(5)
「へえ、本当かよ!」
なにやらざわめいている店内。まだ日も高いうちから酒を煽っているのは、無精ひげを生やした男だ。
「本当さ。俺ぁ、聞いたね。失われた国の王子さんが、かわいいカミさん連れて逃げてるのさ」
「失われた国って、たくさんあるよなあ。まあ、ロナウド王子さんは好きだけどさ。先代の王さまは、ちょっと狂ってたよな」
支給係の少年は、興奮気味に相槌をうつ。
「侵略しては領土を広げてよ? アリス王女以外になにを望むんだっての!」
「ほら、あれだろ。アリス王女は息子の嫁だから手出しできなかったんだよ。で、八つ当たりじゃねえか?」
ぎゃはは、と笑い、また二、三人の男たちが酒を片手に話に混ざる。
「失われた国の王子さんもさ、復讐に燃えてるんじゃねぇか? ロナウド王子はとばっちりってわけだ」
「ところでなんでアンタはそんなに興奮してたんだよ?」
メガネをかけた、髪の薄い男が支給の少年に尋ねる。すると彼は、よくぞ聞いてくれましたとばかりに声を発した。
「それが、復讐意欲に燃えた失われた国の王子さまが、この国にきてるんだよ!」
「へえ! それで?」
「ほら、先日アリス王女が城を抜け出したって噂があっただろ。で、なんでも偶然見かけた失われた国の王子さまが――アリス王女を口説いていたらしいんだ」
「なんだって?!」
興味深そうに、男たちは身を乗り出す。
「それも、色街で!」
「ほ、本当かよ?」
「ロナウド王子はどうすんだ? 戦争でもはじまるのか?」
「バカ! 相手は財力も兵力もない、失われた国の王子だぞ」
店内の客はさらに騒ぎ出す。すると、先ほど情報を提供した無精ひげの男が、ひとつニヤリと笑った。
「そこで、だ。俺は思うわけだ……そのアリス王女さまを口説いた王子さんを捕まえればいいんじゃねえか、とな」
くいっと喉へ酒を流し込み、彼はつづける。
「アリス王女を見つければ、謝礼金がたんまりもらえるんだろう? なら、王女さんに関わった人間をロナウドさまに献上すれば……」
「賞金がもらえるって、わけか?」
ごくり、と男たちは喉を鳴らす。金はあればあるほうがいい。酒も女も、やりたいことがし放題だ。
指を立て、男は失われた国の王子の容貌を説明しはじめた――。
+ + +
「あっちぃ!」
「バカ。冷ましてから食べなさいよ」
顔をしかめ、冷たい水をごくごく飲み、緑色の瞳をした男は唸る。対照的に、あつあつの湯気があがるスープにも構わず、赤毛の女は休むことなくそれを規則的に口へと運んでいる。
男はしばしふてくされたように顔をしかめたが、頬づえをついて彼女をながめているうちに、自然の頬が緩んでしまった。
「……なによ、気色悪い顔をして」
「うん、まあ、口さえひらかなきゃ、イイ女だな、と思って」
容赦ない女の言葉にも、彼はヘラリと笑って応じる。それが気に食わなかったのか、女はフンと顔をそむけて食べることに集中した。
彼はスープが冷めるのをじっと待つ。手持ち無沙汰な様子で、スプーンを揺らしながら、やはり目だけは彼女へと向けている。「カトリーナ」とつぶやけば、それが聞き取れないほど小さい声だったにも関わらず、彼女はちょっと眉をよせつつも「なによ」と応えてくれた。それがうれしくて、思わず破顔する。
「なあ、好きだ。だから、耳出してく――」
「死ね」
言い終わる前に、彼は熱湯――彼が冷めるまで待っていたスープ――を浴びせられていた。
それでも、熱さでぼやける視界に入った彼女の頬が若干赤らんで見えたから、この制裁もあまんじて受けようと、そう思う彼はやはり、どこか頭のネジがはずれているのかもしれなかった。
「それにしても、俺様の邪魔をしてくれたあいつら……」
ふいに声を低めて、いつものへらりとした笑い方をディオンが引っ込めたのは、翌日の朝のことだった。部屋は狭くきれいとは言い難いが、安い上に朝食付きという、旅人にはありがたい宿を出てからのことだ。
カトリーナは肩をすくめたが、それでも頷いて応じる。
「そうね。あなたの邪魔をしたのはどうでもいいことだけれど、『彼女』を連れ去ったことには納得できないわ」
ディオンが周りも見えずに悪党を蹴散らし、失踪中だという噂の姫君・アリス王女を手に入れるはずだったのだ。なんでも、今婚約者のロナウド王子が血眼で捜索中というではないか。
しかし、事は上手くいかなかった。途中でディオン曰く邪魔者――少女と見間違えるほど愛らしい顔をした少年と、冷たいがこれまた端正な顔立ちをした人物にアリス王女を取られてしまったのだ。
カトリーナは訝る。いまだ、ロナウド王子の元へ王女が戻されたという噂は聞かない。もし、謝礼金目当てならば、とっくに引き渡しているはずではないか。それに、彼らがアリス王女の身体目当てだとは思えない。人売りにも見えなかった。では、いったいなにが目的なのか。そして、彼らはいったい何者なのか。
ディオンは彼らの顔をはっきりとは見ていなかったようだ。彼の長所でもあり短所でもあるところは、目的以外を一切排除するところだろう。そして単純で実に惚れっぽい。彼はカトリーナが言うまで、男たちに言い寄られていた少女がアリス王女だとは知らなかったらしい。
正義感が強く、惚れやすく、単純で、まっすぐな馬鹿――そんな彼だからこそ、カトリーナは相棒に選んだのだ。
「あーあ。俺の賞金が! 俺の夢が!」
大げさにがっくりとうなだれる男。しかし、カトリーナはいつもの冷ややかなまなざしではなく、切なそうに目を細め、彼女にはめずらしい、やさしげな声音で「ディオン」と彼の名を呼んだ。
そんな彼女に、彼は一瞬びっくりと目を見開くが、やがてバツが悪そうに頭をポリポリかいてから、ふいに柔く笑んだ。
「そんな顔するなよ。大丈夫。まだアリス王女は王子さんの手に渡ってないんだから。俺らがあの忌々しい邪魔者から横取りすりゃいいだろ?」
「そう、だけど……」
「なんだよ。心配してくれてるのか? なんなら、今夜とか――」
「行くよ」
「え? ま、待てよ! ちょっとは口説かせろ! なんだったら――」
「さっさと逝け」
「またまたぁ。さっきのしおらしさはどうしたよ。俺のこと心配してくれたんだろ? だったらさ、今夜くらいおまえの柔らかい――」
「……死にたいの?」
氷点下のまなざしを男へ向ける。この男は口が減らない。油断も隙もあったものではない。
そんな彼女にも構わず、というよりは挫けず、ディオンはからりと笑う。
「いいじゃねぇか。だれがなんと言おうと、俺はおまえの、柔らかいあの耳が好きだぜ」
こげ茶色の瞳を大きくさせ、カトリーナは柄にもなくぽかんとした。それにくっくっと笑うディオン。
緑の、深い緑のやさしげな色が深まる。どこまでも深く、深く、なにものをも包み込んでくれるような、そんな瞳。
カトリーナは、思う。ああ、この男は知らないのだ。自分はこの瞳に救われたのだと。この笑顔に救われたのだと。
だから、そうだ。彼を信じてみよう。
だれがなんと言おうと、自分はいつか、誇りを持って彼の隣を堂々と歩くのだ。
「……行くわよ」
冷たい口調から元に戻ると、カトリーナはニヤニヤする男から顔をそむけて歩き出す。
そう、いつか。彼の隣を、本当の自分で歩きたい――たとえ、できそこないの獣人だとしても。