元聖女エリシアは旅がしたい
――聖女、エリシア・ラ=ベルグ。
その名は、かつて神殿の光とまで呼ばれた。
けれど、その光はある日、あっけなく消されることになる。
「本日をもって、あなたを聖女の任より外す」
神殿長の冷たい声が響いた。
隣で、金髪の完璧な聖女――マリサが、唇の端をわずかに持ち上げた。
ああ、そういうことか。
エリシアは悟った。これは“追放劇”だ。
マリサは昔から狡猾だった。
エリシアが恋心を寄せていた神官騎士レオンと付き合い始めたときも、自分の交際関係を隠し、エリシアの恋心を利用しては
「ほら、それでは恋している殿方に振られてしまいますよ?」
「あらあら、それでは騎士様とハッピーな結婚はできませんよ?」などとさもレオンと結婚できるかのような口ぶりをしては、他の聖女たちと嘲笑っていた。
それでいで、自分は「嘘はついていない、いじめはしていない」が口癖だった。
エリシアだけをのけものにして、買収された神官も一緒になって、二人の交際に緘口令を強いていたにもかかわらず、だ。
その一方で、2年前の1度目の断罪劇で、マリサとレオンは大々的に婚約発表をしたーー
町中の楽団と劇団を買収して、祝いの頭で作らせていた。
それを知った日のエリシアは――初めて人に手を上げた。
「あなたは卑怯よ、マリサ」
その時の音、乾いた“パシン”が、今もマリサの頬に残っているらしい。
「何を言ってるの? 私はただ言わなかっただけ。あなたは先に手を挙げたから、この先懲罰を受けるわね」
「付き合ってるのを隠すことも十分いじめじゃない。他の聖女へのやっかみも処罰対象のはずだわ」
だが、マリサは懲罰を受けなかった。
神官たちは全て元貴族であるマリサとレオンのとりなしで買収済みだったのだ。
結局マリサとレオンはこの件が明るみになり、交際は取りやめたらしいが、マリサと対エリシアという構図だけは残っていた。そこを神殿勢力に利用されているのだ。
エリシアは平民だが、その血には、古き“天の魔女”の血脈が流れている。
彼女を追放し、外部の魔族や異国の貴族に拾わせれば――新たな戦争の火種となる。
それを口実に、神殿は「正義の軍」を組めるのだ。
神殿を中心とした新しい勢力構築を目論むマリサと神官たちがそれを目論んでいることくらいはエリシアにも容易に想像ができた。
誰が好んで世界のヒール役など買って出るのだろう。
「……めんどくさいわねぇ」
荷物をまとめながら、エリシアはため息をついた。
神殿の陰謀? 戦争? どうでもいい。
彼女はずっと前から――ただ旅がしたかった。
誰にも祈らず、誰にも縛られず。
草原を抜け、海を見て、美味しいものを食べて眠る。
それだけで十分だった。
問題は旅費だけだったが、そこは手際よく解決した。
とある資産家の若き貴族、ローレン伯爵。
「元聖女の君を妻に迎えられるなら、資金など惜しくない」と言われ、エリシアは微笑んだ。
「いいわ。ただし、形だけの結婚よ。あなたのことは好きじゃないの」
伯爵は快くうなずいた。
そんな奇妙な契約婚を結び、エリシアは自由の身になった。
旅の供には、元神殿騎士のセルスがついてきた。
彼はもともとエリシアの護衛であり、今も彼女の安全を第一に考えている。
「……エリシア様、神殿からの追っ手が来るかもしれません」
「来たら来たで、歓迎してあげるわ。どうせ暇だし」
「暇……ですか」
「だって、ほら。見て、この屋台の串焼き! 美味しそうじゃない!」
彼女の目は、戦火でも陰謀でもなく、焼きたての肉と香辛料の匂いに輝いていた。
セルスはため息をつきながらも、結局一口もらう。
「……本当に、追放されたのが惜しい方ですね」
「そう? 私は今が一番幸せよ」
エリシアは笑って空を見上げた。
その瞳には、神々の加護も、聖女の使命も、もう映ってはいない。ただ、自由な旅人としての日々だけがあった。
その頃、神殿では。
「……え、まだ戦争、起きてないの?」
「は、はい。元聖女はなぜか各地の名物を食べ歩いているそうで……」
「ちょっと! どこの情報網!? もっと“魔族と通じた”とか流しなさいよ!!」
マリサが顔を真っ赤にして怒鳴る。
あれだけ市井に違法に神殿に寄付されたお金を使って、少女小説でエリシアが断罪される様子や、マリサがモデルで新興貴族の金持ちの青年と結ばれる歌劇を流しているというのに!
それを見たエリシアが怒って、戦争を仕掛けてくるのを期待していたのに!
だが、その報告書の隅にはこう書かれていた。
元聖女エリシア、現在トローネ港にて“神殿の魚介税”を笑いながら批判。
――追放した聖女、ただの旅人気分で各地を回る。
その笑顔に、人々は小さな希望を見出していた。
皮肉にも、彼女こそが「本当の聖女」と呼ばれるようになるのは、もう少し先の話である。




