(9)
エダの目は爛々と輝いていた。獰猛な、野獣のような、まなざしで。
今、彼には少年の愛らしい様子は影を潜め、ただ獲物に喰らいつく猛獣が暴れていた。いや、たしかに彼の姿は通常の少年の姿。それなのに、その動きは人間のものとは思えぬほど素早く、かつ人を傷つけることに躊躇いもなにもないのだ。
なんて奴――傷つける行為すらうつくしく舞っているようだ、と場違いに見惚れたアジェに、そのとき衝撃が走る。
「余所見とはいいご身分だなぁ、オイ!」
「くっ」
ぐぐ、と思い一撃をなんとか小刀で押し返す。しかし相手は剣。刃こぼれした小さなナイフはもはや使い物にならない。これでみっめだ。
「もうちょっと頑張れよ、相棒ォ!」
さらに滑らすように武器を流し、男はアジェの刃物を弾き飛ばした。
草むらから出てきたのは一組の男女だった。アジェはアリス王女に危害が加えられないよう臨戦態勢に入ったが、エダはくすくすとおもしろそうに笑うばかり。そうしてなにか一言放つと――途端、その場は戦場と化した。
男はアジェに、女はエダへと襲いかかったのだ。
アジェは気が気ではなかった。表情にこそ出さなかったが、内心冷や冷やしたと同時に、高揚もした。
エダの――孤獣の戦闘が見れる。
彼女の期待通り、エダの姿はうつくしかった。残虐だった。武器もなく、相手に傷を負わせる。目にも止まらぬはやさで、遊ぶように相手をする。ああ、なんて時限違い。
だが、アジェもそこまででやっとだ。彼女の相手の男は強いのだ。腕がいい。素人ではないのは傍目にもあきらかで、気を抜けば一気に意識ごともっていかれそうであった。
(やはり……力が……)
女の細腕、とはよく言うものだ。そこらへんの男に負ける気はしなかったが、今目の前にいる彼はちがう。剣の筋からいっても、どこかで戦闘を経験しているらしい。きれいな型だ。それでいて、野性的。独特の動きが入って、読みとりにくい。
戦闘、というよりは、喧嘩といったほうがいいかもしれない。
ふいに、目があった――その瞬間、気づく。
(やられる――!)
ばしりとエモノがはじかれ、武器をなくしたアジェにふりかかる、刃。スローモーションで流れてくる、自分への攻撃。
柄にもなく目を見開き、しかし、無意識にアジェは“使おう”とした。
だが。
「ストーップ!」
やけに明るい声とともにアジェは白く細い腕に絡めとられ、同時に危機を脱していた。
(え?)
アジェは、少年の腕のなかにいた。そして少年は、軽々と飛び上がり、木の上に身を寄せている。
あまりの衝撃に鈍い頭で、彼女はやっと言葉を探し出す。
「エダ……?」
いつの間に、こんな近くに移動したのだろう。そしてどんなすばやさでアジェを救出し、抱きすくめているのだろう。
その驚きは、敵方も同じだったようで。仰天に動きを止めた先ほどまで戦っていた男は、間抜けなほど邪気のない表情をしてこちらをまじまじと見ていた。
「なっ、なんだテメェ! 何者だっ」
やっと我にかえったのか、途端に騒ぎ出す始末。エダと戦闘していた女性は、傷を負ったのか、肩を庇い、足を引きずって木の下までやってきた。
「……こいつ、ただの人間じゃない」
苦々しげに言葉を発し、女は地面に膝をつく。あわててと呼ばれた男が駆け寄り、彼女に肩を貸した。
「人間じゃないって……でも、ニオイは人間だったんだろ」
「ニオイなんて、高等な獣人は隠せるんだよ」
あえぎ、女はエダをにらみつけて言った。
「完全なヒトガタになれるなんて……ただの獣人じゃない!」
彼女の声は震え、恐怖が混じっていた。エダは敏感にそれを察知すると、妖艶ともとれる、子供には似つかわしくない笑みを口元に浮かべた。
「そうだね。ただの獣人じゃないよ? アンタもでしょ」
目を細め首を傾けるしぐさは実に愛らしい。されど、その唇から紡がれる言葉は毒をおび、痛烈に響き渡った。
「そうでしょ? 半獣人のデキソコナイ」
アジェはただ、場面が流れていくのを見ているしかなかった。自分だけが置いてけぼりをくらってしまったようだ。
たしかにエダは見た目とはちがいただの子供でもただの獣人でもない。王と謳われし、孤高の獣――孤獣なのだから。
だが……また相手もただの人物ではなかったらしい。半獣人――それは、どういうものなのか。
アジェははじめて聞く言葉に、すこし興味をもった。
「……くぅっ」
「カトリーナ!」
呻き、がくりと倒れる彼女を、男はさっと腕を伸ばして受け止める。カトリーナと呼ばれた彼女は、悔しそうにさらに眉間にしわを寄せた。
「ディオン……ご、めん」
――役に立てなくて。
ぽつりと、ほとんどつぶやくように発した彼女の声は、男の拳に力を与えるには充分だった。
男――ディオンは彼女を木の下へやさしく寝かせ、立ち上がる。にらむように、ふたりに対峙した。
「おまえらがただの『邪魔者』じゃないってことはよくわかった」
ディオンは剣を持つ腕に力を込める。
「だけど、俺には譲れないもんがあるんだ。『獲物』は渡してもらうぜ」
真剣なまなざしを受け、アジェもまっすぐにそれに応えるべく声をあげようとした。絶対に渡すことはできない、彼の愛するラシルを傷つけることなどさせない、と。
けれどそれを声にして発するまえに、自分を抱き抱える少年によって遮られてしまった。
「どうして? どうしてそこまで力を望むの?」
エダはわざとらしく首を傾げる。
「アンタたちは――いや、アンタは賞金目当てじゃないよね……?」
くすりと含み笑い、少年は敵意剥き出しの男に問いかけた。それから、荒い息を繰り返す女を指差す。
「このヒトを助けたいから、『アリス王女』を、その力を望んでいるんでしょう?」
「そ、それは……」
「……ディオン……?」
エダの言葉に見るからに動揺するディオン。そんな彼に、先程より状態の悪化しているカトリーナがかすれた声で尋ねた。
「ど、どういう、こと……まさか、あたしのため……?」
正面から、ほとんどすがるように彼女に見つめられ、ディオンに逃げ場はない。うろたえ、口のなかでもごもご言葉を探っているようだが、うまい答えは出てこない。
「いや、俺は……」
「でもそれは無理だよ」
おろおろしている男を、琥珀色の瞳が嘲笑った。
「だって、アリス王女の本当の力は、僕のモノだから」
ニタリ、とやはりこどもに似つかわしくない笑みを浮かべて。淡々と、エダはつづける。
「アンタは、『アリス王女』の絶対的な力を使って、そこのデキソコナイを獣人か人間かにしようとしたんでしょ? アリス王女の起源は、獣人にあるもんね」
「エダ……それはどういうことだ?」
彼の言葉に、それまで黙っておとなしくしていたアジェが顔をしかめた。はじめて聞くことだ。この孤獣は、いったいなにを知っているというのだろう?
エダは純粋に疑問を投げかけるコバルトブルーの瞳を、すこしだけ呆れの入ったような、それでも愉快そうなまなざしで見やる。それから、ようやく口を切った。
「ニンゲンたちには隠されているけれどね、アリス王女の力は、獣人の血をたくさん飲ませることで現れるんだよ」
獣人の力を封じる、≪獣人殺し≫。さりとて、それは万能ではない。能力の卓越した孤獣などは、簡単にそれを破ることすらできるのだ。
だから、ニンゲンの頂点たる王は考えたのだ。なれば、その力に匹敵する存在を手に入れよう、と。
ひとりの人間の少女が選ばれ、赤子のときからみっつになるまで、毎日毎日、獣人の血をすすわされる。拒絶反応で死ぬ人間もすくなくないが、生まれたての赤子のなかにはそれを受け入れる者もいるのだ。赤子は、ニンゲンに必要な『なにか』を失う代わりに、獣人に匹敵する力を得る。
それは王の切り札であり、周りの恐れになる。ゆえに、『アリス王女』は延々とつづいてきた伝統だったのだ。
初代の、この力を手に入れたのがアリス。よって、力を受け継ぐ者の名を、今も同じく語っているというわけだ。
選ばれた『アリス王女』の末路は様々だ。王の妾になる者も、一生日陰の身として生きる者も、いる。ただ、彼女たちの力は一代のみ。決して『ニンゲン』との間にこどもを孕むことはなかった。
創られた『アリス王女』。そこには、たくさんの獣人の命が費やされる。この秘密は、方法とともにだれにも語られはしない。王家の秘密だったのだから。
これが真実だよ、と少年は愛くるしい笑顔で締めくくった。
周囲は、みな、一様に呆然とする。
ディオンはカトリーナの視線から逃れるように。カトリーナはどこか思いつめるように。そしてアジェは、知ることのなかった真実に慄き、次いで、かつて言われた『彼』からの本当の言葉の意味を悟った。
――君は、まだ本当に笑えていないんだ。だから、いつか、その笑顔を見せてほしい。
――もう、『アリス王女』は君で最後にしよう。
――アジェ、君は、僕にとって大切な人に変わりはないんだから。
妹のように、かわいがってくれた。友人のように、親しみを込めて接してくれた。そんな、彼の言葉は、ニンゲンらしくないアジェの心のなかで、ずっと輝くように残っているのだ。ありえない、ことなのに。
「……わたしは……だから、力を分けたんだ」
ぽつり、とつぶやくように言葉を落とす。先ほど、エダに迫られ、話そうとした過去のことを。旅に出た、キッカケを。
「あの人が――ロナウドが、ラシルを好いているのを知っていたから。わたしを大切だと言ってくれたあの人に、幸せになってほしかったから……『アリス王女』に力が必要なら、わたしの血を飲ませて力をすこしでも分ければ、それでいいと……」
このままでは、ロナウドが自分と結婚してしまう。そうすれば、ラシルは彼をあきらめるしかない。
事件は、単純だった。嫉妬し、我を失ったラシルがアジェの寝室へもぐりこみ、殺したあとで自分も死のうとしたのだ。
その場を見つけたのは、ロナウドだ。彼は、彼に似つかわしくないまなざしで、ふたりの少女を――無表情で首を傾げるアジェと、涙を散らしながら嗚咽するラシルを――交互に見やる――そのとき、気づいたのだ。はっきりと。
彼は、ラシルを愛している。アジェのことは好きでも、その感情の種類がちがう。
だから決めたのだ。なれば、自分はここにいないほうがいいと。
アジェは自身の血の入った小瓶を渡し、ラシルへと飲ませた。そして自分は髪を短く切り、引きとめるロナウドを振りきり城を後にしたのだ。
幸い、アリス王女の姿は国民には知られていなかった。だから、だれがアリス王女のなろうと、構わなかったのだ。
「わたしは、構わなかった。ふたりが幸せなら……旅に出る目的もできたから」
――わたしも、泣いてみたいんだ。
「エダ……わたしは、なにか間違っていたのか? ロナウドに、迷惑をかけてしまったのだろうか……?」
彼女らしくもない、弱気さだ。エダはむず痒い気がして、すこしだけ肩をすくめた。
「さぁ? それは、本人に聞いてみましょうよ」
すたり、と一気に木の下へと降り立つ。カトリーナも気づいたようだ。いきなり目を見開き、きょろきょろと辺りを見回す。
「ディオン! 東から足音がする!」
「なにっ」
「はやく逃げた方がいいよ?」
鋭いまなざしになったディオンに、エダは相変わらずの笑みを浮かべた。
「その足音のなかに、狩人もいるからさ。半獣人なんてめずらしいの、捕まっちゃうよ」
アジェを地へ下ろし、少年はぐんと伸びをする。漆黒の髪を気だるげにかきあげた。
「僕は隠そうと思えば隠せるけど。アジェもいるし。でも、アンタらはさっさと逃げた方がいいと思うよ。それに――デキソコナイは、僕のそばにいるとつらいんだ」
――力に、あてられるからね。
にっこりと目を細めた少年。その背後から、禍々しいオーラがあふれているような気がする。
ディオンは、顔をしかめた。それから、一気に怒りがこみ上げる。
道理で、先ほどからカトリーナの容体が悪くなるわけだ。たいした出血をしているわけでもないのに、もう肩で息をしている。
「なんだよそれ。はやく言えよ!」
「あのときの仕返しだよ」
「はあ?」
「いいから。はやく行っちゃえ」
べーっと舌を出して、エダは最後にケラケラと笑ってやった。
仕返し、とは――『アリス王女』もとい、ラシル強奪の際に、麗しく颯爽と助け出すという登場シーンを邪魔されたことの仕返しに他ならないのだが。
ディオンは口のなかで「クソガキ」と悪態をついたが、それ以上構っていられないと判断したのだろう。荒い息のカトリーナを背負い、「覚えてろよ」などとどこぞの悪役のような捨て台詞を吐いてさっさとその場を後にした。
「……エダ、おまえ……」
「さーて。ここからは、おねーさんの出番だよ?」
さすがに、アジェでもわかる。近づく足音。それから。
彼の、気配が。