第三話 足りないもの
翌日。
私は仕事を定時で切り上げると、そのまま電車に飛び乗った。
向かう先は、あのライブハウスだ。
自分でも少しおかしいと思う。
私は広告代理店の会社員で、あのバンドの担当だ。
ファンでも、ましてやメンバーでもない。
それなのに。
昨日の夜から、ずっと胸の奥が落ち着かなかった。
沙耶の言葉が、頭から離れない。
「明日も来る?」
たったそれだけの言葉だった。
でも私は答えてしまった。
――仕事終わりなら。
ライブハウスに着くと、すでにシャッターは半分開いていた。
中からドラムの音が聞こえる。
ドン、ドン、タッ。
ドン、ドン、タッ。
迷っている暇はない。
私は扉を押した。
「お、由紀」
ギターの美咲が最初に気づいた。
ギターを抱えたまま、軽く手を振る。
「ちゃんと来たね」
「お邪魔します」
店の奥では、涼がベースを調整している。
「こんばんは」
静かな声で挨拶を返してくれた。
そして。
ドラムの真琴。
彼女は練習を止めず、ただ一瞬だけこちらを見た。
それだけだった。
「沙耶は?」
私は聞いた。
「喉の治療」
美咲が答える。
「今日はボイトレ行ってる」
つまり、ボーカルはいない。
「じゃあ練習する?」
美咲があっさり言った。
「え」
「昨日歌った曲」
私は戸惑った。
「いや、私は……」
「遠慮しなくていいって」
美咲は笑う。
「むしろ歌ってもらわないと困る」
その言葉で、私はマイクを渡されていた。
昨日と同じ曲。
イントロが始まる。
私は歌い出した。
最初のサビまでは、昨日と同じだった。
声は出る。
音程も外していない。
でも。
途中で分かった。
昨日と違う。
バンドの音が重い。
ドラムのリズムが速い。
ギターもベースも、昨日より音が厚い。
その中で、自分の声が――
負けている。
歌い終わる。
沈黙。
最初に口を開いたのは真琴だった。
「弱い」
短い一言だった。
胸が少しだけ痛む。
「昨日は勢いがあった」
真琴は続けた。
「今日はない」
私は何も言えない。
「由紀」
名前を呼ばれる。
「あなた、歌い手でしょ」
「……昔です」
「じゃあ分かるでしょ」
真琴はスティックを回した。
「ライブは戦い」
その言葉は鋭かった。
「今の声じゃ、バンドに勝てない」
私はマイクを握ったまま立っていた。
悔しい。
でも。
言い返せない。
そのときだった。
「真琴」
涼が静かに言った。
「言い方」
「事実」
真琴は淡々と答える。
「武道館でこれなら事故」
美咲が頭をかいた。
「まあ確かに昨日は奇跡みたいなもんだったし」
私はマイクを置いた。
「すみません」
思わず口に出た。
その瞬間。
真琴の目が少し変わった。
「なんで謝るの」
「え?」
「別に怒ってない」
真琴は言う。
「ただ足りないだけ」
そして。
「だから練習」
その言葉に、私は顔を上げた。
「え?」
「由紀」
真琴はドラムから降りた。
「もう一回」
マイクを指さす。
「今度は叫ぶくらいで歌って」
「……はい」
私はマイクを握る。
イントロ。
今度は考えない。
ただ声を出す。
サビ。
昨日より、強く。
歌い終える。
真琴が小さく頷いた。
「今の方がいい」
美咲が笑う。
「おー、真琴が褒めた」
「褒めてない」
「いや褒めてるでしょそれ」
少しだけ空気が軽くなる。
そのとき。
真琴が突然言った。
「由紀」
「はい」
「明日、路上」
「……え?」
「路上ライブ」
真琴は真顔だった。
「毎日」
私は固まった。
「武道館まで三ヶ月」
真琴は続ける。
「三ヶ月で声作るなら、それしかない」
美咲が笑う。
「スパルタだねぇ」
涼も小さく笑った。
そして真琴は最後に言った。
「逃げるなら今」
真っ直ぐな目だった。
「本気なら」
少しだけ間を置く。
「付き合う」
私は答えた。
「……やります」
自分でも驚くくらい、すぐに出た言葉だった。
真琴は小さく頷いた。
そして。
「じゃあ明日」
ドラムスティックを回す。
「地獄の始まり」
その横で。
美咲が笑いながら言った。
「由紀」
「はい」
「バンドってね」
少し間を置く。
「めちゃくちゃ楽しいよ」
その言葉を聞いたとき。
私は初めて思った。
もしかしたら。
本当に。
武道館に立てるかもしれない。
この人たちとなら。




