(7)
部屋には巨大な丸い水槽があった。人間が両手の指以上余裕で入れるほどの大きさだ。なかは海藻やらサンゴ礁やら、海底を見立てた装飾品であふれている。
水音が響く。雫が跳ねた。
水槽の奥から、ゆらゆら揺れて出てきたのは――人魚。
獣人のなかでも稀な種とされるジュゴン種だ。彼らは獣人の特徴である長命とされているが、成人体になると外見の歳をとらなくなる。加えて人魚はみな並はずれたうつくしさをもつことから、永遠の美の象徴とさえ言われていた。故に人間の観賞用にはもってこいなのである。
銀色の絹糸のような髪を腰までたらし、白くなめらかな上半身にはサファイアやルビーなど、これまた豪華な宝石の数々で飾りつくされている。尾にあたる鱗は光沢のあるエメラルドグリーンだ。
「……また、盗られちゃった……」
ぽつり、と女の人魚はこぼす。声は小さく、儚げだ。
「うぅ……ごめん、なさい」
だれにともなく懺悔の悲鳴をあげ、彼女は薔薇色の瞳をうるませる。ぽとり、と涙がこぼれた。
涙はそのまま、コツン、と音をたてて水槽の底へと転がる。
「あっ、あっ! またやってしまったわ!」
途端、おろおろとし出す人魚。あわてて涙を手に取ると、それを海藻の茂る岩影に隠した。
「見つかっちゃだめ……もう、盗られない……呪禁の掟に逆らわない……」
薔薇色の瞳に決意を燃やし、人魚は祈るように目をとじた。
+ + +
月夜。満月。
この宵の宴に、獣人たちは多くの者が歓喜の雄たけびをあげ、酔いしれる。
月の光は力を満たし、《獣》の心が《ヒト》に勝ってもたらされる。彼ら本来の本能に忠実に行動する時だ。
最近はこの《時》が近いから、カトリーナはずっとカリカリしていた。それもそのはず、彼女も例外ではない。普段は《獣》の部分が弱いとはいえ、満月の夜は強く出てくる。瞳は紅くなり、頭からはぴんとたった純白の耳――。
「かわいらしいねぇ」
ニヤニヤと口元を緩ませ、彼は彼女の敏感な白に触れるのだ。
「ひゃっ――や、やめっ……」
よいではないか、と思う存分堪能した彼は、赤く頬を染め、涙目になった彼女に意地悪く笑みを見せる。
「満足、満足」
そう、満月の夜は――カトリーナは、ディオンに遊ばれるのだ。ぴんと生えたウサギの耳で。
かっとなって怒る彼女に臆することなく存分にその耳を弄びつくしたディオンは、やがて「ん」と自身の首を差し出す。
途端に怒りを鎮め、反対に戸惑い視線を彷徨わせるカトリーナ。やらなければならないと言っても、やはり抵抗があるのだ。
それでも、ディオンはじっと待つ。だから、カトリーナはそのやさしさにあまえる。
カリカリしていたのは、耳をからかわれるからではない。本当は、いやなのだ。自分の《獣》のさだめが。
そっとディオンのたくましい首に手をかけ、恐る恐る唇を近づける。
獣人は――生気を糧にする生き物である。それが力の源である。
普段は獣人同士で分けあっているのだが、人間からもらう生気は格別だ。力のある獣人ほど生気は吸わずとも自らつくることができるのだが、カトリーナの場合は複雑である。
半獣人の彼女は、普段は人間と同じように生活することができる。けれど、満月の夜だけは生気を摂取しなくては弱り果ててしまうのだ。
だから、彼女は求める。そして、求めることしかできぬ自分に絶望するのだ。
やさしい、手が、頭をなでる。生気を喰いながらなでられるそのぬくもりは、一段と格別だった。
絶望すら、甘美に変えてしまうから。
+ + +
エヴァージオは博学多才である。アジェは彼から学ぶことが楽しかった。
火のうまいおこし方や、魚の獲り方、薬草、そして獣人のこと……様々な知識を彼は惜しみなく与えてくれる。
彼がどういった人物なのかすこしはわかってきたつもりだ。けれど、実際どのような身分なのか、生まれなのか、立場なのか……どういった経緯でアジェを見つけ、どのようにして生気を与えたのか――彼はいったい何者なのか、まったくわからない。
ふつうならば怪しんだり警戒心を怠らないだろう相手であることはたしかだ。しかし、アジェにとって『彼が何者なのか』という疑問はあってないようなものだ。つまり、気にしないのだ。
エヴァージオは、謎の青年……手がはやくて、色っぽい声音をもつ、ちょっぴりこどもっぽい紅顔の美青年――それで充分だった。
それに、彼はアジェにとって『心を乱されない相手』でもあったから、となりにいて不快感を感じることもなく、逆に知識を与えてくれる彼に尊敬の念すら抱きはじめているくらいだ。
「だからな、獣人の力は一種の魔法なんだよ」
この日も、ざっくざっくと伸び放題の草を踏みしめ旅路を進みながらエヴァージオの講義は語られた。
「空を飛ぶ、海のうえを歩く、風を操る、高い治癒力……全部、人間が夢みた産物だろう? そしてどれもが、獣人の能力ってわけだ」
なるほど、とアジェは頷く。獣人特有の高い身体能力も、種による独特の潜在能力も、すべて無力なヒトから見れば未知の力。つまりヒトの憧れた魔法という力は、すべて獣人個々の能力に帰因しているということらしい。
ふと隣で足音が止んだことに気づき、アジェは足をとめ振りかえる。ニッと満足そうに口角をあげ、エヴァージオは一気に距離をつめた。
頬にあたたかい息がかかる。
「言っただろう? 魔法使いは、いるんだ」
あまさを仄めかす美声で彼はささやく。アジェは落ち着かない気分を味わいつつ、それでも表面上は無感情のまま、じっと琥珀色の瞳を見つめかえした。
「獣人と『契約』し、その力を支配下におけるニンゲン――それが魔法使い、だろう?」
額に彼の漆黒の髪が触れた。くすぐったい。
わずかに、アジェの表情がむっとしたものに変わる。
「わたしはエダを支配下にしたつもりはない」
触れる手をはたき落とし、冷ややかにエヴァージオをにらみつける。
「もし、エダがわたしのものだというなら」
「……いうなら?」
挑戦的な笑みをのせてエヴァージオもコバルトブルーの瞳に目をやる。
ふたりの間に、チリリと肌を刺す空気が通った。
「――わたしは、エダのものだということだ」
言い放つと同時に踵をかえすアジェ。線の細い青年にも見える女の背をながめ、エヴァージオはくい、と喉を鳴らした。
「いいねぇ……妬いちゃうよ」
――それぞれが、それぞれの道をゆく。いずれ幾度となく重なる通過点に向けて。
アジェは、自分の劇的なる通過点を自覚せずままに、進んでゆくのだった。