(2)
その招待状が届いたのは、地道な稼ぎに自分たちが向いていないと痛感してから三日経った日のことだった。
「あんたらに手紙だよ」
気前のいい女将のいる『華碧い』という宿屋に身を置いて三日目の夜、気の毒そうな表情で真っ白い封筒を渡されたのだ。充分に空腹を満たすことができずにいたエダは機嫌が悪いのか、いつもの笑顔は影を潜めている。
ふたりの怪訝な顔を見て、女将はため息まじりに教えてくれた。
「差出人を見てごらん。《仮面の主人》からだろう?」
言われ、くるりと裏返すと、たしかに差出人が《仮面》となっている。
「仮面? 随分しゃれたヒトだねぇ」
「坊っちゃん、笑いごとじゃないよ。あたしゃ、気をつけた方がいいと思うけどねぇ」
女将はエダを『坊っちゃん』と呼ぶが、はじめて彼を見たときは『お嬢ちゃん』と呼んでいたのをアジェは忘れていない。人懐こいエダを気に入ったのか、女将は随分気にかけてくれる。
「なかには《仮面の男》だとか《仮面の君》だとか《仮面の伯爵》だとか、たいそう妙な名で呼ばれているけれどねぇ。ほら、街からちょいと出た森の近くに、古びた洋館があるだろ? かつての伯爵さまの別荘だったんだけど、今じゃ仮面の男の縄張りさ」
女将はこそこそと声をひそめ、話し出す。
「ここだけの話、その館では夜な夜な悲鳴が聞こえてねぇ……たま~に、あんたたちみたいに招待を受ける人がいるんだけど……帰ってきたためしがないんだよ」
自身の肩を抱き、ぶるりと震える女将は役者さながらだ。
「噂じゃ、《仮面の主人》は奴隷をたくさん飼っているらしいよ……ほら、あんたらは小奇麗な顔をしているじゃないか! きっと目をつけられたんだよ」
本当だよ、気をつけなよ! と声高に忠告する女将に頷きながら、ふたりは部屋へ戻った。
「で、どう思う?」
ビリビリとさっそく封を切ってエダは招待状を読み出す。
「なんて書いてあるんだ?」
「ん~と、『貴殿を我が屋敷に招待したく思います。お越しいただければ、たくさんの謝礼金を授けましょう。明日の夜、迎えに参ります――愛しいお嬢さん』……だってさ」
「……そうか」
部屋にはしばし沈黙が流れた。アジェもエダも、一言も話さず、ただ互いの瞳を見つめる。
相変わらずアジェは無表情で、エダは笑みを浮かべている。彼の琥珀色の瞳が愉快そうに歪み、いっそう口角が引きあがったとき、アジェは深く息をついた。
「……困ったな」
「困ったねぇ」
ケタケタと声をたてて、エダは招待状を握りつぶす。ずいぶん細い小奇麗な字が連ねてあったが、気に食わないことに変わりはない。
どうやら、《仮面の主人》は『お嬢さんひとり』を招待したらしい。
「ね、ふたりで行っちゃおうか」
悪戯を思いついたこどものような笑みを見せ、エダは一歩アジェへ近づく。
たしかに、噂は気になるところだ。放置するにしても、なんだかすっきりしない。
招待されたお嬢さん――性別的にいえば、アジェが妥当だろう。されど一目見た限りでは、アジェを眉目秀麗な青年だと勘違いすることはあれど、『お嬢さん』に当てはまるような人物だとはだれも思うまい。むしろエダのほうが『お嬢さん』にふさわしいかもしれない。
アジェも充分それを理解している。それこそ、もしも仮面の男が自分のことを『お嬢さん』などと言っているのだとしたら、それはそれで違和感だらけで気持ちが悪い。
さして気にしているわけではないのだが、エダのおもしろがるような嫌味なまなざしをひしひしと感じ、ちょっとばかり気まずかったのである。
「明日の夜に迎えにくるってあるけどさぁ。な~んか、気味悪いよね」
肩をすくめる少年に、アジェも同意する。いったいどこで目をつけられたのか知れないが――いろいろな意味でエダの場合、ただでさえ目を引くのでやむを得ないのかもしれないが――拒否のできないような招待状の書き方にぞっとする。
それでも、エダは楽観的なものだ。
「まぁ、『謝礼金をよこす』って言ってるしさ、ちょっとのサービスは止むなし、だよねぇ」
「招待を受けるのに条件をつけよう。ふたりでならば館に赴くと……それでどうだ?」
手っ取り早く金が手に入ることは、すくなくともうれしい。気味が悪いとは思うものの、生憎アジェには年頃の娘のような愛らしい怖がり方など知識にない。なにより、腹ペコだと訴え見るからに調子の悪いエダをどうにかしてやりたかったこともある。
ノリ気なアジェにエダもにっこりとした。
「そうこなくっちゃ!」
――仕方ないから、僕のかわいい顔でひと儲けしてあげるよ――いつか聞いたエダの『冗談』がアジェの耳にふとよみがえったが、気づかぬふりをしてやり過ごした。
+ + +
「う、煩い煩い、黙れ!」
ばしゃり、とワインを浴びせられる。次にはグラスが強い力で投げられ、頭にあたって割れた。
ズキリと痛むが、男は微動だにせず、主に頭をさげたまま返事を待つ。
「アレに連れがいただと……? そ、そんなこと、許さない……」
ぶつぶつ狂ったようにつぶやき、主は男を見下ろした。
「殺せ。連れの男などいらない。アレはきれいなまま、ここへ連れてこい。いいな、カラス」
「御意」
男――カラスは跪き、主人の手にキスを落として立ち去った。命令を全うするために。
館はおどろおどろしい雰囲気がありながら、どこか上品である。外観は古びて恐ろしい感じは否めないが、なかはきちんと掃除されていて清潔に保たれ、広々とした部屋にはしゃれた小物が並べられている。大理石の床はぴかぴかだし、燭台の立ち並ぶ廊下は彼好みだ。暮らすには不自由なく、豪邸と謳われても違和感はない。
そんな館の主はひとりの男で、カラスは彼に仕える奴隷だった。
頭から流れているどろりとした濁った血を拭い、ふぅ、とカラスは息をついた。
怪我はさほど気にしない。じきに治癒するだろう。
気になるのは、これからのこと。主人の客人を迎えに行かねばならぬ、ということだ。
「殺シはぁ、楽しいけどぉ」
ぺろりと自身の血を舐めて、彼はつぶやく。
「男の血は好きじゃねぇなぁ」
空には丸い月がぼんやりと顔をのぞかせている。厚い雲が闇の色を吸いとって黒々と垂れ込めていた。
バサリ、と羽音が響く。漆黒の翼が、夜の闇へと溶けた。
ひゃははと奇妙な高笑いとともに、カラスの身体は夜空を滑るように飛んでいく。
客人はまだ幼さの残る少女だ。確認した限り、連れの男は恋人ではないようだが、兄妹でもなさそうだ。どちらもきれいな顔立ちをしていたから、もしかすれば芸人か、奴隷だった過去から逃げてきたのかもしれない。
偶然、うつくしい少女を目にした主人はひとめで彼女をほしいと言った。曰く、『かすかに匂った』らしい。
カラス自身には感じ取れなかったが、狂うほどアレに執着している主人ならば嗅ぎつけたのだろう。心のなかで主人を『ヘンタイ』と呼んでいるのは秘密だ。
「おっ、アレか?」
暗闇に、動く影を発見する。鳥目にはキツイが、ふたつの影が確認できた。
「ハッハッ! 刻限だ――It’s show time!」
高笑いとともに、カラスは男に向かってナイフを投げた。
銀に光る刃はまっすぐに男の細い首に向かう。客人たる少女が目を見開き、悲しみに暮れることを想像し、カラスの口元に笑みがのる。
きっと男は理解するよりもはやく死ぬだろう。大丈夫、一撃で仕留めるからと心のなかでつぶやき、カラスはぐるんと空中回転して客人の身体をつかまえた。
「お嬢さん、迎えにあがりましたよ」
そのまま飛び立つはずだった。恐怖に震えあがる少女とともに、夜の空へ身を溶かして主のもとへと帰るはずだった。
それなのに。
「あらー、どこに行くんですのぉ」
わざとらしい声で、少女が問う。ぎょっとして抱えている彼女の顔を覗き込むと、愉快そうな色をチラつかせる琥珀色の瞳とかちあった。
「逃がすか!」
瞬間、ぶるりと背筋が凍る。殺気に身を翻せば、無傷の青年が投げたはずのナイフをこちらへ向けていた。
あわてて飛び退き、旋回する。
――あいつは、無理だ。
予定は狂ったが仕方がない。状況をすばやく把握したカラスは、殺し損ねた男をそのままに、客人である少女を小脇へ抱えて飛び去った。
「アジェ~、迎えにきてねー」
けらけらと笑いながらしゃべる少女に度肝を抜かれ。
「くそっ」
と似合わぬ悪態をつく青年に逃げ腰になりながら。