(3)
この女は意外に頑固だ、とエヴァージオはつくづく思い知る。そして己は情けないほど、結果的に彼女の言うことを聞いてしまう事実にため息をもらさずにはいられない。
意志を固めたアジェの行動は素早く、「勇者になろう」と言い出すなり、さっそく盗賊退治とばかりに根城を探しはじめた。
もともと盗賊をどうにかしたいと思っていたところであり、行動に矛盾はない。
ただ、彼女にそんな決意をさせた根本は、ジュゴンでありその能力の意味する『涙』というワードであることを考えると、なんとも複雑な気分に陥るのだ。
「ったく……」
「――俺ぁ勇者ってぇキャラじゃねぇんだい!」
と、ちょうど通りかかった酒場で、そんなエヴァージオの心を代弁する声が轟き、思わず振り返る。
おんぼろという言葉がぴったりの酒場だ。穴の開いた壁に板を張り付けたり、店の看板は立てかけることさえ危うく、辛うじて引っかかっている程度だ。見た目には繁盛とは無縁であることがうかがえ、もし窓から漏れる明かりや人の声がなければすでに廃れ放置された倉だと思っただろう。しかし聞こえる声は賑やかで、愉快な調子の音楽も流れている。
アジェが前方からはやくしろという視線を寄越すが、好奇心をくすぐられたエヴァージオは軽く無視を決め込んで酒場へ足を向けた。ちょっとした意趣返しの意味もある。無論、ただの八つ当たりであるのだが。
――なにより、なんだかんだ言ってもアジェはこうして付き合ってくれるのだ――後ろから聞こえるわずかなため息と足音に笑みを深め、エヴァージオは悪戯坊主さながらのあくどい表情で漏れ出る明かりと喧騒に身を投じた。
店のなかには橙色のランプの光があふれていた。外の日が沈む前からはやくも酒を煽る人間たちで溢れていたのだろう。どこにも酒好きの人間はいるものだ。
「おーおー。新入りかぁ?」
べろんべろんに酔っ払いながら、絡んでくる輩もまたいるわけで。
「あー、うん。無駄な話はしたくないんだよね。連れが生真面目だからさ、ちょっと『勇者』について教えてよ」
そんな酒場の雰囲気に顔色ひとつ変えず、むしろ用事がないならさっさと行くぞと威圧してくる旅連れもいるわけで。
エヴァージオは人好きのする笑みを浮かべ、さっさと気になったことを済ませてしまおうと決意した。
店には丸いテーブルがいくつか置かれ、カウンター席も用意されていた。しかし店内にいる人間らはみな顔見知りなのか、店は貸切状態であるようだ。
エヴァージオにつづいて入ってきたアジェに、酔っ払い共の視線が集まる。
男に間違われることはあれど、彼女はだれが見ても美人なのだ。案の定、酔い以外のせいで顔を赤らめる人間もすくなくない。なかにはいやらしい視線でじろじろと舐めるように見る男もおり、エヴァージオは知らず、舌打ちをした。
と、絡んできた男のテーブルに、ひとりアジェには目もくれず、ぐびぐびと酒を一気飲みする男がいた。無精ひげをはやした栗色の髪の男だ。がっしりとした体格で、それなりに整った服装をしているものの、酒を浴びるように飲んでおり、まるで仕事のない飲んだくれのような印象を抱かせる。
男の機嫌は最低に近いようだ。近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
ふと、その男とばっちりと目が合った。
「……んだよ、テメェ。俺になんか用か?」
眉間にしわをよせ、拳を震わせている。店のなかは一気に凍りついた。
エヴァージオが気にせず近づこうとすると、はじめに絡んできた男が震えながら引き留める。
「や、やめとけよ兄ちゃん……あいつは傭兵上がりで、腕っぷしだけは強ぇんだ」
「そ、そうだ。普段のあいつは気前はいいんだが……今はだめだ。近づかないほうがいい」
「奴の愚痴ももっともなんだがなぁ」
店にいた客も次々に声を発した。それが逆に勘に触ったのか、栗色の髪の男は立ち上がり、エヴァージオに近づいてくる。
「表ぇ出ろ。俺がてめぇのその小奇麗な顔を男前にしてやんよ」
「えー。仕方ないなぁ……アジェ」
「……わかった。無理はするな」
すごい剣幕でせまる男にビビることなくエヴァージオはさらりと承諾し、彼について店を出た。途端、店のなかがわっと騒がしくなる。
「おいおい、いいのかよ! 連れがめちゃくちゃにされちまうぜ?」
「ああ、そうかもな」
「そんな悠長な……お連れさんは腕に自信でもあるのかい?」
「……どうだろうな」
「あの黒髪の男も酔狂だが、アンタも大概だぜ。ダグラスに喧嘩売るなんてよぉ」
アジェは自然な動作で、なるたけお喋りそうな男の隣に腰かけた。自然と客たちはアジェのもとへ集まる。
「ダグラス……というのは、あの栗毛の男か? 先ほどは傭兵上がりと言っていたが」
「ああ、そうさね。南国では右に出る者はいないと言われるほどの腕っぷしで、若くして傭兵の隊長になっちまった、とんでもねぇ奴さ!」
「ふうん、すごいのだな。では、傭兵をやめてこの国へ? なぜ?」
店主に軽めの酒を注文し、アジェは頷いて、話に興味を示す。それに気をよくした男たちは、聞いてもいないことをべらべらと語り出した。
「その理由はわかんねぇが、獣人がらみだろうよ。探している奴がいるらしいぜ」
「とにかく、放浪していた矢先にこの村に来たんだ。そんで――『勇者』になっちまった」
「ダグラスはそれを嘆いていたがね。領主さまからの依頼だし、金になるし、断れなかったみてえだ」
「あ、領主ってのはググリの領主さまな。この村の先にある賑やかな町に住んでいる奴だよ。あの町は金回りがいいんだ……獣人売買も盛んだしなぁ」
それからは領主の話、金の話、稼ぎの話、盗賊の存在を嘆き、はやくどうにかしてもらわなくちゃという談笑に変わっていった。
アジェは申し訳程度に愛想笑いを浮かべ――といっても、周囲からしてみればまったく表情は変わっていないのだが――頭のなかでは様々なことを考えていた。先ほどの男の言葉が妙に引っかかる。
獣人売買――もし、エダが獣人であるとばれれば、領主は捕えようとするだろう。普段のエダなれば一刀両断しあしらうことが可能であろうが、あの爆発のなかだ。怪我をして弱っている可能性だってある。
探しても見つからなかったのは、すでに狩りにて捕まったからではないだろうか。弱っているところを抵抗する間もなく、商人に売られたのではないか?
盗賊をはやく片付け、さっさとググリに向かおう。
そうと決まれば、長居は無用だ。あのダグラスとかいう男は勇者になって嘆いていたようだが、なにを嘆く必要があろう? 腕に自信があるなら、さっさと片せばいいだけではないか。
アジェはひとり脳内でぼやき、予定を立て、頷く。
「金は置いておく。話、ありがとう」
言うなり立ち上がり、店の外へ出た。喧騒から途端に隔離された世界。
そこで――凄まじい戦闘を繰り広げる男たちがいた。
もちろん、件のダグラスとエヴァージオである。彼らがそこにいることは予想ができた。しかし、すでに決着はついたものと思っていたのだが。
アジェは目を凝らし、彼らの状況を見る。アジェは動体視力がすぐれており、彼らの表情も見れた。
ダグラスは破壊の限りを尽くさんばかりの勢いで、それはそれは悪い顔でエヴァージオに殴り掛かる。一方エヴァージオは――涙目である。
「は?」
思わず声がもれたのは仕方がない。
そして、エヴァージオが涙目なのも、仕方のないことなのだ。
時をすこしばかり遡る。
ダグラスについて、店を出たエヴァージオ。彼は自身の身体能力が並はずれていると自負していた。どんなに強靭な身体をもった傭兵上がりの男であっても、負ける気はしなかったのだ。
それに相手は酔っている。足取りもおぼつかない。これでは勝負にさえならないだろう、そうタカをくくっていた。
店を出て、足をとめた男――ダグラス、と名乗った彼は、振り向きざま、一発目を寄越した。
あわてて横に首を傾げて避け、いきなりだなと言ってやる暇なく、二発目がくる。
先ほどまでの頼りない足取りはどこへいったのか、地に根をはるがごとくしっかりとした体軸に、鞭のような足さばき。強力に違わぬ腕から繰り出される拳。かすっただけで怪我をしてしまいそうだ。
「なんだよ、サギじゃん!」
思わず唸ったのは仕方のないことだ。
苛立ちのままに蹴りを出すと、それは見事男の鳩尾に吸収された。
一見、エヴァージオの攻撃ばかりがあたり、ダグラスは今にも負けそうに思える。しかし、しぶといのだ、この男は。そればかりか、傷を負うごとに拳は強くなり、表情は活き活きとしてくる。
ここでついに、エヴァージオの心が折れそうになった。
想像できようか。攻撃して効いているにも関わらず幾度も立ち上がり、飢えた獣のように笑みをたたえながら向かってくる男を。これがかわいい女の子ならばと何度考えたことか――と、そこでエヴァージオはアジェの視線を感じ、一気に癒されたことも仕方のないことだ。
つづいて、彼女の「いつまで遊んでいるんだ。おいて行くぞ」と言う言葉にあわてる。
「あーもう! 邪魔だよオジサン」
悲鳴に似た叫び声をあげ、活力を取り戻したエヴァージオはこれまで狙っていなかった人間の急所、男の首筋を強打した。
ダグラスは「うっ」と低く呻き、ついにその場に倒れた。
「……本当に怪物みたいな男だ……脳みそを揺らしてやっとおとなしくなってくれたし」
「力は本物のようだな。彼だけでも盗賊を倒せそうだが……わたしも勇者を引き受けたからには、仕事は全うせねば」
どこか落ち着かなげなアジェ。
表面上は同意しつつ、彼女の心はジュゴンに向いているのだと、エヴァージオは苦い想いでいた。
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さぁさぁ、ご覧あれ! 世にも珍しい、ジュゴンの獣人! 人魚でございます!
さぁさぁ、いくらでご購入になられます? この獣人、とっても便利なのです。
さぁさぁ、ご覧ください。このうつくしい鱗。髪色。滑るようになめらかな肌、歌声だって一級品でございます。
ほらほらほら、確認いただけたでしょうか? とてもうつくしい、この世の調べとは思えぬ啼き声を。
ほら、ほら。これが件の、『涙』でございます。
ほーら、ほら。この『涙』を一粒……。
「ごめ……な、さぃ……」
ひとり、水槽の底で涙する。だれにも見咎められぬよう、最新の注意をもって。
もう泣くまい、と幾度誓っただろう。だれも助けてはくれない。「泣け」と命じられ、そのままに涙をこぼした日々。
今自分を縛るのは、奴隷商人の男。前の主に飽きられ捨てられてから、彼女は幾度のなく協議にかけられ、泣くまで打たれた。泣き虫な己はすぐに涙をこぼす。声をあげる。それが奴らを喜ばせているなど、はじめは思いもしなかった。
獣人の治癒力で、打たれた痕もすぐにきれいに治る。だから何度も、繰り返される。
「だれか……助け、て」
奥歯を噛みしめる。きっとだれも、助けてはくれないのに。
「助けて……――」
そうして離れ離れになった、思い出のなかの友人に縋るしかなった。