第54話 傷心
桐太はまた、ペッと血を吐き出した。それから、
「いて」
と、ほっぺたを押さえた。
「自業自得だ…」
蘭がぽつりとそう言うと、
「うっせえ」
とまた、桐太は蘭を睨んだ。
「勝手に聖君に嫉妬して、聖君の彼女に手を出そうとしてるなんて、最低じゃん」
蘭は、睨み返しながらそう言った。
「聖に嫉妬?俺が?してねえよ」
「してるじゃん。思い切り。それで適わなくって悔しがっているんでしょ?」
「は?俺が?」
桐太は、蘭のことを見て、鼻で笑った。
「もういい加減、認めたら?あんた、聖君にどうやったって、勝てないよ」
蘭は冷ややかにそう言った。
私は葉君が前、聖君に言ったことを思い出した。聖は俺にないものをいっぱい持ってる。俺は聖にはなれない。
だけど、聖君は、葉君には葉君のよさがあって、俺になる必要なんてないって言ってた。きっとここにいたら、桐太にも同じこと言うかな。
「比べる必要なんてないのに」
私はぼそってそう言った。
「え?」
桐太は私の方を見た。
「最初から桐太君と聖君は、違うんだもん。違ってていいんだもん」
そう言うと、また桐太は、ものすごい顔で私を睨み、
「そんなのわかってるよ、あんたに言われなくてもな!」
と大きな声を上げた。それからまた、ペッと血が混じったつばを吐くと桐太は、
「聖は兄貴に似てる」
と、突然そんなことを言った。
「え?」
「兄貴は頭も良くて、優しくて、女にも男にももてた。それが俺の自慢だった」
自慢?
「でも、親はそんな兄貴と俺を、いつも比べてた。うぜえったらなかった。説教をいつもしてきた。兄貴は違ってた。お前はそのままでいいし、俺みたいにならなくてもいいし、お前にはお前のよさがあるんだからって言ってくれてた」
「そ、そうだったんだ」
私は思わず、そう口にしていた。
「兄貴は、親の期待を思い切り背負ってた。自分がやりたかったことも我慢して、一流の大学に行き、エリートの道を歩き出した」
蘭も、蘭の友達も静かに聞いていた。
「だけど、2年前、いきなり会社を辞めて、アラスカに行っちまった」
「アラスカ?」
私が聞くと、
「写真撮りにさ。オーロラや、動物の写真。兄貴は昔から写真を撮るのが好きで、写真家になりたかったんだ」
と、桐太は話を始めた。
「俺はそんな兄貴も、尊敬してるけど、親は兄貴はもう駄目だって見離した。それから、俺に一気に期待し始めた」
「……」
「冗談じゃねえ。それまで、見向きもしなかったくせに。俺も兄貴もあいつらの道具でも、おもちゃでもねえ」
そうか…。そんなことが…。
「聖君と似ているって、どういうところが似てるのよ」
蘭が聞いた。
「あいつを知ったのは、小学校の頃だ。違うクラスだったけど、いつも人気があって、あいつの周りには男子が集まってた。中学になってからも、あいつはいつも、輪の中心にいた。勉強もできていたし、スポーツも万能だし、なにしろ、友達思いのすげえいいやつだって、そんなうわさもあった」
聖君が…?
「中2になって、初めて同じクラスになって、俺は嬉しかった。すぐに友達になった。くったくがなくて、一緒にいると楽しいし、気が楽だった。あいつは、俺のこと気に入ってたし、他のやつに嫌われることがあっても、聖だけは、そのままでいいじゃんって言ってくれた」
「……」
「親に兄と比べられてるって言った時も、関係ないって。そんなの言わせときゃいいってさ。お前のよさをわかってるやつは、ちゃんとわかってくれるよって」
そんなこと聖君が。でも、なんでそんなに仲良かったのに、今は、こんななの?
「聖君のこと、好きだったんだ。友達でいるのも嬉しかったのに、なんで、今は苦しめるようなことしてんの?」
蘭が私が思ってたことを、聞いてくれた。
「中2になって、聖は背も伸びだした。声変わりもして、それまで、聖に見向きもしなかった女子たちが、騒ぎ出した。聖の周りにちょろちょろとやってきて、すげえうざかった」
「え?」
私も蘭も、思わず、聞き返していた。
「特に聖と付き合った女。聖と付き合ってることを、他の女子に自慢してた。たいした女じゃないのに、彼女気取りして、腹が立った。聖のよさも何もわかってないくせに、自慢がしたいだけで、付き合うようなそんな女。聖とは釣り合わない。だから、聖と別れるように仕向けた」
「仕向けた?」
「ちょっかいだした。その頃、俺もなんか女子から人気出てたし。そうしたら簡単になびいた。それで、聖ともあっさりと別れたよ」
「……」
私は頭が真っ白だった。蘭は、
「ちょっと待って。じゃ、女の子の方に嫉妬してたってわけ?」
と、聞いた。
「嫉妬とかそんなんじゃねえよ!聖には、もっと聖のことを理解して、もっとすげえ女じゃないと駄目なんだよ」
「駄目って?」
「俺が許せないんだよ」
「……。もしかして、聖君のことが、すごく、好き?」
私は思わず、そう聞いていた。
「もしかして、わざと聖君にちょっかいだしたり、かまって欲しくて、悪さしてるの?」
「ちげえよ!そこまで、ガキじゃねえ!」
だけど、そう言う桐太の顔つきは、子供のようだった。
「あいつは、俺があいつと付き合ってた子にちょっかいだしたあたりから、俺にとやかく言うようになった。そういうのやめろよとか、だんだんと俺のこと否定するようになった」
「え?」
「それまでは、俺のことをそのまま、受け入れてくれてた。だけど、だんだんと、親父たちみたいに、説教するようになった」
「でも、それは聖君が桐太のことを思って」
「そんな偽善いらねえんだよ。だけど、もし、もし本当に俺のこと思ってるなら、なんで最後まで、かかわらねえんだよ?途中であいつは、いきなり俺のことをほっぽりだした」
ああ。そういえば、何を言っても大きなお世話だって言うようになって、かまうのをやめたって言ってたっけ。
「聖は、愛想つかしたんだ。俺に」
「ちょ、何それ?まるで、付き合ってた恋人どおしみたいな言い方」
蘭が、呆れ気味にそう言った。
「うっせえ!女っていっつもそういうふうに、茶化してくる。うぜえんだよ」
「……。そういうの、聖君には言ってないんだよね?」
私がそう言うと、
「言うかよ!」
と、桐太はぷいと横を向いて言った。
「言えばいいのに」
「え?」
「聖君に思ってること、ぶつけたらいいのに。きっと、受け止めるよ」
「まさか。一回投げ出したんだぜ、あいつは」
「……。そうかな。聖君にあれこれ言われて、逃げたのは桐太君の方じゃないの?」
「え?」
「だって、大きなお世話だって言って、逃げたんでしょ?聖君それで、何も言わなくなったみたい。いつか、自分でいろいろと気づく時が来るだろうから、俺があれこれ言うことじゃなかったんだって、そんなことこの前言ってたもん」
「……」
桐太は、そっぽ向いていたけど、耳だけは傾けていた。
「桐太君にも、そのままを受け止める人が現れたら、きっと変わるんだろうなって言ってたよ」
「……」
桐太はまだ、黙っていた。それから、私の方をゆっくりと向いた。
「まず、あんたにちょっかいだしたことを、聖は許さないだろうな。俺と口も聞きたくないんじゃないの?」
「……。2、3発殴られるかもしれないよね。でも、一回は私が殴ってあるから、2発くらいで済むかもよ?」
私がそう言うと、
「変な女」
と、桐太はぼそっとそう言って、
「でも、あんたのことは認めてやるよ」
と、そんなことを言ってきた。
「え?」
「聖の彼女、認めてやるよ。あんたは聖のことを本気で、大事に思ってるし、聖のことしっかりと、理解してるみたいだからさ」
「……。もしかして、私にちょっかい出してきたのは、果林さんのことが原因じゃないの?」
「ああ、それもちょっとはあるけど、それより、あんたみたいなやつが、聖に似合うわけないって思ってたから。別れさせようと思ってた」
桐太はそう言うと、
「でも、すげえ根性あるし、強いし、合格かもな」
と、口元に笑みをうかべた。
「なんであんたなんかに、認められないとならないのよ!桃子のことを聖君が認めてるんだから、それをあんたも認めたらいいじゃん!」
「……。蘭って言ったっけ?あんたもそこまで、桃子ちゃんのことを守ろうとしたりするのは、そんだけ、桃子ちゃんを認めてるからだろ?」
「当たり前じゃん。友達なんだから」
「ふん。友達からそんなふうに思われてる女だから、ますます合格かもな」
「え?」
「果林は、最低だった。人の男取っても平気なやつ。俺と同類。だから、付き合ってた」
「同類だから?」
私が驚いて聞くと、
「そう。だから、楽だよ。あとくされもなく付き合えるし、さっさと別れようが、嫌われようが、俺は傷つかないですむ」
「それ、最低」
蘭がそう言うと、
「ああ、そうだよ。それにあいつも最低な女だよ。俺のことなんて本当は好きでもなんでもない。ブランドもののバッグ程度にしか思ってないよ」
「それがわかってて、なんで付き合ってたの?」
私が聞くと、
「本気になると、苦しいから。裏切られた時や、嫌われた時、悔しいし、傷つくから」
と、桐太は言った。
聖君がいきなり、桐太をほっとくようになったこと、トラウマになっているんだろうか。自分が好きな相手から、いきなり、背中を向けられる。その傷はまだ癒えていなくて、それで、どうでもいい関係だけを望むようになる。
深入りはしない。自分と同じような人を、そばにおく。離れても傷つかないよう、好きにならないようにする。
大事にすることもわざとしない。大事にしていたのに、裏切られたら怖いから。
なんだか、わかる気がする。わざとそうやって、友情も愛情も、自分の手に入らないようにして、傷つかないよう、ふたを閉め、表面だけで生きていくようになった桐太。
「聖君、本気で怒ってやってくるよ」
「え?」
「本気で、桐太君に立ち向かってくるよ。今頃すでに、電車に乗ってるかも」
「……」
桐太は黙った。
「本気でぶつかってくるよ。逃げないし、真正面からやってくる」
「聖が?」
「うん。だから、桐太君も本気で、ぶつかったら?」
「俺が?」
「……うん」
「そうだな」
桐太は、そう言うと、またほっぺたを押さえた。
「でも、これ以上は、歯、折れたくないな」
蘭がいきなり、携帯に出て、話をしだした。
「あ!聖君?え?桃子?いるよ」
聖君から?
私が電話に出ると、
「桃子ちゃん!大丈夫なの?」
といきなり聖君が、息を切らして聞いてきた。
「うん、大丈夫」
でもないかな。実はさっきから、足はがくがくしている。
殴っちゃったこともだけど、本当は、キスされたこと、めちゃくちゃ、ショックだった。隠して、平静を保とうとして、今、がんばっているところで、張り詰めてる糸が切れたら、へなへなと座り込み、思い切り声を上げて、泣いてしまいそうだ。
「まだ、あいつそこにいる?」
「うん」
「まじで、桃子ちゃん、殴ったの?」
「うん」
やばい。聖君の声を聞いてると、心が弱くなっていく。聖君!って甘えたくなる。
「もう江ノ島の駅だから。これから電車乗ってそっちに行く。とにかく、桃子ちゃんは家に帰って。あ、蘭ちゃんに送ってもらって。あいつからは、もう離れて!」
「え?聖君は?」
「桃子ちゃんの家に行く」
「き、桐太君には?」
「そのあと、会いに行く。ぼこぼこにしてやる」
「え?」
私の方が血の気が引いた。
「でも、もうすでに、一本歯、折れてて」
「俺が全部へし折ってやる」
……。怒りマックスだ。鎮められそうにないかも。
「じゃ、家にいる」
「うん。待ってて!駆けつけるから。ね?」
「うん…」
電話を切った。
「聖君、来るの?」
蘭が聞いてきた。
「うん。家にもう帰りなって。蘭に送ってもらってって言ってた」
「いいよ、送ってく」
「なんだよ?俺を殴りに来るんじゃないのかよ?」
桐太がそう言った。
「桐太君、今日は会わない方がいいかも」
私がそう言うと、桐太は、
「なんで?」
と聞いてきた。
「怒りがマックスになってて、ぼこぼこにして、全部の歯をへし折ってやるって言ってたから」
と、私が言うと、さすがの桐太も、顔を青ざめた。
「私の家に来てから、桐太の家にも行くって言ってた」
「お、俺の家、知らないじゃん」
「今頃、果林さんあたりに聞いてるかも」
「……」
桐太はもっと、青ざめた。
「あ~あ。本気で怒らせた。だから言ったじゃん。ただじゃすまされないって」
蘭がそう言うと、蘭の友達が、
「自業自得ってやつでしょ?いい気味。一回、ぼこぼこにされた方がいいんじゃない?」
と冷たく言った。
「桃子、家まで送る」
蘭は私の背中に手を回し、歩き出した。私は、ちょっと歩いてから、後ろを振り返り、
「怒りマックスだけど、桐太君のところに行くまでには、怒りが減るようにしてみるよ」
とそう言った。
「え~~?いいじゃん、桃子。あいつなんてどうなっても。桃子にキスしてきたようなやつだよ?私もぼこぼこにしてやりたいわ」
蘭はそう言ったが、
「だって、聖君にそんなことさせたくないんだもん」
と私が言うと、蘭は、
「あ、なるほど。聖君思いの桃子なんだっけね」
と、笑いながらそう言った。
桐太は何も言わず、その場を立ち去った。もしかすると、そのままどこかへとんずらするかもしれないし、聖君と真正面から、ぶつかっていくかもしれない。それはわからないけど、それも、桐太本人が決めることだ。
それよりも私は、聖君が少し怖かった。もしかして、桐太にキスをされたこと、めちゃくちゃ怒ってないだろうか。
そして、桐太にキスされた時のことを思い出すと、鳥肌が立ち、寒気がしてきて、気持ちがどんどん重くなっていった。