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短編版『世界中が知る歌姫を、僕だけが知らなかった。――19歳大学生と39歳トップアーティスト、二十歳差の婚約』


富山に暮らす、ごく普通の大学生・錦戸康助。


そんな彼が高校卒業後の春休み、東京で偶然出会ったのは、二十歳年上の美しい女性・月城玲奈でした。


彼女から告白され、遠距離恋愛を続けること一年。


やがて二人は婚約します。


しかし康助は、まだ知りません。


自分の婚約者が――日本を代表し、世界でも活躍する歌姫「月城レイナ」本人だということを。


十九歳の普通の大学生と、三十九歳の世界的トップアーティスト。


二十歳差の二人による、秘密の恋の物語です。



僕、錦戸康助は十九歳。


富山県に住む、ごく普通の大学一年生だ。


朝になれば大学へ行き、講義を受ける。


空き時間には友達と学食で昼飯を食べ、授業が終わればアルバイトへ行く。


休日には家でゲームをしたり、近所をぶらぶらしたりする。


少なくとも、自分ではそう思っている。


特別な家に生まれたわけでもない。


スポーツで全国大会へ行った経験もなければ、芸能活動をしたこともない。


そんな僕には今、婚約者がいる。


名前は玲奈。


月城玲奈。


三十九歳。


僕より二十歳年上の女性だ。


綺麗で、大人っぽくて、優しくて。


仕事が忙しくて東京や海外へ行っていることが多いけれど、時間ができると必ず富山まで会いに来てくれる。


僕たちは一年ほど付き合い、つい先日婚約した。


僕の両親にも紹介した。


玲奈さんの家族にも挨拶した。


だから僕は、玲奈さんのことをかなり知っているつもりだった。


少なくとも――。


この日までは。


◇◇◇


玲奈さんと初めて出会ったのは、一年前。


高校三年生を卒業した直後の春休みだった。


大学への進学が決まっていた僕は、一人で東京へ遊びに行った。


高校卒業記念。


そんな大した旅行ではなかった。


東京駅を見て、秋葉原を歩いて、池袋へ行って。


テレビで見たことのある場所を適当に巡って、数日後には富山へ帰る。


本当に、それだけの予定だった。


出会ったのは、東京へ来て二日目だった。


その日は朝から少し曇っていた。


夕方になり、僕が人通りの多い駅前を歩いていると、急に雨が降り出した。


「うわ……」


折り畳み傘をホテルに置いてきたことに気づき、僕は屋根のある場所へ走った。


すると、すぐ隣へ一人の女性が駆け込んできた。


黒い帽子。


眼鏡。


白いマスク。


長いコート。


かなり怪しい格好だった。


ただ、僕は最初、芸能人だとは思わなかった。


東京にはいろんな人がいるんだな。


その程度だった。


女性はスマートフォンを見ながら、困ったように空を見上げた。


「……困ったな」


思わず聞こえた独り言。


僕は横を見た。


「傘、ないんですか?」


女性がこちらを見る。


「え?」


「あ、すみません。困ってそうだったので」


「……ないの。車を呼んでるんだけど、少し時間がかかるみたい」


「そうなんですね」


そこで会話は終わると思った。


ところが、その女性が僕の顔をじっと見ていた。


「君……」


「はい?」


「私のこと、知らない?」


「え?」


突然そんなことを聞かれた。


僕はもう一度、女性の顔を見る。


帽子。


眼鏡。


マスク。


「すみません。どこかで会いました?」


数秒。


女性は固まった。


そのあと。


「……ふふっ」


なぜか笑い始めた。


「え?」


「ごめんなさい。何でもない」


「はあ……」


変な人だな。


そのときの僕は本気でそう思っていた。


雨はなかなか弱くならなかった。


僕はコンビニへ行こうと思い、女性へ声をかけた。


「僕、コンビニで傘買ってきますけど、一本買ってきましょうか?」


「いいの?」


「はい」


「じゃあ……お願いしてもいい?」


「分かりました」


僕は走って近くのコンビニへ向かった。


自分用と女性用。


二本のビニール傘を買った。


戻ると、彼女はまだ同じ場所にいた。


「どうぞ」


「ありがとう」


女性は千円札を差し出した。


「いや、大丈夫です。数百円ですから」


「でも」


「いいですよ」


「……」


また、僕の顔を見ている。


「本当に?」


「はい」


「じゃあ、お礼させて」


「お礼?」


「夕飯、まだでしょう?」


確かにまだだった。


こうして僕は、名前も知らない二十歳年上の女性と夕飯を食べることになった。


後になって考えれば、ものすごく変な展開だった。


◇◇◇


案内されたのは、高級店ではなかった。


意外にも、普通の洋食屋だった。


女性は店へ入る直前、周囲を何度も確認した。


「どうしたんです?」


「いや……ちょっとね」


席についてから、ようやくマスクと眼鏡を外した。


その瞬間。


僕は少し驚いた。


ものすごく綺麗な人だった。


年上なのは分かった。


けれど三十九歳だとは思わなかった。


二十代後半と言われても信じてしまいそうだった。


「どうしたの?」


「いや……」


「何?」


「綺麗な人だなと思って」


「……え」


女性の顔が固まった。


僕は失礼だったと思った。


「すみません」


「違うの」


彼女は小さく笑った。


「そういう言い方されたの、久しぶりだったから」


「そうなんですか?」


「うん」


「普通に言われそうですけど」


「……普通に、か」


そのときは意味が分からなかった。


料理を待つ間、いろいろな話をした。


僕が富山から来たこと。


高校を卒業したばかりであること。


四月から大学生になること。


女性も自分のことを少し話した。


「私は玲奈」


「玲奈さん?」


「月城玲奈」


「月城さん」


「玲奈でいいよ」


「じゃあ……玲奈さん」


「君は?」


「錦戸康助です」


「康助君」


初めて名前を呼ばれた。


それだけなのに、なぜか妙に照れた。


「玲奈さんは東京の人なんですか?」


「今は東京に住んでる」


「仕事は?」


「音楽関係」


これが、僕が最初に聞いた彼女の職業だった。


音楽関係。


僕はてっきり、音楽会社の社員か、作曲関係の仕事でもしているのだと思った。


「忙しいんですか?」


「かなり」


「海外とか行くんです?」


「行くよ」


「へえ。すごいですね」


玲奈さんが笑った。


「康助君って、本当に知らないんだね」


「何をです?」


「ううん。何でもない」


不思議な人だった。


でも話しやすかった。


年齢差を感じなかったわけではない。


ただ、彼女は僕を子ども扱いしなかった。


僕も、彼女を年上だからと特別扱いしなかった。


その日は二時間ほど話した。


店を出ると、雨は止んでいた。


「今日はありがとう」


「こっちこそ、ご飯ごちそうになって」


「傘のお礼」


「高くつきすぎですよ」


「いいの」


玲奈さんは笑った。


そして少し迷ったあと、スマートフォンを取り出した。


「康助君」


「はい?」


「連絡先、交換しない?」


僕は驚いた。


「僕とですか?」


「嫌?」


「いや、全然」


こうして僕たちは連絡先を交換した。


普通なら、これで終わる出会いだったと思う。


けれど翌日。


玲奈さんからメッセージが届いた。


『今日、時間ある?』


その日も会った。


次の日も。


さらにその翌日も。


僕の東京旅行は、いつの間にか玲奈さんと過ごす旅行になっていた。


一緒に喫茶店へ行った。


散歩した。


本屋へ行った。


公園のベンチに座って話した。


玲奈さんは、いつも帽子や眼鏡をしていた。


僕は理由を聞かなかった。


本人がそうしたいなら、それでいいと思ったからだ。


そして富山へ帰る前日。


玲奈さんから呼び出された。


場所は、最初に出会った駅の近く。


夕方だった。


「明日、帰るんだよね」


「はい」


「富山に」


「はい」


玲奈さんは少し寂しそうだった。


「遠いね」


「新幹線なら、そこまでじゃないですよ」


「そうだけど」


しばらく沈黙したあと。


彼女が突然言った。


「康助君」


「はい」


「私と付き合ってくれない?」


僕は理解するまで数秒かかった。


「……え?」


「だから」


玲奈さんは少し顔を赤くしていた。


「あのね。私、康助君のこと、好きになったみたい」


「……」


「ごめん。三十九歳の女が十八歳の男の子に何言ってるんだって思うよね」


「いや」


僕は必死だった。


頭が追いついていなかった。


「本気ですか?」


「こんなことで冗談言わないよ」


「僕、二十歳も年下ですよ」


「知ってる」


「富山ですよ?」


「それも知ってる」


「大学生になります」


「うん」


「それでも?」


玲奈さんは僕を見る。


「それでも好き」


その一言が、今でも忘れられない。


僕は少しだけ考えた。


そして答えた。


「僕でいいなら」


玲奈さんの目が大きくなる。


「本当に?」


「はい」


「後悔しない?」


「今はしません」


すると。


玲奈さんは泣いた。


ほんの少しだけ。


「ありがとう」


その日から僕たちは恋人になった。


◇◇◇


遠距離恋愛が始まった。


僕は富山。


玲奈さんは東京。


玲奈さんの仕事は、とにかく忙しかった。


「明日から韓国」


「来週はアメリカ」


「その次はフランス」


普通の会社員とは思えない出張頻度だった。


でも僕は、


音楽関係って大変なんだな。


としか思っていなかった。


一度、大学の友達に玲奈さんの写真を見せそうになったことがある。


「彼女いるん?」


「いるよ」


「写真見せて」


スマートフォンを開きかけた瞬間。


以前玲奈さんから言われた言葉を思い出した。


『できれば写真は誰にも見せないでね』


僕はスマートフォンを閉じた。


「秘密」


「なんだよ!」


玲奈さんとの交際は、家族以外にはほとんど話していなかった。


僕の両親へ紹介したのは、交際半年ほどの頃だった。


玲奈さんが富山へ来た。


両親はかなり緊張していた。


理由は年齢差だと思っていた。


母は玲奈さんを見た瞬間、目を大きくしていた。


父も固まっていた。


僕は、


やっぱり二十歳差って驚くよな。


と思っていた。


今思えば、違った。


母は玲奈さんを知っていたのだ。


「月城……さん?」


母が震える声で言った。


玲奈さんは、そっと人差し指を口元へ当てた。


「今日は玲奈として来ました」


「……はい」


僕は首をかしげた。


「知り合い?」


「え?」


母が慌てる。


玲奈さんはすぐ答えた。


「テレビで少し見たことがあるんじゃない?」


「ああ」


僕は納得した。


今思えば、とんでもない話だった。


普通なら、その場で正体に気づく。


でも僕は本当に芸能人に詳しくなかった。


音楽を聴くときも、曲名だけ見て歌手名を気にしないことが多い。


テレビの歌番組もほぼ見ない。


だから僕にとって、


月城レイナ。


という名前は聞いたことがあるような、ないような。


そんな程度だった。


◇◇◇


交際一年。


僕は十九歳になった。


玲奈さんは三十九歳。


そして僕は、玲奈さんへプロポーズした。


場所は東京ではなく、富山。


環水公園。


夜。


ライトアップされた水辺を二人で歩いていた。


「玲奈さん」


「何?」


「結婚してください」


玲奈さんは固まった。


しばらく何も言わなかった。


「……私?」


「他に誰がいるんですか」


「だって」


「二十歳差でも関係ないです」


「康助君はまだ十九歳だよ」


「分かってます」


「大学生だよ」


「それも分かってます」


玲奈さんは僕を見つめた。


「私、四十歳になるよ?」


「だから何です?」


思わずそう言った。


玲奈さんが笑った。


でも目には涙が浮かんでいた。


「本当に、君は変わらないね」


「何がです?」


「何でもない」


そして。


「はい」


玲奈さんは答えた。


「お願いします」


僕たちは婚約した。


双方の家族にも報告した。


僕は人生で一番幸せだった。


だから。


もう玲奈さんについて、知らないことなんてほとんどないと思っていた。


◇◇◇


それから約二週間後。


僕は東京へ行った。


玲奈さんに会うためではなかった。


大学の用事だった。


予定が早く終わったので、僕は玲奈さんへ連絡した。


しかし返信がない。


珍しかった。


忙しいのかな。


そう思いながら駅を歩いていた。


すると。


巨大な広告が目に入った。


駅構内の壁一面。


美しい女性。


黒いドレス。


長い髪。


そして大きな文字。


《月城レイナ WORLD TOUR 2026》


僕は足を止めた。


「……え?」


もう一度見る。


女性の顔。


間違いない。


僕の婚約者だった。


「……玲奈さん?」


僕は広告へ近づいた。


月城レイナ。


その名前をスマートフォンで検索した。


検索結果。


一瞬で大量の記事が出てきた。


《日本を代表する歌姫・月城レイナ》


《デビュー二十周年》


《国内ドームツアー全公演即日完売》


《北米公演五万人熱狂》


《欧州ツアー発表》


《アジア最大級音楽祭ヘッドライナー》


《累計売上――》


僕は画面をスクロールする。


公式サイト。


Wikipedia。


ニュース。


動画。


写真。


全部。


玲奈さんだった。


「……嘘だろ」


声が出た。


駅の広告に映っている女性。


僕が一年前、雨の日に傘を渡した女性。


洋食屋でオムライスを食べた女性。


富山へ来て僕の母と料理をした女性。


電話で、


『今日疲れた』


と言っていた女性。


そして。


僕の婚約者。


「歌手って……」


僕は呟いた。


「これ?」


そのとき、電話が鳴った。


玲奈さんだった。


僕は画面を見つめる。


数秒してから出た。


「もしもし」


『康助君? ごめんね。仕事だった』


「玲奈さん」


『どうしたの?』


「今、東京駅にいるんですけど」


『うん』


「でっかい広告があるんですよ」


一瞬。


電話の向こうが静かになった。


「月城レイナっていう人の」


『……』


「ものすごい美人なんです」


『康助君』


「僕の婚約者に、ものすごく似てるんですよ」


『……』


「玲奈さん」


僕は広告を見上げた。


「月城レイナって……玲奈さん?」


しばらく沈黙。


そして。


『……はい』


小さな声だった。


僕はその場で頭を抱えた。


「ええええええ!?」


周囲の人が振り返った。


◇◇◇


その日の夜。


僕は玲奈さんの自宅にいた。


正確には、


超高級マンションの最上階だった。


今まで一度も住所を教えてもらっていなかった理由が、ようやく分かった。


リビングは、僕の実家より広い。


僕はソファに座る。


玲奈さんは向かい側。


帽子も眼鏡もない。


テレビや広告で見る、


月城レイナ。


その人が目の前にいた。


「……」


「……」


沈黙。


玲奈さんが先に口を開いた。


「怒ってる?」


「怒ってるっていうか」


「うん」


「理解が追いつかないです」


「そうだよね」


「音楽関係って言いましたよね」


「言った」


「歌手じゃないですか」


「はい」


「しかも普通の歌手じゃないですよね」


「……はい」


「世界ツアー?」


「はい」


「ドームツアー?」


「はい」


「ミリオン?」


「……何曲か」


「何曲か!?」


玲奈さんが小さくなる。


三十九歳の世界的歌姫が、十九歳の大学生に怒られていた。


「どうして言わなかったんですか」


僕が聞くと。


玲奈さんは俯いた。


「怖かった」


「何が?」


「康助君が変わるのが」


「僕が?」


「最初に会った日、覚えてる?」


「もちろん」


「私が『知らない?』って聞いたでしょう」


「ああ」


「あれ、本当に驚いたの」


玲奈さんは笑った。


「普通は気づかれるから」


「……」


「私のことを知った瞬間に、みんな態度が変わる」


静かな声だった。


「月城レイナとして見られる」


「……」


「写真を撮りたがる人。サインが欲しい人。仕事の話をしたい人。近づきたい人」


玲奈さんは僕を見る。


「でも康助君だけ違った」


あの日。


数百円のビニール傘を渡した。


それだけだった。


「君は私を知らなかった」


「はい」


「だから嬉しかった」


玲奈さんの目が少し潤む。


「月城レイナじゃなく、ただの玲奈として話してくれた」


僕は何も言えなかった。


「その時間を失いたくなかった」


「だから一年間?」


「うん」


「婚約しても?」


「……言わなきゃと思ってた」


玲奈さんは苦笑した。


「何十回も」


「何十回も?」


「電話するたびに。会うたびに」


「……」


「でも言えなかった」


しばらく沈黙した。


僕は天井を見る。


頭の中で、この一年間の出来事が次々つながっていく。


帽子。


眼鏡。


マスク。


海外出張。


東京で会える日が限られていたこと。


写真を人に見せないでほしいと言われたこと。


僕の母が最初に驚いていたこと。


全部。


「母さんも知ってました?」


「知ってた」


「父さんも?」


「知ってた」


「玲奈さんの家族も?」


「もちろん」


「僕だけ?」


玲奈さんが申し訳なさそうに頷く。


「……はい」


「全員グルじゃないですか」


思わず言うと。


玲奈さんが吹き出した。


僕も笑ってしまった。


「康助君」


「はい」


「婚約……やめる?」


玲奈さんが恐る恐る聞いた。


僕は彼女を見る。


「なんで?」


「だって」


「玲奈さんが月城レイナだから?」


「……うん」


僕は少し考えた。


そして言った。


「僕が好きなのは、玲奈さんですよ」


彼女の表情が止まる。


「月城レイナでも、月城玲奈でも」


「……」


「どっちでも玲奈さんですよね?」


「康助君……」


「確かにびっくりしましたけど」


僕は笑った。


「別れようとは思わないですよ」


その瞬間。


玲奈さんが立ち上がった。


そして僕の隣へ来て、ぎゅっと抱きしめた。


「玲奈さん?」


「……よかった」


声が震えていた。


「本当に怖かった」


「そんなに?」


「うん」


僕も玲奈さんの背中へ腕を回した。


「一つだけお願いがあります」


「何?」


「これからは大事なことは言ってください」


「はい」


「実は宇宙人です、とかないですよね?」


「ないよ」


「実は王族とか」


「ない」


「実は世界的大企業の社長とか」


「それもない」


「なら大丈夫です」


玲奈さんが笑う。


しばらく二人で笑った。


◇◇◇


翌日。


僕は玲奈さんの仕事場へ連れて行かれた。


大きなスタジオ。


スタッフが何十人もいる。


僕が入った瞬間。


全員がこちらを見た。


「おはようございます!」


玲奈さんが入ると、一斉に挨拶が飛ぶ。


「おはよう」


昨日までとは違う玲奈さんだった。


背筋が伸びている。


表情が変わる。


完全にプロの顔。


「康助君、ここで見てて」


「はい」


リハーサルが始まった。


そして。


玲奈さんが歌った。


僕は。


言葉を失った。


今まで玲奈さんの歌をまともに聴いたことがなかった。


その声は、普段話している玲奈さんとは全く違った。


スタジオ全体が震えるような声。


たった一人なのに。


何十人もいるような存在感。


僕は呆然と立っていた。


曲が終わった。


スタッフから拍手が起きる。


玲奈さんがこちらを見る。


「どう?」


僕はしばらく答えられなかった。


「……すごい」


「それだけ?」


「いや」


僕は笑った。


「本当にすごいです」


玲奈さんも笑った。


そのあと、スタッフの一人が僕へ近づいた。


「あなたが康助君?」


「はい」


「噂の?」


「噂?」


すると、周囲のスタッフが笑い始めた。


「レイナさんがずっと話してますよ」


「え?」


「康助君がね、康助君がね、って」


「ちょっと!」


玲奈さんが慌てる。


「言わないで!」


世界的歌姫が真っ赤になっていた。


僕は思わず笑った。


なんだ。


やっぱり。


僕の知っている玲奈さんだ。


◇◇◇


その夜。


二人で東京の夜景を見ていた。


高層マンションの窓。


遠くまで光が続いている。


玲奈さんが僕の肩へ頭を乗せた。


「康助君」


「はい」


「後悔してない?」


「何がです?」


「私と婚約したこと」


「してないですよ」


「これから大変になるよ」


玲奈さんは静かに言った。


「結婚を発表したら、きっと騒ぎになる」


「そうでしょうね」


「十九歳の大学生と三十九歳の歌手」


「二十歳差」


「週刊誌も来るかもしれない」


「はい」


「大学にも迷惑かけるかもしれない」


僕は少し考えた。


「じゃあ、すぐ公表しなくてもいいんじゃないですか」


「え?」


「結婚してからでも」


「……」


「僕は有名になりたいわけじゃないし」


僕は玲奈さんを見る。


「玲奈さんと一緒にいたいだけです」


玲奈さんは微笑んだ。


「本当に変わらないね」


「そうですか?」


「うん」


そして。


僕の手を握った。


「好き」


「僕もです」


「大好き」


「はい」


「愛してる」


さすがに少し恥ずかしくなった。


「……僕も」


「ふふっ」


玲奈さんが僕の肩へ寄りかかる。


日本中の人が知っている歌姫。


世界中の大きなステージで歌うトップアーティスト。


何万人もの観客を熱狂させる女性。


でも。


僕にとっては。


雨の日に出会った人。


一緒に洋食屋へ行った人。


僕へ告白してくれた人。


富山まで何度も会いに来てくれた人。


そして。


僕が結婚したいと思った女性だ。


◇◇◇


数日後。


僕は富山へ帰った。


家へ入った瞬間。


母さんが僕の顔を見た。


「分かった?」


「何が?」


「玲奈さんのこと」


「全部分かったよ」


母さんは少し気まずそうに笑った。


「ごめんね」


「父さんも知ってたんだろ?」


奥から父さんの声がする。


「玲奈さんに口止めされてた」


「家族総出で僕を騙してたの?」


「騙すっていうか」


「一年だよ?」


「お前が気づかなさすぎる」


父さんに言われた。


反論できない。


確かにそうだった。


テレビ。


広告。


インターネット。


街中。


注意していれば、一度くらい気づいたはずだ。


「でも」


母さんが笑う。


「玲奈さん、本当に康助のこと好きよ」


「分かってる」


「初めて家に来たときも」


「うん」


「康助の話ばっかりだった」


僕は少し恥ずかしくなる。


「だからね」


母さんは優しく言った。


「有名人だからじゃなく、一人の女性として大事にしなさい」


「うん」


それは僕も同じ気持ちだった。


◇◇◇


その夜。


玲奈さんからテレビ電話が来た。


『康助君』


「はい」


『今、富山?』


「家です」


『会いたい』


「昨日まで会ってたじゃないですか」


『もう会いたい』


「世界的歌姫って、そんなこと言うんですね」


『誰のせいだと思ってるの』


玲奈さんが頬を膨らませる。


三十九歳なのに。


こういうところは妙に可愛い。


「玲奈さん」


『何?』


「次、富山いつ来ます?」


『来週かな』


「じゃあ、一緒にどこか行きましょう」


『行きたい』


「今度は変装しないとダメですね」


『今までだって変装してたよ』


「あれ、変装だったんですね」


『今さら!?』


二人で笑った。


そして電話を切る直前。


玲奈さんが言った。


『康助君』


「はい」


『私ね』


少し照れながら。


『あの日、雨が降ってよかったって、今でも思ってる』


僕も笑った。


「僕もです」


もし、あの日。


東京で雨が降らなかったら。


もし僕が傘を買わなかったら。


もし声をかけなかったら。


僕たちは出会わなかったかもしれない。


富山に住む、ごく普通の十九歳の大学生。


世界中で歌う、三十九歳のトップアーティスト。


本来なら。


交わることなどなかった二人の人生。


だけど。


一本のビニール傘が、その二つをつないだ。


僕はまだ大学一年生だ。


玲奈さんはこれからも世界中を飛び回る。


簡単な未来ではないだろう。


年齢差もある。


住んでいる場所も違う。


玲奈さんは有名人で。


僕は一般人。


結婚すれば、きっと今までとは違う問題も起こる。


それでも。


僕は思う。


きっと大丈夫だ。


だって。


月城レイナがどれだけ有名でも。


世界で何万人を熱狂させても。


家へ帰れば。


「康助君」


そう言って笑う。


僕の大好きな玲奈さんなのだから。


そして僕は。


今日も知らない。


テレビの向こうで完璧に歌う彼女が。


ライブを終えた直後。


楽屋で真っ先にスマートフォンを開き。


僕からのメッセージが来ていないか確認していることを。


世界中が憧れる歌姫の一番大切な人が。


富山に住む。


十九歳の、ごく普通の大学一年生であることを。


それを知っているのは。


今はまだ。


僕たちと。


二人の家族。


そして、ごく一部の関係者だけだった。


けれど、いつか。


僕は彼女の隣に立つ。


誰から隠れることもなく。


彼女の夫として。


その日が来たら。


僕はきっと笑って言うだろう。


――僕の妻は、月城レイナです。


そして彼女は。


きっと僕の隣で、いつものように笑う。


世界的アーティストではなく。


一人の女性。


月城玲奈として。


あの日。


雨の東京で始まった僕たちの恋は。


婚約という新しい約束を経て。


これからようやく、本当の物語を始めようとしていた。


――完。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


雨の日の東京で偶然出会った康助と玲奈。


康助にとっては、ただの「綺麗な年上の女性」だった玲奈が、実は世界中で知られる歌姫・月城レイナだった――という物語でした。


正体を知っても、康助が好きなのは「世界的歌姫」ではなく、一人の女性としての玲奈。


そして玲奈にとっても、自分を特別扱いせず接してくれた康助は、かけがえのない存在になっていました。


二人は婚約しましたが、本当の物語はこれから。


結婚、世間への公表、富山と東京での生活、そして世界的歌姫の夫になる康助。


二人の恋には、まだまだ続きがありそうです。


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