(6)
騙されたような気分になるのは仕方ないことだろう。
「機嫌なおして。拗ねんなよ」
低くあまい美声をアジェの耳元へ送り込みながら、エヴァージオはにっこりと笑みを深める。
「アージェ?」
無反応な彼女に構うことなく、彼はありったけの色気を込めてささやく。
正直、心臓に悪い。
「……すまない、離れてくれ」
そして半径一メートル以内に近づかないでくれ、と内心ぼやきつつ、べったり背後に張り付いている男を引きはがす。
彼と出会って三日。激し過ぎるスキンシップは一向に収まってくれない。
はじめてエヴァージオに連れてこられたのは、森の深まった場所にできた開けた空間だった。そこでは大木が根をおろしており、太くがっしりとした幹は数人が入れるくらいの穴をこさえていた。
結局勧められるままその穴で一夜をともにしたわけだが、気づけば抱きすくめられているという状況が少なくない。最初は無反応を突き通し、それとなく拒んでみたものの、次第に遠慮をなくした彼は徐々にアジェとの距離を狭めていく。
アジェは自分がそういった色事方面にはめっきり関心がなく、疎いほどに鈍いことを知っている。そのせいなのか、エヴァージオの過度な手癖はとどまるところを知らない。
言うことを聞かない我が儘なこどものような男にほとほと呆れ、「離れろ」と言うと会話が成り立たなくなり、もはや言葉を失う。
はじめこそ気にしなかったものの、触れられると徐々に落ち着かない気分になり、アジェは自分で自分自身を訝しんだ。
なんとか彼と意志疎通をかわし、森を抜けて街まで戻ってみたが、宿屋『華碧い』にもどこにもエダの姿はなかった。
これからどうしようかと考えていれば、エヴァージオは当然のように「自分もついていく」と言う始末。拒否すれば「キスした仲ではないか」とニヤニヤしながら言うのだ。
初対面の寡黙さはどうした、無口でストイックなおまえはどこに置いてきた、と思わずツッコミたくなる男である。
そうそうに離れることをあきらめたアジェは、今までのこと――旅仲間とはぐれ捜しているのだという旨を大まかに説明した。行方知れずで離れ離れになってしまったのだとうなだれるアジェに、しかしエヴァージオは淡々と名案ともとれる提案をする。
幸い、エダとはこれからの目的地について話し合っていた。なれば、そこへ向かえばいいのではないかということ。あてもなくさ迷い歩くよりも効率的であり、運がよければ相手も同じ考えで向かっているかもしれない、と。
よってふたりは、ハビヤの村――スワズレット国の最北へ旅立ったのである。
エヴァージオは使える男であると、ここ数日ともに過ごして実感した。曰く、「世界は俺様の庭だ」らしい。
つまり、彼にかかれば地図はあってなきがごとし――道に迷うことなく、行きたいところへ案内してくれるのである。なんとも便利なものだ。
アジェが目を丸くして感心すると、エヴァージオは得意げに目を細める。いつもの鼻高々で高慢な態度のニヒルな笑みではない、柔らかなものだった。獰猛な野獣を思わせる雰囲気のある彼の顔が破顔一笑すると、なぜか人懐っこいものへ変わる。
「……どうかした?」
「いや、なんでもない」
きょとんと問われ我にかえる。ちょっぴりだけ似ている気がした、それで恋しく思ってしまった自分を奮い立たせ、アジェは首を振る。
きっとエダは無事だ。だって孤獣なのだから。
それに、嘘か真か知れないが、エヴァージオが言うには、『契約』した獣人と人間には深いつながりができるのだという。それによれば、もし契約者のどちらかが死ねばパートナーにもわかるのだという。自分にも相手にもダメージがきて、心臓が鋭い痛みを発するのだとか。
たしかにアジェは己の力の爆発によりひどい怪我を負った。エダも瀕死の状態かもしれない。それでも、アジェは心臓に鋭い痛みを感じてはいないし、『エダが死んだと解った』わけではない。ならば希望はまだある。
どうしてエヴァージオが『契約』のことを詳しく知っているのか、また彼が何者なのかわからない。けれど、アジェはそのことに頓着しなかった。する必要がないだろうと、そう考えた。
ハビヤの村へ行く。そしてエダを捜す。
今はそれだけで、手一杯だった。
+ + +
「ところで、アジェは魔法使いをどう思うよ?」
それは唐突な問いだった。
「まほう、つかい?」
野宿をはじめて一週間がたったころだ。焚き火を囲んで腰をおろし、夕食をとっていたところ、エヴァージオが突拍子もなく尋ねてきたのだ。
アジェは固くなったパンを頬張りつつ、小首を傾げる。
「それは、ええと……あれか、幼いこどもに読み聞かせる絵本に出てくる……ああ、いや、ちがうんだ。うむ……おまえが信じているのなら、いるんじゃないか」
「……そんなかわいそうなヒトを見る目で俺を見るな」
いつになく饒舌なアジェに、エヴァージオは引きつった笑みでかえす。
しかし、アジェはいいんだ、と首を振る。数日ともに過ごしてきて、エヴァージオの思いの外こどもっぽいところを多々発見していたのだから。
たとえば、好物の果物があれば嬉々と目を輝かせて食すところ。たとえば、ちょっと返す反応が遅ければ拗ねたように口をとがらせ不機嫌になるところ。たとえば、イキモノには運命の相手がいるのだと信じているところ。たとえば、夜はひとりじゃ眠れないとあまえて抱きしめてくるところ。
……最後のたとえだけは男の下心ありありなのだが、察することのできないアジェである。
ともかく、アジェのなかでエヴァージオは夢みがちな少年の心を忘れることのできない男という、本人が聞いたら怒りとショックで卒倒してしまいそうなほど不名誉なものにカテゴライズされているというわけで。
「うん、わたしも魔法使いは気になっていた。あれは……そうだな、すばらしい夢をくれるんじゃないか?」
「……おい……」
「魔法とは摩訶不思議なものだろう? 実際見たことはないが……いやいや、目にしたことはなくとも、存在するにちがいない」
「存在するに決まっているだろう」
「そ、そうだよな! ま、魔法……こう、物を浮かせたりとか、光らせたりとか、で、できるんじゃないだろうか」
「いや、ちょ、ちょっと待て。そういう意味じゃ……」
「わかってるわかってる。おまえのなかじゃ、魔法使いは偉大なのだろう? あ、ああ、わたしもそう思うよ。こどもの夢のかたまり……い、や、ちがう! 今のは言葉の綾だ! 魔法使いは決してこどものためだけに存在しているわけじゃ……」
「……もう、いい。俺が悪かった」
なぜか脱力しきって目頭を押さえるエヴァージオ。アジェは再び怪訝な顔で首を傾げるが、もはや彼が口をひらくことはなかった。
それはそうだろう。明らかに「こどものころの夢を捨てきれないかわいそうな大人」という憐れみのまなざしで終始見られていたのだ。加えて、いつもセクハラまがいのことをされても「邪魔だ」など一言くらいしか口にせず、しれっとかわしている人物が、口調にも不自然さが漂うほど一生懸命になって励ましてくれたのだから。
もう、泣きたい……そうもらしたエヴァージオは間違っていないはずである。