ)。
そして兄貴は思いがけないことを言い出した。
「お前、レストランで夜だけ働いたとして給料はいくらになる?」
「この前時給を上げてもらえたから、十二万か十三万円だな」
「そうか、じゃあその中から八万寄こせ。それからキャバクラは今週一杯で辞めろ」
「そんなことしたら何も払えなくなっちゃうぜ、どうすんだよ」
「俺の病院代とかは高額療養費とやらである程度戻ってくることになった。お前の八万と俺の八万で家賃から光熱費そして食費まで賄える計算だ。家賃だって公営住宅の管轄部署に掛け合ったら前よりも安くなったぞ」
どうやら役所をいくつも駆け回って公的な援助を受ける算段をしていたらしい。
「でもレストランで夜だけって言ったら、時間が余るなぁ」
僕はぽつりとそう言った。そうしたら、さらに思いがけないことを兄貴は言った。
「学校へ戻れ」
「退学したんだぞ、もう一度一年生からやり直せって?」
「心配するな。手は打ってある」
「え?」
どういうことか理解できなかった。
「お前が退学したって言いに来てすぐに学校に連絡したんだ。退学届けじゃなくて休学届けにしてくれって頼んだんだよ、だから奨学金も止まってない。それにな、金の算段がついてからレストランの支配人にも俺から頼んで話を通した。支配人さんも喜んでくれていたぞ。まったくお前は馬鹿だからフォローするのが大変だ」
「馬鹿で悪かったな。でもありがとう、いくら感謝してもしきれないくらいだ。何ならキスしてやろうか?」
「そんなことしたら兄弟の縁を切るぞ、わかったら明日から学校へ行け」
状況の神様は僕に微笑みつつあるようだ。
六月二十日
言われたとおり、学校へ戻ることにした。三ヶ月くらいしか経ってないのになぜかとても懐かしい。坂本や井上さんには連絡もしなかった、もちろん彼女にも。びっくりさせたかった、そして喜んで欲しかった。
少し早めに着いて、職員室で新しい担任と話をした。一年の時の担任から細かく事情を聞いていたらしく親切な口調でいろいろと話してくれた。学力的にどの程度遅れているかわからないので個別に補習をしてくれること、新しいクラスのこと、などなど。そして、一緒に教室へ行こうと言ってくれた。今回はその申し出を断わらずに素直についていった。
担任の後ろについて教室へ入ったら、なぜだか教室が急に静かになった。
ずいぶんおとなしいクラスだな、そう思って同級生の顔を見回した。今度はこっちが静かになる番だった。
坂本がいて、井上さんがいた。二人とも口を半開きにして呆然としていた。
そして彼女が目に涙を溜めて、僕を見ていた。
あまりにもできすぎているぞ、なぜだかそう思わずにはいられず苦笑してしまった。
担任が何か言えと言うので、とりあえず挨拶した。
「皆藤創、いろいろ訳があって休学してたんだけど、よろしくお願いします」
言い終わる前に教室は冷やかしとやっかみと羨望の入り混じった歓声で一杯になった。
歓声の中、僕は教師から指定された机に向かった。一番後ろの席で、二列右に坂本がいて、三列左に井上さんがいた。そして二列前には彼女の席があった。通る時に彼女と目が合った。
思いがけないことが起きた。彼女がおもむろに立ち上がり、僕に抱きついてキスしてきた、それも唇に。
彼女は泣いていた。そしてこう言った。
「お帰りなさい、待ってたわ」
歓声は一段と大きくなり、僕らを包んだ。
いつの間にか担任が横へ来ていて、やれやれといった表情でこう言った。
「あまりおおっぴらにいちゃつくなよ」
聞こえない振りをした。
昼休み、生憎雨が降っていたので僕らは教室で昼食をとっていた。僕は相変わらず弁当を持ってきていなかったが、なぜか彼女が僕の分まで用意していた。彼女が鞄から弁当箱を二つ取り出した時にはとても驚いた。
「今日から戻ってくるってなんで知ってたの?」
状況が理解できていなかったので尋ねた。
「お兄様が教えてくださったの、私にじゃなくてパパにだけど。退学じゃなくて休学扱いにしてあったことも、今日から戻ってくることも」
「なんで名乗っただけで冷やかされたんだろう?」
朝のことを思い出して口に出してみた。
弁当を頬張りながら坂本と井上さんが口を挟んできた。奴も手作り弁当を食べている。
「決まってるじゃねぇか、彼女が学校に戻ってきてから皆に言ったんだ、しかも自分からな。私の恋人は皆藤創です誰にも邪魔はさせません、ってな。この果報者が」
「薫はずいぶん変わったわ。それにね、私が連れて行った次の日に学校に戻ってきた薫から一部始終を聞いちゃった。で、わたしも学校中に言ってまわったの」
おいおい、一部始終だって? 言って回ったって? 僕は目の前が真っ暗になった。
「一部始終って……まさか……」
「創君、ごめんなさい、あんまり嬉しかったから……全部話しちゃった」
「まさか、僕が言った言葉も……」
井上さんがからかうような、嬉しそうな表情で言った。
「恋人は君だって世界中に言ってまわりたい、離したくない、愛してるって言いたい、そして愛してるって言って欲しい、よね? 私も言って欲しいなあ、ねぇ竜太」
僕は頭を抱え込んでしまった。こいついったいどんな記憶力してやがるんだ?
「良いじゃない、二人とも願いが叶ったんだから。まだあるわよー、皆藤君が告白を決意した時に言った台詞、あれも言ってほしいなぁ。ねぇ竜太?」
食ってばかりいる坂本を見ながら井上さんはそう言った。まさか薫に言うつもりじゃないだろうな、恥ずかしいから言わないでくれよ。でも願いは届かなかった。
「最初はねぇ、告白しろって私たちが言っても渋ってたのよ。でもしばらく考えてからこう言ったわ。『ここらで人生にけじめをつける。結果がどう出たとしても。今まで以上に好きになることはあっても嫌いになったり恨んだり憎んだりはしない。僕にはそんなことはできない』ってさ。良いわあ」
彼女は顔を真っ赤にして恥ずかしそうに、でもとても嬉しそうに僕を見つめた。
「嬉しい、やっぱり創君を好きになって良かった」
「久美子には神田さんの言葉を言って欲しいね。『私を離さないで、会えなくっても我慢するから、一ヶ月に一度でも顔が見たい、大好きって言いたい好きって言って』って」
坂本と井上さんが調子に乗って喋りだした。
「神田さんの親父さんから、娘をよろしく頼むって言われたんだって?」
「おば様は『薫の幸せは皆藤君のところにしかない』って言ったんですって」
僕は一気に体の力が抜けていくのを感じながらも、一応彼らに釘を刺しておくことにした。
「あ、あんまり調子に乗ってるとあとでしっぺ返しを食うぞ。それに、今回は運良く僕も学校に戻って来られたけど、同じことがまた起きたらその時は完全にお別れなんだからな。その時になってからかったことを後悔するなよ」
「だめよ、創君、そんなこと考えちゃ駄目。今は私のことだけ考えて、私のことだけ見て。ううん、今だけじゃなくてこれからもずっと。ね?」
「わかってるよ、大丈夫。ずっと薫のことだけ考えてるから」
そんなことを言っていたら、遠くから呆れたような声がいくつも聞こえてきた。
「あー、暑い暑い、教室にいられないくらい暑い」
「独り者には目の毒だぜ、どっか別のとこでいちゃついてほしいよなぁ」
僕ら四人は顔を見合わせ、そして笑った。