第二話 名前を呼ばれる距離
ライブハウスの照明が落ちると、さっきまでの熱気が嘘みたいに静かになった。
客はもう帰り始めている。
ステージの上ではスタッフが機材を片付けていた。
私は、まだ少しぼんやりしたまま立っていた。
歌った。
それは確かだ。
でも、それがどういう意味なのか、まだ頭が整理できていない。
「ぼーっとしてるね」
後ろから声をかけられた。
振り向くと、ギターの美咲が立っていた。
タオルで汗を拭きながら、にやっと笑う。
「初ライブどうだった?」
「初ライブって……」
私は苦笑した。
「代打ですよ」
「代打でもステージはステージでしょ」
美咲はそう言って肩をすくめた。
「しかも武道館決まってるバンドの」
その言葉に、また現実が押し寄せてくる。
武道館。
さっき沙耶が言った言葉。
武道館まで連れていく。
まるで冗談みたいだった。
でも、あの人は冗談で言う顔じゃなかった。
「ところでさ」
美咲がふと思い出したように言う。
「名前、なんだっけ?」
あ、と声が出そうになった。
確かに名刺は渡した。
でも、こんな状況になって、ちゃんと自己紹介した覚えがない。
「……由紀です」
自分の名前を口にする。
「由紀?」
後ろから別の声がした。
振り向くと、ベースの涼が近づいてきていた。
「いい名前」
静かな声だった。
「雪みたいで」
「よく言われます」
正直なところ、少し恥ずかしかった。
すると美咲が笑う。
「じゃあ、由紀ちゃんだね」
「ちゃん!?」
「いいじゃん別に」
軽い調子で言う。
「私は美咲。もう言ったけど」
「はい」
「こっちは涼」
涼が軽く手を挙げる。
「で、あっちが真琴」
視線の先。
ドラムの真琴は、まだ機材の片付けをしていた。
こちらを見ることもない。
やっぱり距離がある。
「気にしないでいいよ」
美咲が小声で言う。
「真琴、ああいう人だから」
「……怒ってます?」
「怒ってるっていうか」
美咲は少し考える。
「バンドにめちゃくちゃ本気なだけ」
その言葉は、少し重かった。
そこへ沙耶がやってきた。
喉のマフラーをまだ巻いている。
「由紀」
いきなり名前を呼ばれて、少し驚いた。
「はい」
「今日ありがとね」
沙耶は笑った。
「おかげでライブ成立した」
「いえ……」
「それでさ」
少しだけ真面目な顔になる。
「昨日、路上で歌ってたんでしょ?」
「……はい」
「なんで?」
その質問は、まっすぐだった。
私は少し迷ってから答えた。
「……ヤケ酒の帰りです」
一瞬、沈黙。
そして。
「ぶはっ!」
美咲が吹き出した。
「なにそれ!」
涼も笑っている。
沙耶も肩を震わせていた。
「面白い人だね、由紀」
「いや、面白くないです……」
顔が熱くなる。
でも。
その空気が、少しだけ心地よかった。
そのときだった。
「沙耶」
低い声。
振り向くと、真琴が立っていた。
「練習」
それだけ言う。
沙耶は苦笑した。
「今日くらい休ませてよ」
「武道館まで三ヶ月」
真琴は淡々と言った。
「時間ない」
空気が少し張り詰める。
そして。
真琴の視線が、私に向いた。
「由紀」
名前を呼ばれた。
「はい」
「さっきの歌」
私は息を止めた。
「うまい」
少しだけ驚く。
でも次の言葉は予想通りだった。
「でも」
「覚悟ないならやめたほうがいい」
真琴は真っ直ぐ言った。
「武道館、遊びじゃない」
胸の奥が少し痛む。
でも、言い返す言葉は出なかった。
なぜなら。
たぶん、その通りだから。
私は会社員だ。
明日も仕事がある。
広告代理店の担当として、ここにいるだけ。
なのに。
なぜか、この場所から離れたくないと思っている。
自分でも理由は分からなかった。
真琴はそれ以上何も言わず、ドラムの方へ戻っていった。
残された空気を、美咲が壊す。
「気にしないでいいって!」
「真琴あれでも優しいから」
「優しい……?」
「うん」
涼が静かに言う。
「本当に嫌いなら」
少し間を置く。
「名前すら聞かない」
その言葉を聞いて、私は少しだけ救われた気がした。
沙耶が私を見る。
「ねえ、由紀」
「はい」
「明日も来る?」
簡単な質問だった。
でも、私の中では重かった。
会社。
仕事。
普通の生活。
それと。
このバンド。
少し迷ってから、私は言った。
「……仕事終わりなら」
沙耶が笑った。
「十分」
美咲が手を叩く。
「よし決まり!」
涼も小さく頷く。
そして遠くで。
真琴がドラムスティックを回していた。
その横顔は、まだ少しだけ厳しかった。
でも私は思った。
もしかしたら。
この人たちとなら――
もう一度、歌えるかもしれない。
夢だったものを。
今度こそ。
本気で。
武道館まで。




