(2)
少年は実に不愉快だと言わんばかりに頬を膨らませ、足早に歩を進める旅仲間のマントを引っ張った。
「どういうつもり? さっさと店を出ようと言ったり、ひとりで楽しんだりさぁ」
「楽しんだつもりはない。あれは邪魔だったから仕方がない」
「よく言うよ」
ちぇっと肩をすくめる少年は、しかし面白そうに含み笑った。
彼女に言われ、昼食を食べ終わる間もなく早々と店を後にしようとしたそのとき、店の客に声をかけられたのだ。あまりのしつこさに辟易した彼女は、情け容赦なく声をかけてきた男たちを殴って地へと伏せた。「きれいだね。愉しいことしようぜ」と誘われたのは、彼女ではなく彼のほうなのだが。
当の彼はしかし、断ることをしなかったのだ。「どうしようかなあ~」などとしなをつくり、あきらかに挑発していたのだ。そんな少年に苛々したが、なんとか彼を殴ることだけは我慢し、よってそのとばっちりとも言うべき怒りは男たちへと向けられたのだった。
「あーあ。せっかく生気いただこうと思ったのに。アジェが邪魔して楽しそうに殴っちゃうんだもん。僕なーんにもできなかったあ」
「獲物だったわけか……それにわたしは、楽しんでなどいない」
少年の言葉に、アジェは深く息をつく。彼にとって破壊は喜びなのだろう。……それにしても、あの男たちはなんと幸運なことか。殴られただけで、生気を吸われるという危機から脱したのだから。
「おまえは自分の容姿を自覚しろ。マントをかぶれ」
買ってきたマントのフードを無理矢理かぶせ、アジェはさらにため息をつく。極力目立ちたくはなかった。なのに、彼と行動をともにすればいやでも目立つ。
しかし、少年は彼女の憂いを知ってか知らずか、思わず見とれるほどの柔い笑みをこぼした。
「僕はアジェのほうがきれいだと思うよ……それに、名前で呼んでくれるとうれしいなぁ」
「名を呼べば言うことをきくのか」
契約をしてしまったことをはやくも後悔しつつ、アジェは問う。すると少年はやや考え込むように眉根を寄せていたが、やがて不敵ともとれる笑みを彼女へと向けた。
「それも悪くないかもね」
なんとも魅惑的な笑みだ。その琥珀色の瞳を揺らして、口の端だけをわずかに上げて微笑する蠱惑さに、惑わされぬ人間などいるのだろうか。
だがしかし、アジェは無意識に寂しそうな笑みを一瞬浮かべたあとで、そっと少年の頬に触れた。
「――エダ」
声はやや低く、あまい。本人には自覚はないだろうが、この声で囁かれればそこいらの人間を骨抜きにすることも可能だろう。少年はそう思い、そして同時にもったいないなと感じた。
彼女の外見は美青年そのものであった。すらりとした長身で、その長い前髪からのぞくコバルトブルーの瞳はやや冷たいが、それがストイックな雰囲気の魅力を引き出している。エダだって、彼女の思いの外ふくよかな胸を触らなければ気づかなかった。もし彼女が本当に男であったなら、女には苦労しない生活を送れたであろうと思うと、彼女の性別は実にもったいなかったのだ。
再び足をはやめに動かしはじめたアジェにつづき、名を呼ばれたエダも素直に歩いていく。いったいどうして急に急ぐはめになったのかそのいきさつは皆目わからなかったが、エダにとってそんなことはどうでもよかった。アジェと契約した、そばにいたい、だから彼女の隣を歩く――それでいいのだ。
「そういえば、なんか卑猥だね」
それまで黙って彼女のあとにつづいていた少年が唐突に口を切ったのは、ちょうどアジェが色街の看板のかかっている道角を曲がろうとしたときであった。
怪訝そうに顔を歪めるアジェに、エダは肩をすくめる。
「その看板だよ。もしかして、アジェは僕とそういう関係になりたいとか?」
少年にとって、彼女と関係を持つことはとりたてて拒絶すべきことではなかった。しかし、あきらかに彼女はそういった関係を拒むだろうことは容易に想像できていたため、どうして色街などに足を運ぼうとしたのか疑問に思い、エダは口をひらいたというわけである。
アジェは予想通り、眉間にシワをよせて『つまらん冗談を』という顔をして応えた。
「ふざけているのか?」
「ちがうよ。でもさ、気になるんだもん」
ぷう、と頬を膨らませて、少年は頭のうしろで手を組んだ。
「さっきから、なにをソワソワしているわけ?」
アジェは少年の言葉にサッと顔をしかめ、しまったとばかりに口をおおう。だがすぐに、小さく舌打ちしたあとで口をひらいた。どうやら秘密にしておくことではないらしい。
「おまえも聞いていただろう? あの男たちの話」
「アリス王女のこと?」
裏道に入ったところで足を止め、暗がりの壁に背を預けて、アジェは腕を組んだ。どうやら長話になるらしい。
「そうだ。アリス王女の脱走……そしてきっと、王子は彼女を求めてくるんだろうな」
エダは小首を傾げた。たしかに先ほど店で、彼女は男たちに『アリス王女』の話を尋ねたのだった。もちろん、金を払って。
だが、エダにはアジェがなぜアリス王女に興味をもつのかわからなかったのは事実。もし、アリス王女を無事保護して王宮に届けることができれば、莫大な謝礼金が手に入ることだろう。だが、アジェにはそういった金に関する欲求は無縁に思える。正義感から彼女を捜し出そうとしているようにも思えない。だから、なぜそんな情報を欲したのかが不思議でならなかった。
「まさか、王子さまに会ってみたいとか?」
「いいや。むしろ会いたくはない」
ふるふると首を振って否定する彼女に、エダはふうん、と肩をすくめる。じれったい。いったい、どういう意図で彼女はどこへ行こうとしているのか。
だいたい、色街に行く意味がわからない。アリス王女となんの関係があるのかもわからない。わからないことばかりで、エダは若干イライラした。
そして少年は、その苛立ちを隠そうともせず、むしろ責めるようにアジェに目を向け、口を尖らせた。
「おねぇさーん! 僕、さっぱりわかんなぁい」
「……貴様、男たちの話は聞いていなかったのか?」
「聞いてたよ! 聞いてたけど、興味なかったもん。それに僕は目の前のおいしい誘惑には勝てなかったんだもん」
ちょこん、と小首を傾げていじける仕草をする少年は、実に愛らしい。上目遣いの絶妙な角度は、彼をさらに可憐に見せる。そしてそれをわかっていて実行する性格は実に腹黒いことこの上ない。
アジェはため息の入り混じった声で「このガキ」とつぶやく。
つまり彼は、アジェが男たちから情報を聞き出しているのを耳に入れてはいたが、話声は見事に耳を素通りし、少年は食事を平らげることに夢中であったというわけだ。
「まあいい。一から話してやる」
冷静になれ、と自らを律し、アジェは腕を組み直した。
「わーい。でもさ、さっきまで急いでいたのに、こんなにのんびり話なんかしててもいいわけ?」
「……問題ない」
悠長に振る舞える時間はない、はずだった。いったいだれのせいで時間を食っているつもりか、という文句をなんとか飲み込み、アジェはいつもの、何物にも動じない無表情をつくって、少年を見つめた。
「そう、問題はない……おまえにも手伝ってもらうことにした」
はじめは自分ひとりで終わらせるつもりだったが、気が変わった。時間を食った見返りは倍にして頂く。――アジェは無意識に、心の内で笑みをもらした。