第九話 武道館前夜
武道館の客席は、まだ空だった。
ステージの上に立つと、照明の光がまぶしい。
私はマイクを握ったまま、客席を見つめていた。
何千という椅子。
まだ誰も座っていないのに、なぜか視線を感じる。
ここで歌う。
本当に?
心臓が早くなる。
「緊張してる?」
後ろから声がした。
振り向くと、真琴がいた。
ドラムスティックをくるくる回している。
「少しだけ」
「嘘だ」
私は苦笑する。
「すごくです」
真琴はステージの端に座った。
「普通だよ」
少し間を置く。
「私も最初は吐きそうだった」
「真琴さんでも?」
「当たり前」
真琴は客席を見渡した。
「ここに立つために」
「十年かかった」
その言葉は、静かだった。
「私たちさ」
真琴は続ける。
「何回も諦めかけた」
私は黙って聞いていた。
「ライブハウス四人」
「客ゼロ」
「借金」
真琴は笑った。
「それでも辞めなかった」
そして。
私を見る。
「なんでだと思う?」
私は少し考える。
「……音楽が好きだから?」
「違う」
即答だった。
「この四人でやりたかったから」
私は驚いた。
そのとき。
「聞こえてるぞー」
客席から声がした。
美咲だった。
ベースを肩にかけている。
「感動話ならもっとかっこよく言え」
その後ろから涼が出てきた。
「録音しとけばよかった」
「やめて」
真琴が笑う。
そして。
沙耶が最後にステージへ上がった。
「五人だね」
その言葉に、私は少し驚いた。
沙耶はマイクを持った。
「前は四人」
「今は五人」
少しだけ笑う。
「この方がいい」
胸の奥が少し熱くなる。
そのとき。
スタッフが近づいてきた。
「明日のスケジュールです」
紙を渡される。
私はそれを見た。
リハーサル。
機材チェック。
音響調整。
そして。
開場 17:00
その文字を見た瞬間。
現実が一気に押し寄せてきた。
客が入る。
本当に。
満員の。
武道館。
「怖い?」
隣で美咲が聞いた。
「……はい」
私は正直に言った。
美咲は笑う。
「私も」
涼も言った。
「私も」
沙耶も小さく頷く。
「私も」
そして。
真琴。
「私も」
私は驚いた。
「でも」
真琴はドラムスティックを構える。
「怖い方がいい」
「なんでですか」
「それだけ本気だから」
私はステージの中央を見る。
明日。
ここに立つ。
何千人の前で。
歌う。
その夜。
私たちはスタジオで最後の練習をした。
何度も。
何度も。
同じ曲を繰り返す。
汗が床に落ちる。
声が枯れる。
それでも。
誰も止めない。
最後の曲が終わったとき。
スタジオは静かだった。
私は壁にもたれた。
息が荒い。
すると。
沙耶が私の横に座った。
「由紀」
「はい」
「後悔してる?」
私は首を振った。
「してません」
少しだけ考えてから言う。
「怖いですけど」
「でも」
私は笑った。
「ここに来れて良かったです」
沙耶は小さく笑う。
「良かった」
スタジオの時計を見る。
23:48
武道館まで。
あと。
18時間。
私は目を閉じた。
思い出す。
会社。
歌っていた夜。
この四人と出会った日。
すべてが繋がって。
ここに来た。
そして。
真琴が静かに言った。
「明日」
全員が見る。
「武道館、取るぞ」
私は強く頷いた。
「はい」
夢はもう。
目の前にある。




