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もう一度、夢を歌う  作者: 明日羽
第二章 : 武道館編
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第六話 会社という現実

 月曜日の朝。


 満員電車の中で、私は吊り革につかまっていた。


 スーツ姿の人たちに囲まれて、押しつぶされそうになりながら揺れている。


 窓の外には、いつもの通勤風景。


 高いビル。

 交差点。

 同じ顔をしたような人の流れ。


 


 数日前まで、これが普通だった。


 


 でも今は違う。


 


 頭の中にあるのは、あの音だ。


 


 ギター。

 ベース。

 ドラム。


 


 そして、ステージのライト。


 


 ――武道館。


 


 電車が駅に止まる。


 人の波に押されてホームへ降りる。


 


 会社のビルが見えたとき、私は少しだけ深呼吸した。


 


「おはようございます」


 


 オフィスのドアを開ける。


 


 いつもと同じ光景。


 パソコンの音。

 電話の呼び出し音。

 コーヒーの匂い。


 


「お、由紀」


 


 声をかけてきたのは主任だった。


 四十代くらいの、落ち着いた人だ。


 


「昨日ライブだったんだって?」


 


 私は一瞬固まった。


 


「……え?」


 


 主任は笑った。


 


「娘がファンでさ」


 


 パソコン画面を見せてくる。


 


 そこにはSNSの画面があった。


 


 ライブハウスの写真。


 


 そして。


 


 ステージの端に写っている――私。


 


「完全に写ってるわけじゃないけど」


 


 主任は楽しそうに言う。


 


「この人、声似てるって娘が騒いでた」


 


 私は言葉に詰まった。


 


「……たまたまです」


 


「そっか」


 


 主任はそれ以上追及しなかった。


 


 ただ一言だけ言った。


 


「面白いな」


 


 その言葉の意味は分からなかった。


 


 午前中の仕事は、ほとんど覚えていない。


 


 資料作成。

 メール返信。

 会議。


 


 全部、身体が勝手に動いている感じだった。


 


 昼休み。


 


 スマホが震えた。


 


 美咲


 


 メッセージだった。


 


『今日も路上やるよ』


 


 その一文だけ。


 


 私は画面を見つめた。


 


 仕事。


 


 路上ライブ。


 


 普通の生活。


 


 武道館。


 


 全部が頭の中でぶつかる。


 


 返信を打つ。


 


『仕事終わりなら行きます』


 


 送信。


 


 その瞬間。


 


「悩んでる顔してるな」


 


 後ろから声がした。


 


 振り向くと主任が立っていた。


 


「え?」


 


「いや」


 


 主任はコーヒーを飲みながら言う。


 


「なんか人生の分岐点みたいな顔してる」


 


 私は苦笑した。


 


「そんな大げさな」


 


「そうか?」


 


 主任は少しだけ真面目な顔になる。


 


「二十七歳ってさ」


 


 コーヒーを机に置く。


 


「大きい選択が来る年なんだよ」


 


 その言葉に、胸が少しだけざわついた。


 


 夕方。


 


 仕事が終わる。


 


 私は会社のビルの前で立ち止まった。


 


 このまま帰れば、普通の生活だ。


 


 でも。


 


 ポケットの中でスマホが震える。


 


 メッセージ。


 


『もう始めてる』


 


 美咲からだった。


 


 私は歩き出した。


 


 向かう先は、駅前の広場。


 


 遠くから、音が聞こえてくる。


 


 ギター。


 


 ベース。


 


 ドラム。


 


 そして。


 


「遅い」


 


 真琴が言った。


 


「すみません」


 


 私はマイクを受け取る。


 


 周りには、昨日より少し多い人がいた。


 


 十人くらい。


 


 私を見て、ざわめく。


 


「昨日の人?」


 


「歌うの?」


 


 


 私はマイクを握る。


 


 深呼吸。


 


 そして歌い出す。


 


 仕事終わりの疲れた声。


 


 でも。


 


 音に乗せる。


 


 歌い終わる。


 


 拍手。


 


 昨日より大きい拍手だった。


 


 そのとき。


 


 真琴が言った。


 


「由紀」


 


「はい」


 


「会社」


 


 私は息を止めた。


 


「どうするの」


 


 その質問は、ずっと避けてきたものだった。


 


 私は答えられない。


 


 でも。


 


 横から沙耶が言った。


 


「まだいいよ」


 


 帽子を深くかぶったまま笑う。


 


「武道館まで三ヶ月」


 


 そして。


 


「それまで悩みな」


 


 私は空を見上げた。


 


 夜の街の光が広がっている。


 


 遠くに、電車の音が聞こえる。


 


 普通の生活。


 


 でも。


 


 胸の奥で、別の音が鳴っている。


 


 ドラムの音。


 


 ギターの音。


 


 そして――


 


 武道館。


 


 私はまだ知らなかった。


 


 この三ヶ月が。


 


 人生を全部変えることになるなんて。


 


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