(1)
床一面がぴかぴかに磨かれた大理石。まるで鏡かなにかのように、その上を歩く男の姿を映している。コツコツと規則的な音をたてて彼は歩みを進めていく。
周りに明かりはない。大理石が時々きらっきらっと反射する以外は、ほぼ暗闇に近かった。それなのに、男は迷うことなく進んでいく。
ふいに、本当にふいに、という様子で彼は立ち止まった。しばし押し黙り、じっと動きをやめる。
もしだれかがこんな男の様子を見れば、時間が止まってしまったのかと疑うかもしれない。それほどまでに、男はぴくりとも動かなかった。
「何の用だ――裏切り者め」
唐突に声が響いた。大理石の床が反響するように、その声を微動だにしなかった男へと届ける。
声は再度言った――裏切り者、と。
するとどうだろう。突如男はニヤリと口角をあげ、まっすぐに声のほうを向いた。
「その面を引き裂いてやりたいものだな」
姿なき声はいまだに憎々しげに、怒りに震えていた。
けれど男は反してケタケタと声をたてて目を細める。
「上出来サァ……俺ぁ、随分とイイ働きをしたんだからよ」
男がそう言うと、声は幾分和らいだ。
「ほう、それで?」
「そう焦るなよ。奴は『華碧い』でしばらく過ごすそうだぜ」
催促する声に、男はケラケラ笑いながら教えてやる。声はしばらく吟味していたが、やがて満足そうに言った。
「いいだろう。では引きつづき、この仕事はおまえにくれてやる」
「了解!」
ケケケ、と笑ったかと思うと、男は身を翻す。
「もうすぐ……もうすぐ、自由だ」
ぼそりとつぶやく声は、愉快そうに響く。
「待ってろよ仮面のご主人さま。俺が奴をとっ捕まえてきてやるからな」
仮面のご主人さま、と呼ばれた声は満悦して笑った。
「期待しているぞ、カラス」
+ + +
「お腹すいたぁーっ!」
バン、と元気よく扉をあけて店へ入るなり、少年はカウンターの店主に笑顔を向けて手を挙げる。
「ハイ、僕パスタがいい!」
それからおいしい干し肉と果物と酒を少々……なんて注文し出す少年の頭を、アジェは遠慮なく叩いた。
「すまない、マスター。酒はいいからあたたかい食事を頼む」
突拍子もない客の連れは常識人らしい、と判断した店主は、気前のいい笑顔で了承した。といっても、こどものくせに一人前に酒を頼むだなんてかわいいものだ、と思ってスルーしていたのだが。
出てきたうまそうな食事に舌鼓を打ちつつ、ふたりはこれからのことについて話し合った。
旅をつづけて数日経つが、エダはとても気まぐれで行動するイキモノだということがわかった。もともと獣人とはそういうものなのかもしれないが、目的もなくぶらりと村へよったり野宿してみようと言ったり、突拍子もない行動をとることが常だ。
それでも彼の行動はアジェにとって真新しい発見ばかりで、いい経験になっている。
アジェは、目的があって旅をしているつもりだ。はじめはただロナウドとラシルの幸せのため、『アリス王女』という自分の存在から抜け出すために城を出たのだが、今ではきちんとした目的がある。それこそ、はじめてエダと出会ったときについ口走ってしまったホシイモノ――悲しみ。
悲しみを手に入れる願いを叶えてやる、という誘いにのって獣人であるエダと契約したが、アジェはいまいちそれの真意をつかめずにいる。
『契約』とはなにか、そして本当にエダは『カナシミ』をくれるのか……?
むしろ、悲しみとは無縁の存在であるようなエダだ。契約をしたといっても、特に変わったことはない。力を与えるため生気を吸われたのもはじめの一度きりで、それ以来とりわけなにか代償を払った覚えもない。
それとなく尋ねてみても、少年は話題を変えて「まぁいいじゃん」と言うだけだ。アジェは気にすることをやめ、成り行きに任せてみることにしたというわけである。
「ん~、アジェはどこか行きたいところでもあるの」
ぺろりと紫の果実を平らげながらエダが問う。すでにおかわりを三回している。
「そうだな……ハビヤの村にいってみたい」
ハビヤの村はスワズレット国の最北に位置している、貧しい村だ。今まで城のなかから出たことのなかったアジェは、とりあえず自分の暮らす国をめぐろうと決めていた。
「どうしてまた、ハビヤなんかに」
「噂を聞いたんだ。最近、盗賊が出ていると……」
アジェの言葉にエダも顔をしかめる。
貧しいはずのハビヤに盗賊が出るなんておかしい話だ。盗る物などないだろうに。
「もしかすれば村を根城にするのかもしれない。そうなればきっと、民は苦しむだろう」
エダに言わせれば、そんなの知ったこっちゃない。されど、アジェの考えが手に取るようにわかったのか、ため息まじりに承諾した。
「わーかったよ。じゃあ、しばらくこの村で羽をのばしてから、出発しようね」
「ああ」
アジェは国をめぐると決めたと同時に、もうひとつやりたいことができたのだ。
ロナウドの治める国が、その御代が安泰であるように、すこしでも影で働ければいいと。『アリス王女』の仕事から逃げ出した自分を許してくれた彼に、恩返しがしたいのだと。
実際、『アリス王女』としての力はなくなっていない。ラシルに与えたと思っていた力も、エダ曰く、徐々に抜けてアジェへ還るのだそうだ。そうとなれば、やはりただあまりある強大な力をなおざりに放ってはおけまい。だからこそ、ロナウドのために、国を護るために使いたいのだ。
エダはすこし不満そうだが、結局なにも言わない。彼は気まぐれにやさしいのだ。
「あーあ。気に食わないのにぃ。あ! おっちゃん、おかわり!」
ふぅ、と息をついてから、エダは思い出したように店主を呼ぶ。いつの間にかおかわりは五回目だ。
「……最近、よく食べるな」
「そ? ま、気にしないでよ」
肉を頬張りながらにっこりする少年だったが、アジェは気になっていた。それに、気にしないでいられない……。
懐が寂しいのだ、と打ち明けた瞬間、エダは目に見えて愕然としていた。
「つまり……稼ぎがないと、ね」
ハビヤの村へ出発する前に、お金を貯めようということになったのは言うまでもない。
……そして、「仕方がないから、僕のかわいい顔でひと儲けしよっか」なんて冗談に聞こえぬ冗談をにっこり笑顔で言い切ったエダ。彼を思わず二度見した後、凝視するアジェの姿に、店主が同情のまなざしを向けたのだった。