第一話 代打ボーカル
最初に異変に気づいたのは、イントロが終わったときだった。
ライブハウスの空気が変わっていた。
さっきまで聞こえていたざわめきが、消えている。
客席には三十人ほどの観客。
この店の常連らしく、皆メンバーのTシャツを着ていた。
本来なら、ここに立っているのは私じゃない。
私はただの会社員だ。
広告代理店で働く、どこにでもいる二十七歳。
なのに今、私はステージの真ん中でマイクを握っている。
理由は単純だった。
ボーカルが喉を壊したから。
そして私が――
昨日、路上ライブで歌ったから。
イントロが終わる。
もう逃げられない。
歌い出した。
自分でも驚くほど声が出た。
客席の何人かが顔を見合わせている。
知らない人が、知らない声で、自分たちの好きな曲を歌っている。
それでも私は歌った。
途中から、余計なことを考えるのをやめた。
ただ、音に合わせて声を出す。
曲が終わる。
沈黙。
そして、拍手。
歓声が上がった。
ステージ袖に戻ると、最初に笑ったのはギターだった。
「やば」
茶色いショートヘアの女性が、肩を震わせている。
「普通にうまいじゃん」
「いや、普通じゃないでしょ」
ベースが腕を組んだまま言う。
長い黒髪の、落ち着いた雰囲気の人だった。
「昨日の路上の時も思ったけど、声が強い」
「……ありがとう、ございます」
状況についていけないまま頭を下げる。
すると奥から声がした。
「ね?」
ソファに座っていた女性が、満足そうに笑った。
マネージャーだ。
「言ったでしょ、連れてきて正解だったって」
そして。
「改めて紹介するね」
彼女はメンバーを指差した。
「ギターの美咲」
「どうもー」
軽く手を振る。
人懐っこい笑顔だった。
「ベースの涼」
黒髪の女性が小さく頭を下げる。
「よろしく」
声は静かだけど、目が鋭い。
「ドラムの真琴」
ドラムセットの後ろから顔を出した女性は、短い黒髪で、腕を組んでいた。
そして私をじっと見る。
最後に。
「で、ボーカルの沙耶」
声のした方を見ると、椅子に座った女性が笑っていた。
喉にマフラーを巻いている。
このバンドの顔。
今もっとも人気の女性ロックバンドのボーカル。
「さっきはありがとう」
沙耶は少しかすれた声で言った。
「助かった」
「いえ、私は……」
言葉が続かない。
すると、ドラムの真琴が口を開いた。
「で?」
短い一言だった。
「何?」
ギターの美咲が聞く。
真琴は私を見たまま言った。
「この人、どうするの」
空気が少し変わる。
マネージャーが笑う。
「どうするって?」
「ボーカルの代わりに呼んだだけ?」
真琴の声は冷静だった。
「それとも」
少し間を置く。
「本気で入れるつもり?」
私の心臓が跳ねた。
「ちょっと真琴」
美咲が苦笑する。
「いきなりそれ?」
でも、真琴は視線を外さない。
「バンドは遊びじゃない」
静かな声だった。
「武道館、決まってるんだよ」
私は言葉を失った。
武道館。
改めてその言葉の重さを感じる。
沙耶が小さく笑った。
「怖いでしょ、この子」
真琴は無表情のままだ。
「私は反対でも賛成でもない」
真琴は続ける。
「ただ聞いてるだけ」
そして私を見た。
「あなたはどうなの」
突然の質問だった。
「え?」
「歌うの、好き?」
言葉に詰まる。
好きか。
好きだった。
中学生の頃から、ずっと。
でも。
「……今は、仕事があります」
やっと出た答えは、それだった。
沈黙。
そして。
「そっか」
真琴はそれだけ言った。
でも、次の言葉は鋭かった。
「じゃあ無理だね」
胸が、少し痛んだ。
その空気を破ったのは美咲だった。
「まあまあ!」
手を叩く。
「とりあえず今日は打ち上げしよ!」
「話重すぎ!」
ベースの涼も苦笑する。
「確かに」
沙耶が私を見る。
「でもさ」
「もう一回歌わない?」
「え?」
「せっかくだし」
沙耶はいたずらっぽく笑った。
「今度は本気で」
気づけば、私はまたステージに立っていた。
メンバーが演奏を始める。
さっきより音が大きい。
ギターの美咲は笑いながら弾いている。
ベースの涼は安定したリズムを刻んでいる。
ドラムの真琴は無駄のない動きでリズムを叩き出す。
そして、沙耶は袖から見ていた。
私は歌った。
今度は、観客の顔がよく見えた。
みんな笑っていた。
歌い終わる。
歓声。
拍手。
そしてステージ袖で、沙耶が言った。
「決めた」
メンバーが振り向く。
「この子、武道館まで連れてく」
真琴が眉をひそめた。
「本気?」
沙耶は笑う。
「うん」
そして私を見る。
「会社辞める覚悟、ある?」
私は答えられなかった。
ただ一つだけ分かった。
この日。
私の人生は、少しだけ動き始めていた。
――武道館に向かって。




