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もう一度、夢を歌う  作者: 明日羽
第二章 : 武道館編
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第八話 その先へ

 朝の空気は、少しだけ冷たかった。


 会社のビルを見上げながら、私は立ち止まっていた。


 何度も通った入口。


 何度も乗ったエレベーター。


 いつもの朝。


 でも今日は、少し違って見える。


 


 ポケットの中で紙が折れている。


 


 辞職願。


 


 私はゆっくり息を吐いた。


 


 逃げたい気持ちもある。


 


 ここにいれば、生活は安定している。


 給料があって、仕事があって、普通の未来がある。


 


 でも。


 


 頭の中に浮かぶのは、あの音だ。


 


 ギター。

 ベース。

 ドラム。


 


 そして、真琴の声。


 


 「武道館、連れてく」


 


 私はドアを押した。


 


「おはようございます」


 


 オフィスはいつも通りだった。


 キーボードの音。

 電話の声。

 コピー機の動く音。


 


 誰も特別なことはしていない。


 


 それなのに。


 


 今日は、この場所が少し遠く感じた。


 


 席に座ると、主任がコーヒーを持ってきた。


 


「おはよう、由紀」


 


「おはようございます」


 


 主任は椅子に寄りかかりながら私を見た。


 


「顔見れば分かる」


 


 私は驚いた。


 


「え?」


 


「決めたんだろ」


 


 言葉が出ない。


 


 主任は苦笑した。


 


「俺も昔あったよ」


 


 コーヒーを一口飲む。


 


「人生の分岐点」


 


 私はポケットから紙を取り出した。


 


 少しだけ手が震える。


 


「主任」


 


「うん」


 


「これ……」


 


 机の上に置いた。


 


 辞職願。


 


 主任はそれを見て、少しだけ目を細めた。


 


 数秒の沈黙。


 


 オフィスの音だけが聞こえる。


 


 そして。


 


 主任は紙を手に取った。


 


「そうか」


 


 それだけだった。


 


「……怒らないんですか」


 


 思わず聞いてしまった。


 


 主任は笑った。


 


「なんで怒る」


 


「仕事途中で……」


 


「途中じゃないよ」


 


 主任は首を振る。


 


「ちゃんとやった」


 


 その言葉で、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 


 主任は続けた。


 


「武道館だろ」


 


 私は驚いた。


 


「……知ってたんですか」


 


「娘がファンだからな」


 


 少し誇らしそうに言う。


 


「毎日曲流れてる」


 


 私は思わず笑った。


 


 主任は立ち上がった。


 


 そして。


 


 私の肩を軽く叩いた。


 


「最後までよく頑張ったな」


 


 その言葉は、とても静かだった。


 


「これからの活躍」


 


 少し間を置く。


 


「応援してるよ」


 


 私は深く頭を下げた。


 


「ありがとうございました」


 


 オフィスを出るとき。


 


 同僚たちがざわついていた。


 


「え?」


 


「辞めるの?」


 


「なんで?」


 


 私は笑った。


 


「ちょっと夢追いに」


 


 その言葉を言ったとき。


 


 胸の奥が、少し軽くなった気がした。


 


 ビルの外に出る。


 


 空が広い。


 


 今まで見ていた空と同じなのに、少し違って見える。


 


 スマホを取り出す。


 


 メッセージを送る。


 


『会社辞めました』


 


 数秒後。


 


 すぐ返信が来た。


 


 美咲


 


『は!?』


 


 そのあとすぐ。


 


 涼


 


『本気なんだね』


 


 そして。


 


 最後に来たのは。


 


 真琴


 


『じゃあ』


 


 短いメッセージ。


 


『今日から地獄』


 


 私は思わず笑った。


 


 その夜。


 


 私はライブハウスへ向かった。


 


 扉を開ける。


 


 そこには、いつもの四人がいた。


 


 真琴がドラムスティックを回しながら言う。


 


「辞めた?」


 


「はい」


 


 数秒の沈黙。


 


 そして。


 


 真琴が小さく頷いた。


 


「覚悟できたね」


 


 美咲が笑う。


 


「ようこそ」


 


 涼も言った。


 


「本当の練習へ」


 


 そして。


 


 沙耶がマイクを差し出した。


 


「じゃあ由紀」


 


 私はそれを受け取る。


 


「はい」


 


「歌おう」


 


 私は深く息を吸った。


 


 この場所で。


 


 この人たちと。


 


 私は歌う。


 


 武道館へ行くために。


 


 もう逃げない。


 


 夢の、その先へ。


 


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